シャッターの音
車を降りた瞬間、潮の匂いがすっと遠のいた。代わりに、冷えたコンクリの匂いと、どこかの洗剤みたいな匂いが鼻の奥に残る。波の音も、湿った風もない。
――帰ってきた。
そう思うより先に、体が勝手に“いつもの夜”へ切り替わっていく。駐車場の白線。隣の車のドアが閉まる音。遠くの室外機のうなり。生活の音が、ひとつずつ戻ってくる。
美咲さんは助手席側から荷物を回収して、俺たちに視線だけ寄こした。軽いのに、逃げ道を塞ぐ目だ。
「今日はここまで。二人とも身体を冷やさない。温めて寝る。……ここ大事」
「ありがとうございました。今日は……楽しかったです」
口が先に動いた。自分でも意外なくらい、ちゃんとした言葉になってる。
美咲さんは「それはよかった」とだけ笑って、すぐ表情を切り替える。仕事の切り替えじゃない。俺らを生活側に戻すための切り替えだ。
「直輝くん。明日、サロンの予約入ってるよね」
「……入ってます」
「お客さん、まだかまだかって待ってるよ。首、もうキリン」
「キリンはともかく……」
「ともかくじゃない。明日終わったら、まっすぐ帰る。寄り道なし。いいね」
返事が遅れたのが自分でも分かって、喉の奥が乾く。俺は一度息を吸ってから、言い直した。
「……はい。寄り道しない」
美咲さんはそこで声を少し落とす。近所に聞かせないための配慮のはずなのに、距離だけが近くなる。
「それと。さっきの“頼み”、ちゃんと控えた。……直輝くん、あとで」
心臓が一回だけ跳ねた。
水族館の売店。美咲さんが何気ない顔のまま、リヴの指を“すっと”確かめたやつ。自然すぎて、反則だ。
「……はい」
それ以上言うと顔に出る。分かってるから、飲み込むしかない。
リヴが首をかしげて、俺のほうを見る。
「よやく?」
「明日、お店に来るって約束」
「……やくそく」
リヴはその言葉を口の中で転がして、ゆっくり頷いた。海の前で黙ってた時と同じ顔だ。大事なものを雑に扱わない顔。
美咲さんが車のドアを閉め、最後に一本だけ釘を刺していく。
「帰ったら温めて寝る。ね、二人とも」
「はい。温めて寝ます」
「うん。温める」
「よし。おやすみ」
エンジン音が遠ざかって、テールランプが角を曲がって消えるまで、リヴはじっと見送っていた。
「……いった」
「行ったな」
「ミサキ、こわい」
「分かる」
そう言い合って、ようやく肩の力が抜けた。海の時間が終わって、生活の時間が始まる。
鍵を回してドアを開けた瞬間、部屋の暗さが目に入って――視線が勝手にテレビへ走った。
黒い画面。電源の落ちた反射。枠の角の小さな欠け。ただの家電。……のはずだ。
足が、少しだけ前へ出かける。
「ナオキ」
背後から低い声。止めるときの声。
俺は止まった。止まれた。
「……見ない」
自分の口で線を引く。今日はそれでいい。
リヴが俺の袖を軽く掴む。引っ張らない。ただ、戻す。
「戻る」
「……うん」
灯りをつけると、黒はただの黒に戻った。息が長く出て、胸の奥がようやく動く。
「さむい」
「上着脱げ。温かいの入れる」
「うん。……温める」
その言い方が、今日の海の続きみたいで、胸の奥がほどけた。
リヴはフードを外してキッチンへ向かう。戸棚を開け、冷蔵庫を覗く。迷いがない。生活の手つきだ。
「ナオキ」
「ん?」
「明日……おみせ、あける?」
「あける。午前だけ」
「まっすぐ、かえる?」
「帰る。寄り道しない」
「……やくそく」
「約束」
短いやり取りなのに、今日いちばん効いた。“寄り道”が、明日の工程で上書きされる。
暗い部屋でスマホが小さく震えた。
見るな、と思ったのに、手が先に掴んでいた。画面に出た名前を見ただけで、胸がまた跳ねる。美咲さんだ。
『さっきの件。リヴちゃん、だいたい【○号】くらい。内緒ね。』
『念のため少し余裕みて』
指先が熱い。……最悪。
画面を閉じて、すぐロックする。深呼吸を一回。逃げたくない。でも暴走もしたくない。
メモを開いて、短く残す。余計な言葉は足さない。
【指輪:リヴ ○号(美咲)】
保存。ロック。それで終わり――終わり、のはず。
横を見ると、リヴは布団の中で丸くなっていた。寝息は浅いけど、ちゃんと眠ってる。
「……おやすみ」
小さく言って、俺も布団に潜った。
翌朝。
目が覚めて最初に見たのは天井だった。テレビじゃない。口の端が勝手に上がりそうになって、押し戻す。
布団の端から、もそ、と影が動いた。
「ナオキ。……見ない?」
「見ない」
即答すると、リヴは満足そうに鼻を鳴らした。褒め言葉を投げてきそうな顔でこっちを見るから、先に釘を刺す。
「褒めるなよ」
「……ちょっとだけ」
「ちょっとだけなら許す」
朝から何の交渉だ。なのに、こういう馬鹿なやり取りが“普通”として戻ってるのが、嬉しくて困る。
台所から湯気と匂いがする。卵じゃない。味噌汁だ。
「……朝から何作ってんだ」
「みそ。と、やさい」
「渋いな」
「日本、あさ、みそ」
「どこで覚えた、その偏見」
リヴはエプロンのまま、俺の前に小さいタッパーを置いた。
中身はおにぎり。二つ。海苔が巻いてある。しかも、ちゃんと巻けてる。
