潮の匂い
車に乗り込むと、リヴは後部座席の窓にぺたりと頬をくっつけた。さっきまで水槽の青に張り付いてた目が、今度は本物の空の青を追いかけてる。
「ミサキ。うみ、どっち?」
「こっち。二十分くらいで着くよ。……はい、シートベルト」
「……はい」
返事がやけに素直で、俺は胸の奥の力が少しだけ抜けた。こういうとこ、偉い。……いや、偉いって言うと違うな。たまに俺よりちゃんとしてるのが、地味に悔しい。
美咲さんがウインカーを出して、ゆっくり車を流した。運転がとにかく穏やかで、急がないし煽らない。必要なところだけ、すっと曲がる。水族館でずっと立ちっぱなしだった体が、ようやく「座っていいんだ」って思い出す。
「ナオキ」
後ろから呼ばれて、俺は振り向いた。
「ん?」
「本物の海、におい、する?」
「まだだな。近くまで行けば分かる」
「……そっか」
リヴは短く頷いて、また窓の外へ目を戻した。その横顔が妙に真剣で、俺の口元が勝手に緩む。
「いま笑った」
即バレる。喉の奥が少しだけ熱くなって、俺は視線を前に戻した。
「……ちょっとだけ」
「うん。正直。えらい」
「そこ褒めるんだな」
リヴは満足そうに鼻を鳴らした。勝ち負けじゃなくて、“認めさせた”のが大事らしい。面倒くさいのに可愛いの、ほんと腹立つ。
美咲さんがバックミラー越しに俺を見て、口元だけ上げる。
「直輝くん、顔が硬い。今日はオフ。眉間のシワ、車に置いてきて」
「置けるなら置いてます」
「置ける。はい、深呼吸」
言われて、俺は一拍置いてから息を吐いた。
「……病院みたいですね」
「病院じゃないけど、直輝くんは放っとくと息止めるから。ほら、吸って吐いて」
妙に核心を突かれて、俺はもう一回ちゃんと呼吸する。肺が広がる感じが、自分でも分かるくらいだった。
「……そんなに分かります?」
「分かるよ。長い付き合いだもん」
さらっと言うな、その言い方。返し損ねた俺の横で、後部座席のリヴがこくこく頷いてる。
「ミサキ、すごい。ナオキ、息、へた」
「そこで頷くな」
「事実」
「……分かった分かった」
白旗を上げると、リヴが小さく笑って、また窓に額を当て直した。笑いの余韻が残って、俺もつられて息が軽くなる。
「うみ、どんな?」
「広い。でかい。あと、しお」
「しお」
リヴがその単語を口の中で転がして、真顔になる。
「……しお、食べる?」
「それは食べないやつだな。たぶん飲んでもダメなやつ」
「飲まない。見るだけ」
「よし」
この子の「見るだけ」は、今日は特に信用できる。視線の真剣さが違う。
海へ向かう道に入ったころ、外の景色がじわっと変わった。建物が減って、空がやたら広い。窓の隙間から、ほんの少し湿った風が混じった気がする。
リヴが背筋をぴん、と伸ばした。
「……いま、ちょっと、ちがう」
「なにが?」
聞き返すと、リヴは鼻をくん、と鳴らしてから、言葉を探すみたいに口を開いた。
「かぜ。ひんやり。……しお、っぽい」
“ひんやり”が出た。語彙が増えていくのが嬉しくて、俺は口元を指で隠す。負けだな、これ。
「それ、多分、海の匂いだな」
「うみの……におい。……ほんとに、ある」
小さく言って、また窓の外を見る。緊張っていうより、ワクワクを胸の中に収めておく顔だった。
美咲さんが前から、今日の注意書きをさらっと読み上げる。
「海は広いけど、今日は見るだけ。走らない、飛び込まない、波に挨拶はしない。約束ね」
「波、あいさつ?」
リヴが首を傾げる。
「テンション上がると“わーっ”って行きたくなるでしょ」
「……ちょっと、行きたい」
一拍置いてからの告白が、やけに正直だ。
「正直でよろしい。でも今日は見て楽しむ日」
「うん。見る。……波、さわらない」
「よし、合格。優等生」
褒められて、リヴがほんの少し胸を張った。分かりやすい。俺は笑いそうになって、鼻で息をついた。
「着いたよ」
