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32型テレビが繋g...(略)~手取り15万、現代物資(10秒制限)で成り上がる~  作者: ひろボ


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シャッターの音

 車を降りた瞬間、潮の匂いがすっと遠のいた。代わりに、冷えたコンクリの匂いと、どこかの洗剤みたいな匂いが鼻の奥に残る。波の音も、湿った風もない。


 ――帰ってきた。


 そう思うより先に、体が勝手に“いつもの夜”へ切り替わっていく。駐車場の白線。隣の車のドアが閉まる音。遠くの室外機のうなり。生活の音が、ひとつずつ戻ってくる。


 美咲さんは助手席側から荷物を回収して、俺たちに視線だけ寄こした。軽いのに、逃げ道を塞ぐ目だ。


「今日はここまで。二人とも身体を冷やさない。温めて寝る。……ここ大事」


「ありがとうございました。今日は……楽しかったです」


 口が先に動いた。自分でも意外なくらい、ちゃんとした言葉になってる。


 美咲さんは「それはよかった」とだけ笑って、すぐ表情を切り替える。仕事の切り替えじゃない。俺らを生活側に戻すための切り替えだ。


「直輝くん。明日、サロンの予約入ってるよね」


「……入ってます」


「お客さん、まだかまだかって待ってるよ。首、もうキリン」


「キリンはともかく……」


「ともかくじゃない。明日終わったら、まっすぐ帰る。寄り道なし。いいね」


 返事が遅れたのが自分でも分かって、喉の奥が乾く。俺は一度息を吸ってから、言い直した。


「……はい。寄り道しない」


 美咲さんはそこで声を少し落とす。近所に聞かせないための配慮のはずなのに、距離だけが近くなる。


「それと。さっきの“頼み”、ちゃんと控えた。……直輝くん、あとで」


 心臓が一回だけ跳ねた。


 水族館の売店。美咲さんが何気ない顔のまま、リヴの指を“すっと”確かめたやつ。自然すぎて、反則だ。


「……はい」


 それ以上言うと顔に出る。分かってるから、飲み込むしかない。


 リヴが首をかしげて、俺のほうを見る。


「よやく?」


「明日、お店に来るって約束」


「……やくそく」


 リヴはその言葉を口の中で転がして、ゆっくり頷いた。海の前で黙ってた時と同じ顔だ。大事なものを雑に扱わない顔。


 美咲さんが車のドアを閉め、最後に一本だけ釘を刺していく。


「帰ったら温めて寝る。ね、二人とも」


「はい。温めて寝ます」


「うん。温める」


「よし。おやすみ」


 エンジン音が遠ざかって、テールランプが角を曲がって消えるまで、リヴはじっと見送っていた。


「……いった」


「行ったな」


「ミサキ、こわい」


「分かる」


 そう言い合って、ようやく肩の力が抜けた。海の時間が終わって、生活の時間が始まる。


 鍵を回してドアを開けた瞬間、部屋の暗さが目に入って――視線が勝手にテレビへ走った。


 黒い画面。電源の落ちた反射。枠の角の小さな欠け。ただの家電。……のはずだ。


 足が、少しだけ前へ出かける。


「ナオキ」


 背後から低い声。止めるときの声。


 俺は止まった。止まれた。


「……見ない」


 自分の口で線を引く。今日はそれでいい。


 リヴが俺の袖を軽く掴む。引っ張らない。ただ、戻す。


「戻る」


「……うん」


 灯りをつけると、黒はただの黒に戻った。息が長く出て、胸の奥がようやく動く。


「さむい」


「上着脱げ。温かいの入れる」


「うん。……温める」


 その言い方が、今日の海の続きみたいで、胸の奥がほどけた。


 リヴはフードを外してキッチンへ向かう。戸棚を開け、冷蔵庫を覗く。迷いがない。生活の手つきだ。


