青いガラスの海
世界樹の修復が始まった影響で、あちら側の世界は当面メンテナンス中だ。ようやく回ってきた「こっち」での休日——そう分かっているのに、起き抜けの指先が、いつもの癖でテレビのスイッチへ伸びかける。
俺は鼻先で笑って、空を切った手を引っ込めた。
電源の落ちた黒い画面は、ただ静かに部屋の景色を映している。もう追いかけなくていい。そう思っただけで、胸の奥が少しだけ軽くなった。
「ナオキ。いま、向こう覗こうとしたでしょ」
背後から声が飛んでくる。振り返ると、リヴが素足でフローリングに立っていた。寝起きの髪が跳ねてるのに、目だけはやけに冴えていて、俺の指先の迷いまで拾ってくる。
「当てんなよ……」俺は一拍置いて肩を落とす。「いや、正解。まだ身体があっち向いてる」
「やった。勝ち」
「勝ち負けじゃねぇって。俺が勝手に負けてんだよ」
リヴがくすっと笑って肩をすくめる。その動きひとつで、俺の中の硬さがほどけた。昨日までが嘘みたいに、部屋が静かだ。
「今日はテレビなし。仕事もなし。朝メシ食おう」俺はキッチンへ向かいながら言う。「腹、減ってるか?」
「うん。すごい。ぺこぺこ。いま鳴った」
「言い方、増えてるな。どこで仕入れた」
リヴはちょっと胸を張って、目だけで「見て」と言ってくる。
「練習した。ナオキがいないときに。びっくりさせたかった」
「びっくりしたわ。朝から強い」
俺はマグカップを二つ並べて、コーヒーを落とす。香りが広がると、リヴの視線が砂糖の瓶に吸い寄せられた。分かりやすすぎて、笑いそうになる。
「飲む?」
瓶をリヴの側に寄せると、指先が少しだけ前に出た。止めた。自分で止めたのが偉い。
「……砂糖は“ちょっと”な」俺はわざと低い声で言う。「今日それ守れたら、俺が勝ちにしてやる」
「勝つ。ぜったい。ちょっと」
「宣言早いな。破ったら明日から没収」
「……う」リヴが口を尖らせて、でもすぐ頷いた。「守る」
椅子に座ると、両手でマグを包む。ふーっと長く息を吐いた。湯気の向こうで目が細くなる。肩の力が抜けていくのが見て取れた。
「……落ち着く。あったかいの、中までくる」
「それでいい」俺も自分のマグを持ち上げる。「休みってのは、こういうのが一番だ」
「ナオキ、やさしい。いつもより……声、やわらかい」
言い切る前の間が真面目すぎて、俺は反射で視線を逸らした。喉が乾くのを誤魔化すみたいに一口飲む。
「褒めても砂糖増えないぞ。自分で決めた量で飲め」
「増えないの? ナオキ、ときどきケチ」
「決まりだ」俺は口元だけで笑う。「……でも、飲み切れたら偉い」
リヴが勝ったみたいに笑って、俺も釣られて吹き出した。こういうやり取りが、身体をこっちに留めてくれる。
コーヒーを飲み終えたリヴが、急に背筋を伸ばして俺の顔を覗き込んできた。近い。呼吸が一瞬だけ浅くなる。
「ねえ、ナオキ。おねがい」
「ん?」俺は眉を上げる。「急にどうした」
「今日、どこか行こ。お休みのところ」
言い方が、少しだけ弾んでる。
「いいよ。リヴの行きたいとこで」俺は頷く。「どこだ?」
「水がいっぱい。魚がいっぱい。大きいガラスの向こう、ぜんぶ青い」
「水族館だな」俺は即答して、すぐ続ける。「朝メシ食ったら、昼前に出よう。約束する」
「約束、うれしい」
それから、声が小さく落ちる。
「……おいていかないで」
胸の奥が熱くなった。俺はそれを見せないように、冷蔵庫を開ける。冷気が指先に当たって、ちょうどいい。
「卵とパンとヨーグルト。どれいく?」
「ぜんぶ」
「即決かよ」
「おなか、欲張りになってる」
「休みだしな」俺は肩をすくめる。「全部出す」
「うん。休みは、欲張っていい。そう決めた。練習もした」
卵を焼き、パンを切り、ヨーグルトを並べる。リヴは一口食べた瞬間、眉をきゅっと寄せてスプーンを止めた。