美咲さんが駐車場に車を入れて、エンジンを切る。外に出た瞬間、風がぶわっと来た。冷たいけど刺すタイプじゃない。湿ってて、遠くの音まで運んでくる感じ。
リヴのフードがふわっと揺れた。
「……音、する」
「波だな」
「なみ……」
リヴが俺の袖を掴む。いつもの“確認”じゃない。手を借りたい時の掴み方で、指先に力がこもってる。こういうの、ずるい。
「行くか」
「……うん」
少し歩くと、視界がいきなり開けた。コンクリの階段を下りた先に砂。その向こうに――
海があった。
水槽の青とは別物だ。ガラス越しじゃない。空と同じサイズで、地面の端まで続いてる。波が寄せては返して、白い泡が砂を撫でていく。遠くの水平線は薄く霞んで、空と海の境目が溶けていた。
リヴが、ぴたりと止まった。
言葉が出ない顔。目を丸くして、瞬きも忘れてる。袖を掴む指先が、ゆっくり握り直された。
「……おおきい」
「……でかいな」
「……でかい」
同じ言葉を繰り返したあと、リヴが急にこっちを見た。
「ナオキ」
「ん?」
「これ……水、ぜんぶ?」
「ぜんぶだよ」
「……水、勝ち」
「……なにと戦ってんだ」
リヴがふっと笑って、俺の肩の力も落ちる。美咲さんも遅れて笑った。
「リヴちゃん、海に勝たなくていいの。仲良くしよ」
「……仲良く、する」
「よし」
美咲さんは少し距離を取って立ち止まった。近くにいるけど邪魔しない。そういう距離感が上手い。
波の音だけが続く。寄せて、崩れて、引いていく。同じなのに、毎回ちょっと違う。
リヴが一歩、砂の上に出た。足が沈む。柔らかい。その感触に驚いたみたいに動きが止まる。
「……床、ない」
「……砂って床の親戚みたいなもんだろ」
「親戚、信用できない」
「……それは失礼だ」
リヴがしゃがんで砂をつまむ。手のひらからさらさら落ちて、光に当たってきらっとした。
「……こぼれる」
「こぼすな、って言いたいけど……まあ、こぼれるよな」
「……こぼれる、って言った」
「……はいはい」
リヴが吹き出した。俺もつられて笑う。笑いながら、胸の奥がふっと軽くなる。こういう笑い方、久しぶりだ。
「ナオキ、みず……近い、いい?」
「ここまで。濡れない距離で」
「了解」
「……急に硬い」
俺の喉がまた乾く。けど、リヴは目を逸らさず続けた。
「……約束、だから」
そう言って、波打ち際の少し手前で止まる。白い泡が砂の上を伸びて、ぎりぎり届かずに引いていった。
リヴが息を吸う。
「……しお」
「だろ」
「しお、くさい」
「……言い方」
「……でも、正直」
「そこは正直じゃなくていい」
「……でも、海は、きれい。くさいけど」
「……フォロー、下手だな」
雑なのに、顔は嬉しそうで、鼻に皺を寄せたまま笑ってる。綺麗なだけじゃない。匂いも音も湿り気も、まとめて海なんだろうな。
美咲さんが後ろから声をかけた。
「リヴちゃん、寒くない? 上着、もう一枚あるよ」
「だいじょぶ。……ちょっと、つめたい」
「ほら来た。直輝くん、“ほっとけない顔”してる」
「してないです」
「してるしてる。はい、これ。リヴちゃん、遠慮しない」
美咲さんが紙袋から薄いストールを出して、リヴの肩にふわっとかける。リヴは一瞬固まって、それから小さく言った。
「……ありがとう」
「どういたしまして。風、強いからね」
リヴがぽつりと漏らす。
「ミサキ、やさしい」
「でしょ。私、やさしいの」
「自分で言うな」
「いいの。事実だから」
リヴが小さく笑って、今度は俺の方を見る。視線が、少しだけまっすぐで。
「……ナオキも、やさしい」
「……は?」
「袖、貸した。いま」
「それは掴まれてただけだ」
「でも、逃げてない」
反論しようとして、言葉が詰まる。指先に余計な力が入って、すぐ抜く。
「……めんどくさい観察すんな」
「観察、得意」
「……変な方向にだけ伸びるな」
三人の笑い声が、波の音に混ざる。ちゃんと休日の音で、変に安心してしまった。
美咲さんが自然にスマホを構える。