「ナオキ」


「ん?」


「明日……おみせ、あける?」


「あける。午前だけ」


「まっすぐ、かえる?」


「帰る。寄り道しない」


「……やくそく」


「約束」


 短いやり取りなのに、今日いちばん効いた。“寄り道”が、明日の工程で上書きされる。


 暗い部屋でスマホが小さく震えた。


 見るな、と思ったのに、手が先に掴んでいた。画面に出た名前を見ただけで、胸がまた跳ねる。美咲さんだ。


『さっきの件。リヴちゃん、だいたい【○号】くらい。内緒ね。』

『念のため少し余裕みて』


 指先が熱い。……最悪。


 画面を閉じて、すぐロックする。深呼吸を一回。逃げたくない。でも暴走もしたくない。


 メモを開いて、短く残す。余計な言葉は足さない。


 【指輪:リヴ ○号(美咲)】


 保存。ロック。それで終わり――終わり、のはず。


 横を見ると、リヴは布団の中で丸くなっていた。寝息は浅いけど、ちゃんと眠ってる。


「……おやすみ」


 小さく言って、俺も布団に潜った。


 翌朝。


 目が覚めて最初に見たのは天井だった。テレビじゃない。口の端が勝手に上がりそうになって、押し戻す。


 布団の端から、もそ、と影が動いた。


「ナオキ。……見ない?」


「見ない」


 即答すると、リヴは満足そうに鼻を鳴らした。褒め言葉を投げてきそうな顔でこっちを見るから、先に釘を刺す。


「褒めるなよ」


「……ちょっとだけ」


「ちょっとだけなら許す」


 朝から何の交渉だ。なのに、こういう馬鹿なやり取りが“普通”として戻ってるのが、嬉しくて困る。


 台所から湯気と匂いがする。卵じゃない。味噌汁だ。


「……朝から何作ってんだ」


「みそ。と、やさい」


「渋いな」


「日本、あさ、みそ」


「どこで覚えた、その偏見」


 リヴはエプロンのまま、俺の前に小さいタッパーを置いた。


 中身はおにぎり。二つ。海苔が巻いてある。しかも、ちゃんと巻けてる。


「これ、もってく」


「俺が?」


「うん。サロン、ひらく。がんばる」


 雑な応援じゃない。形になってる。


 俺がタッパーを受け取ると、リヴは一瞬だけ胸を張った。


「リヴ、まつ。きょう、いいこ」


「家で?」


「うん。耳、かくす、めんどい」


「正直すぎる」


「でも、よるは、きく。サロン、どうだった」


「報告な」


「うん。報告」


 言い切り方が妙に軍隊っぽい。笑いそうになって、咳払いで誤魔化した。


「じゃ、行ってくる」


「いってらっしゃい」


 リヴが少しだけ声を大きくする。


「ナオキ。……いってらっしゃい、は、戻る、ことば」


 靴紐を結ぶ手が止まった。


「……そうだな」


 俺が頷くと、リヴも小さく頷く。


「戻る。約束」


「約束」


 ポケットの中でスマホの角が指に当たる。昨夜の数字が、まだそこにある気がして、拳を一度だけ握る。


 ドアを開けた。


 ――よし。今日のスタートは悪くない。


 サロンの前に立つと、シャッターが妙に重く見えた。閉めてた期間が長いと、物ってこうなる。同じ形のはずなのに距離ができる。


 鍵を差し込んで回す。金属音がやけに大きい。


「……よし」


 取っ手を掴んで持ち上げる。ガガガ、と鳴って、店の空気が外へ流れ出す。同時に外の冷たい空気が中へ入ってくる。冷たいのに、嫌じゃない。


「おー。開いた開いた」


 声がして顔を上げる。


 いた。……いや、「待ってた」って顔の人たちが、いた。


 田中さん。山本さん。この二人、朝の散歩コースに俺のサロンを組み込んでるタイプだ。ありがたい。こわい。


「おはようございます……」


「おはよう、直輝くん。やっと開けたね」