「……すっぱい。これ、まちがってる」
「だから甘いやつにしろって言ったろ」俺は笑う。「蜂蜜足す?」
リヴはもう一口だけ確かめるみたいに食べて、目を細めた。
「でも、すき。目、シャキッとする」
「好きならその顔やめろ。酸っぱさが伝染する」
「顔、かってに動く」リヴがちょっとだけ悪い顔をする。「ナオキ、おもしろい」
「じゃあ、そのまま完食」
「たべる。ぜんぶ。お出かけする」
返事がやけに真面目で、俺は笑いながら皿を片づけた。
片づけを終えてスマホを取り出し、美咲さんに送る。
『今日、水族館行けますか? リヴの希望です』
既読はすぐについた。
『行けるわよ。昼前に迎えに行く。二人とも朝食は済ませた?』
『食べました。パンと卵とヨーグルトです。あとコーヒーも』
『コーヒーは食事じゃないけど、まあ良し。車内でつまめるのも買っていくわね』
助かります、と打ち込もうとした瞬間、横からリヴが覗き込む。覗き方が真剣で、目がまんま「任務」だ。
「ミサキ、くる? いっしょに行ける?」
「ああ、来るって」俺は画面を見せる。「迎えに来てくれる」
「やった。水族館、教える」
リヴは弾むようにクローゼットへ向かい、フード付きのパーカーを引っ張り出した。布を広げる手つきに迷いがない。
「今日は耳、隠す。ぜったい」
「うん。耳出たら面倒だろ」俺は笑って頷く。「今日は静かに見たい」
「面倒、きらい。魚、静かに見たい」
「俺も。観光客でいこうぜ」
目が合って、二人で笑った。笑ったのに喉が乾く。俺は水を一口飲んで、その間を消した。
戸締まりを確認したところでインターホンが鳴る。玄関を開けると、休日のラフな格好の美咲さんがコンビニ袋を提げて立っていた。
「おはよう。はい、車の中で食べて。お腹が空くと露骨に機嫌が悪くなる人が約一名いるから」
「俺のことですね」俺は苦笑して手を伸ばす。「否定しません。気をつけてはいるんですけど」
「自覚があるならよろしい。準備できてるなら、すぐ出発しましょう」
美咲さんの視線がリヴへ向く。リヴは一呼吸置いて、意識して明るい声を作った。胸の前で指が一瞬絡まって、すぐほどける。
「ミサキ、おはよう!」
「おはよう、リヴちゃん。いい返事ね。どこか痛いところはない?」
「元気。おなか、少しだけ、すいた。ミサキのごはん、たべる」
「いい答え。じゃあ車で一口ずつね」
「うん。約束」
美咲さんが目を細めたあと、俺を覗き込む。
「直輝くんも。今日は笑顔、増やしなさい」
「努力してみます」俺はわざと真面目に言う。「顔の筋肉が固まってなきゃいいんですけど」
「努力じゃなくて普通にしなさい。……それが難しいんでしょうけど」
刺さる。俺は降参の意味で片手を上げて、二人を車へ促した。
車内は、美咲さんが運転、俺が助手席、リヴが後部座席。リヴは窓に頬を寄せて、流れる街並みを夢中で追っている。
「人、いっぱい。みんな、どこ行くの?」
「土曜だしな。買い物とか遊びとか」
「みんな、はやい。いそいでる?」
「急いでるやつもいる。でも今日は急がない」俺は少しだけ振り返る。「ゆっくり行こう」
「うん。今日は、ゆっくり」
水族館が近づくにつれて、リヴの声が弾む。
「うみ、ほんとうにある? 偽物じゃない?」
「ああ。本物。ガラスの向こう、青い世界だ」
「魚、近い?」
「近い。すぐそこ」
「……目、合う?」
「合う」俺は言い切ってから、息を吸う。「合うってことにしとけ」
美咲さんが前を見たまま口を挟む。
「直輝くん、今の言い方いい。余計な逃げを作らない」
「はい……」
後ろでリヴが嬉しそうに笑って、俺もつられて笑った。
駐車場に車を止め、チケットを受け取って人の流れに乗る。リヴはフードを深く被り、時々俺の袖を指先でつまむ。入口付近のスピーカーからスタッフの声が流れた。