「これ、もってく」
「俺が?」
「うん。サロン、ひらく。がんばる」
雑な応援じゃない。形になってる。
俺がタッパーを受け取ると、リヴは一瞬だけ胸を張った。
「リヴ、まつ。きょう、いいこ」
「家で?」
「うん。耳、かくす、めんどい」
「正直すぎる」
「でも、よるは、きく。サロン、どうだった」
「報告な」
「うん。報告」
言い切り方が妙に軍隊っぽい。笑いそうになって、咳払いで誤魔化した。
「じゃ、行ってくる」
「いってらっしゃい」
リヴが少しだけ声を大きくする。
「ナオキ。……いってらっしゃい、は、戻る、ことば」
靴紐を結ぶ手が止まった。
「……そうだな」
俺が頷くと、リヴも小さく頷く。
「戻る。約束」
「約束」
ポケットの中でスマホの角が指に当たる。昨夜の数字が、まだそこにある気がして、拳を一度だけ握る。
ドアを開けた。
――よし。今日のスタートは悪くない。
サロンの前に立つと、シャッターが妙に重く見えた。閉めてた期間が長いと、物ってこうなる。同じ形のはずなのに距離ができる。
鍵を差し込んで回す。金属音がやけに大きい。
「……よし」
取っ手を掴んで持ち上げる。ガガガ、と鳴って、店の空気が外へ流れ出す。同時に外の冷たい空気が中へ入ってくる。冷たいのに、嫌じゃない。
「おー。開いた開いた」
声がして顔を上げる。
いた。……いや、「待ってた」って顔の人たちが、いた。
田中さん。山本さん。この二人、朝の散歩コースに俺のサロンを組み込んでるタイプだ。ありがたい。こわい。
「おはようございます……」
「おはよう、直輝くん。やっと開けたね」
「今日は予約だけなんですけど」
「予約? 私たちの予約は?」
「……いま取ります」
即答で負けた。俺の人権、雑。
田中さんが腕を組んで、にやっとする。
「閉めてたの、心配したんだよ。体調でも崩したのかって」
「いや、そういうわけじゃ……」
「じゃあ何。恋でもした?」
「飛躍が強い」
山本さんが笑って追撃する。
「若いっていいわねー。直輝くん、顔がちょっと柔らかいよ?」
「それ、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる。あと、目が死んでない」
「褒め方が物騒なんだよなぁ……」
二人が「ほら、その顔!」って満足そうに頷いて、俺は降参した。
午前の予約は二件。一件目が田中さん、二件目が山本さん。
……予定通りだ。予定が人間に寄ってくるタイプ。
仕事は順調だった。体は正直だ。ほぐせば、ちゃんと緩む。
田中さんが帰り際、レジ前で言った。
「直輝くん。閉めるなら閉めるで、ひとこと言いなさい。待つのは平気。でも、心配は増える」
「……すみません」
「謝るなら、次は言えるように」
「はい」
「よし」
それだけ言って、田中さんは手を振って帰っていった。
二件目の山本さんは入ってくるなり開口一番。
「直輝くん、今日はね、“しゃべりたい”の」
「施術よりですか」
「施術もする。しゃべりもする。二つで一つ」
「セット料金ですか」
「当たり前でしょ」
怖い。常連って怖い。
けど、山本さんは途中で少しだけ声を落とした。
「ここ、私の“戻る場所”の一個なんだよね。直輝くんが淡々としてると、こっちも淡々になれる」
「淡々って、褒めてます?」
「褒めてる褒めてる。優しい淡々」
優しい淡々ってなんだ。喉の奥がくすぐったくなって、俺は返事を飲み込む。
見送りまで終えると、サロンは急に静かになった。
俺はイスに座ってタッパーを開ける。おにぎり。海苔の匂い。ひと口かじると、ちゃんと塩が効いていた。
「……うまい」
リヴの顔が浮かんで、口元が勝手に緩む。
タッパーの底に、紙が一枚入っていた。
『がんばれ。かえってきて。』
……おい。
反則だろ、それ。
俺はそれを丁寧に畳んで、ポケットの奥へ入れた。落としたくない場所へ。
寄り道したい衝動がゼロになったわけじゃない。でも今日は勝てる気がした。紙の感触を指先で確かめて、俺は立ち上がる。
帰宅すると、玄関の向こうから味噌の匂いがした。鍋の音もする。
「ナオキ!」
リヴが顔を出す。髪が少し跳ねてる。フードはなし。家モードだ。
「どうだった」
「早いな」
「報告!」
言い切って、リヴは俺の袖を掴む。確認じゃない。袖にかかる指の圧が、帰ってこいって言ってる。
「サロン、ひらいた?」
「開けた」
「人、きた?」
「来た。待っててくれた」
「……よかった」
リヴが息を吐く。そのタイミングで、俺の胸の奥も軽くなる。
靴を脱いで、俺はリヴの頭を軽く撫でた。
「飯、うまかった。ありがとう」
「……やった」
小さなガッツポーズ。十分だ。
リビングのテレビはいつもの場所にある。黒いまま。今日は、ただそれだけ。
視線が流れかけて――俺はそこで止めた。
リヴが俺の目線に気づいて、短く言う。
「ナオキ。みない」
「見ない」
リヴは満足そうに頷いて、鍋のほうを指差した。
「みそ。できた」
「いただきます」
上げて、下げて、また上げる。シャッターの音みたいに――俺たちは今日も、ちゃんと戻ってくる。