「今日は予約だけなんですけど」


「予約? 私たちの予約は?」


「……いま取ります」


 即答で負けた。俺の人権、雑。


 田中さんが腕を組んで、にやっとする。


「閉めてたの、心配したんだよ。体調でも崩したのかって」


「いや、そういうわけじゃ……」


「じゃあ何。恋でもした?」


「飛躍が強い」


 山本さんが笑って追撃する。


「若いっていいわねー。直輝くん、顔がちょっと柔らかいよ?」


「それ、褒めてます?」


「褒めてる褒めてる。あと、目が死んでない」


「褒め方が物騒なんだよなぁ……」


 二人が「ほら、その顔!」って満足そうに頷いて、俺は降参した。


 午前の予約は二件。一件目が田中さん、二件目が山本さん。


 ……予定通りだ。予定が人間に寄ってくるタイプ。


 仕事は順調だった。体は正直だ。ほぐせば、ちゃんと緩む。


 田中さんが帰り際、レジ前で言った。


「直輝くん。閉めるなら閉めるで、ひとこと言いなさい。待つのは平気。でも、心配は増える」


「……すみません」


「謝るなら、次は言えるように」


「はい」


「よし」


 それだけ言って、田中さんは手を振って帰っていった。


 二件目の山本さんは入ってくるなり開口一番。


「直輝くん、今日はね、“しゃべりたい”の」


「施術よりですか」


「施術もする。しゃべりもする。二つで一つ」


「セット料金ですか」


「当たり前でしょ」


 怖い。常連って怖い。


 けど、山本さんは途中で少しだけ声を落とした。


「ここ、私の“戻る場所”の一個なんだよね。直輝くんが淡々としてると、こっちも淡々になれる」


「淡々って、褒めてます?」


「褒めてる褒めてる。優しい淡々」


 優しい淡々ってなんだ。喉の奥がくすぐったくなって、俺は返事を飲み込む。


 見送りまで終えると、サロンは急に静かになった。


 俺はイスに座ってタッパーを開ける。おにぎり。海苔の匂い。ひと口かじると、ちゃんと塩が効いていた。


「……うまい」


 リヴの顔が浮かんで、口元が勝手に緩む。


 タッパーの底に、紙が一枚入っていた。


『がんばれ。かえってきて。』


 ……おい。


 反則だろ、それ。


 俺はそれを丁寧に畳んで、ポケットの奥へ入れた。落としたくない場所へ。


 寄り道したい衝動がゼロになったわけじゃない。でも今日は勝てる気がした。紙の感触を指先で確かめて、俺は立ち上がる。


 帰宅すると、玄関の向こうから味噌の匂いがした。鍋の音もする。


「ナオキ!」


 リヴが顔を出す。髪が少し跳ねてる。フードはなし。家モードだ。


「どうだった」


「早いな」


「報告!」


 言い切って、リヴは俺の袖を掴む。確認じゃない。袖にかかる指の圧が、帰ってこいって言ってる。


「サロン、ひらいた?」


「開けた」


「人、きた?」


「来た。待っててくれた」


「……よかった」


 リヴが息を吐く。そのタイミングで、俺の胸の奥も軽くなる。


 靴を脱いで、俺はリヴの頭を軽く撫でた。


「飯、うまかった。ありがとう」


「……やった」


 小さなガッツポーズ。十分だ。


 リビングのテレビはいつもの場所にある。黒いまま。今日は、ただそれだけ。


 視線が流れかけて――俺はそこで止めた。


 リヴが俺の目線に気づいて、短く言う。


「ナオキ。みない」


「見ない」


 リヴは満足そうに頷いて、鍋のほうを指差した。


「みそ。できた」


「いただきます」


 上げて、下げて、また上げる。シャッターの音みたいに――俺たちは今日も、ちゃんと戻ってくる。

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