『本日は館内混雑しております。安全のため、走らずにご観覧ください』
リヴが戸惑ったように袖を引く。
「ナオキ。いまの、なに? 『かんらん』むずかしい」
「走らないで、歩いて見ろって意味。慌てるな、ってこと」
「歩くの、いい? ゆっくりで、いい?」
「ああ。ゆっくりが正解」
「わかった。リヴ、ゆっくり見る」
真面目すぎる返事に、俺は口元を緩めた。隣で美咲さんの肩が小さく揺れる。笑いをこらえてる。
通路を進む途中、リヴがフードを直そうとして耳の端が覗きそうになった。
「耳、出かかってる」俺は声を落とす。「止まって直せ」
リヴは慌てて足を止め、両手でフードを押さえる。呼吸が一度だけ速くなって、すぐ整った。
「だれか見た? 大丈夫?」
「少しだけ。まだ間に合う。自分でいけるか?」
「いける。ていねいにやる」
指先を慎重に動かして耳を隠し直し、終わるとふうっと息を吐いて胸を張った。
「できた……完璧」
「合格。行くぞ」
「完璧! 行こう!」
館内に入った瞬間、ひんやり湿った空気が肌を撫でた。照明が落とされた通路の先に、深い青の水槽が浮かび上がる。魚の群れが銀色の線になって流れていく。
「……うわ」
リヴが息を漏らして、すぐ笑った。
「ねえ、ナオキ。あれ、生きてる。絵じゃない」
「ああ。本物。ちゃんと泳いでる」
「……ずっと動く。止まったら、どうなる?」
「止まったら——」
「怒られないわよ」
美咲さんがさらっと割って入る。
「ぶつかりそうなら避けるの。みんな分かってる」
「ナオキ、嘘つき。ミサキ、正しい」
ジト目が刺さる。俺は手を上げた。
「……すみません。盛りました。安心して見てろ」
「うん。ナオキ、あとで反省」
「あとで反省って言い方、重いんだけど」
冗談で返したのに、指先に少し力が入っていた。俺は息を吐いて、その力を抜く。
「迷子になったら大変だから、手を繋ぎましょうか」
美咲さんが言うと、リヴは即答した。だけど声は少しだけ小さくなる。
「……つなぐ。ミサキ、離さないで」
美咲さんの手を取って、すぐにもう片方を俺へ差し出す。
「ナオキも。三人、いっしょ」
「よし。離れるなよ」
リヴが俺の指をぎゅっと握ってくる。手のひらの温度が、今ここにいる証拠みたいで、俺は少し笑った。
クラゲのコーナーでは、透明な体がライトに照らされて色を変える。リヴは瞬きを忘れたみたいに見つめていた。
「……きれい」
「触るなよ。刺されるのもいる」
「見るだけ。約束」
「ああ。近くで見るのはいい」
リヴが顔を寄せすぎる。
「近い。息で曇るぞ」
「くもる?」
「白くなる。見えなくなる」
「……ちょっとだけ」
「やるな」
リヴはわざと「ふー」と吹いて端を白くし、満足そうに笑った。
「できた。おもしろい」
「こら。移動するぞ」
「ナオキ、笑ってる。おこってない」
「……笑ってない」俺は咳払いする。「次、ペンギン」
美咲さんが横で肩を震わせている。結局、俺も負けてる。
ペンギンのエリア。地上でよたよたしていた一羽が、水に入った瞬間、矢みたいに泳ぎ去った。リヴが腕を組んで唸る。
「……ずるい。不公平」
「何がだよ」
「歩くの下手。水の中、別になる。切り替え、はやい」
「確かに二つの顔だな」
一羽が岩場に上がって、こっちをじっと見た。リヴは真顔で受け止める。
「……目、合った。リヴ、仲間だと思われた」
「歓迎されてるのかもな」
「ナオキ。あれ、ナオキの親戚? 似てる」
「俺を何だと思ってんだ」
「親戚。きめた。ナオキ、ペンギン」
美咲さんが耐えきれず、むせて笑った。
「ごめんなさい……面白すぎて……!」
「笑うなよ」俺は手を振る。「リヴ、勝手な設定増やすな」
「増やす。ナオキ、誇って」
「誇れるか」