「はいはい、今の空気いい。写真撮る? 耳が写らない角度で」
「とる!」
即答。リヴが俺の袖を引っ張る。
「ナオキ、こっち。海、うしろ」
「お前、もう慣れてるな」
「タブレット、見た。ポーズ、勉強した」
「……覚えなくていいやつ覚えてる」
リヴは真顔で親指を立てる。
「これ。ぐっど」
「……それ、どこで仕入れた」
「動画。見た」
「文明こわいな」
「こわくない。便利」
「はいはい」
美咲さんが笑いながらシャッターを切った。
「よし。もう一枚。今度はリヴちゃんだけ。海と記念ね」
「え、ひとり?」
リヴの声が少しだけ上がる。
「大丈夫。私が後ろで見てる」
リヴは迷って、ちょっと唇を結んでから頷いた。
砂の上に立つリヴ。背中に海。フードを深くかぶってるのに、目だけはまっすぐ前を向いている。
シャッター音。
撮り終わると、リヴが照れた顔で俺を見る。
「ナオキ、あとで、見る」
「見る」
「……うん」
それだけで、また笑う。今日のリヴは笑う回数が多い。……俺までつられてるのが悔しい。
「さ、甘いもの行こ」
美咲さんが言った。
「直輝くんも拒否権なし。今日は“普通の休日”チームだから」
「チームってなんですか」
「チーム。はい、決定」
「強い」
売店でホットココアと温かいカフェラテ。それから、リヴが見つけた“海の塩キャラメル”。
「しお、あまい……?」
眉をひそめたまま、結局買う。負け顔なのに行動が速い。
ベンチに座って、海を見ながら飲む。紙カップが手を温めて、ココアの匂いが鼻に入った。
リヴが一口飲んで、目を丸くする。
「……あつい」
「そりゃ熱い」
「でも、いい。おなか、あったかい」
塩キャラメルをひとつ口に入れて、ゆっくり噛む。リヴの顔が忙しい。
甘い。
しょっぱい。
もう一回甘い。
やっぱりしょっぱい。
最後、悔しそうに俺を見る。
「ナオキ、これ……敵」
「敵じゃなくて菓子だな」
「でも、好き。……くやしい」
「……その戦い、勝てないやつだぞ」
美咲さんが笑いながら言う。
「リヴちゃん、その戦いは一生続くよ。塩キャラメルってそういうやつ」
「一生……?」
「一生」
リヴが真剣に頷いて、二つ目を食べた。
「……もう一回」
「……好きなら、まあ」
「好き。くやしい。好き」
「忙しいな」
海は寄せて返す。風は頬を冷やして、カップは手を温める。その全部が気持ちよくて、俺はつい笑ってしまった。
「ナオキ、なに笑う」
「いや、今日はいい日だなって」
「いい日」
リヴがその言葉を、口の中で転がすみたいに言う。
「ミサキも、いい日?」
美咲さんが一瞬だけ驚いた顔をして、それから柔らかく笑った。
「うん。いい日。二人がちゃんと帰るなら、もっといい日」
「圧がすごい」
「大人の圧」
リヴが満足そうに頷く。
「圧、だいじ」
「それは違うと思う」
風が少し強くなって、空がほんのり赤くなり始めた。夕方の色だ。海の青が濃くなって、波の白が目立つ。
美咲さんが立ち上がる。
「そろそろ帰ろう。暗くなると冷える」
「……もう、かえる?」
名残惜しそうに海を見るリヴ。
「また来れる」
俺が言うと、リヴはゆっくり頷いた。
「うん。……また、来る。約束」
「約束な」
帰り道、車の中でリヴはしばらく黙っていた。眠いのかと思ったら違う。窓の外を見ながら、時々小さく笑ってる。
「なに笑ってる」
聞くと、リヴは一拍置いてから、ぼそっと言った。
「……海、くさい。きれい。……へん」
「へんは禁止だったな」
「じゃあ……おもしろい」
「それなら許す」
リヴが満足そうに頷いて、目を細める。
「今日、いい日」
「いい日」
「……潮の匂い、のこる?」
「鼻の奥にちょっと残るかもな」
「それ、いい」
「いいのか」
「いい。忘れない」
リヴはそう言って、窓に頬を寄せた。さっきより力が抜けた顔で。
今日の休日は、笑って、食べて、見て、風に当たって――それだけで十分だった。