俺が降参して両手を上げると、リヴは満足そうにペンギンへ視線を戻した。
途中のベンチで休憩する。美咲さんが用意してくれたサンドイッチを広げ、三人で並んで噛む。パンの音がやけに落ち着く。
「こういう休日、いつ以来だろうな。遠い昔みたいだ」
俺の呟きに、美咲さんが横目で見る。
「今日はちゃんと休日らしい顔してるわよ」
「俺、普段そんな酷いですか」
「ええ。即答できるくらいには」
「……手厳しい」
リヴが頬張ったまま大きく頷いた。
「ナオキ、いつも顔、まじめ。かたい。でも今、笑ってる。だから、いい」
その「だから」の言い方が、妙に真っ直ぐで、俺は笑うしかなかった。
「次、何見る? リヴちゃん」
「さかな。一番でかいところ。海、そのまま」
「大水槽だな。最後に行こう」
売店を通りかかると、リヴがサイズ見本のリングに目を留めた。指先で空中をなぞる。
「ミサキ。これ、なに? ゆびの、わっか」
「指輪のサイズを測る道具よ。指に当ててみる? 奥まで入れないでね」
「やる。どれ、合う?」
「落とさないで。慎重に」
美咲さんが次々にサイズを変えて、ぴたりと合うものを選ぶ。迷いがない。
「……ミサキ、はやい。魔法みたい」
「仕事で散々見てきたからね」
「リヴも、できる?」
「練習すればできるわよ」
そのやり取りを見ているうちに、俺はつい口を挟んだ。
「リヴ、記念に何か欲しいか? キーホルダーとか」
リヴは一瞬だけ考えて、すぐ答える。
「あお。青いの。わすれないように」
「即決か。水族館らしいな」
「青、すき。この場所のいろ……これ」
「青いイルカのキーホルダーだな。よし、それにしよう」
「いい! 宝物!」
リヴが拍手して、美咲さんが満足そうに頷く。
「直輝くん、今の気配りはポイント高いわね」
「ポイント稼いでません。普通です」
「その普通ができるようになったのが成長よ」
俺は照れ隠しに視線を逸らし、レジへ向かった。耳の奥が少し熱い。
最後の大水槽。天井まで届く巨大なガラスの向こうに、果てしない青が広がっていた。ジンベエザメの影が悠然と頭上を通り、その後ろを魚たちが流れのように追いかけていく。
リヴは立ち尽くし、ただ見上げた。
「……でかい。世界、ひろい」
「ああ。広いな」俺は息を吐く。「これでも、ほんの一部だけど」
「さかな、いっぱい。みんな、いっしょ」
「写真、撮るか?」
「撮る! リヴと、いっしょ!」
俺がスマホを構えると、リヴはフードを深く被り直して耳を隠した。それから小さく肩を下げ、息を整えるみたいに笑う。
「はい、チーズ……よし」
リヴが画面を覗き込み、目を見開いた。
「リヴ、写ってる。うしろのサメも、笑ってるみたい」
「ちゃんと写ってる。残るやつだ」
「消えない?」
「消えない。バックアップも取る。安心しろ」
リヴは指先で画面をなぞって、それから俺をじっと見た。言葉の前に喉が小さく動く。
「ナオキ。まだ帰りたくない。飽きるまで見てていい?」
「いいよ。時間ある」俺は頷く。「納得するまで見ろ」
「飽きない。ずっと……ナオキも、いっしょ」
「言い切るな」俺は苦笑して息を吐く。「まあ、今日くらいな」
「言い切る。ここ、いたい。ナオキと」
冗談じゃない温度で言われて、俺は一瞬だけ言葉に詰まった。詰まった分、ちゃんと息を吸う。
「分かった。今日は、ここにいよう」
美咲さんが隣で俺の肩を軽く叩いた。
「いい休日になったわね。直輝くん、笑顔多めで最後までお願い」
「はい。美咲さんも、付き合ってくれてありがとうございます」
「お礼は後で聞くわ。覚悟しておいて」
「……はい、承知しました。お手柔らかに」
リヴが声を出さずに笑って、俺の袖をちょんと引く。
「ナオキ、やっぱりやさしい。ずっと前から、知ってる」
「それも、さっき聞いた」
「何回でも言う。ナオキが笑うまで。リヴの仕事」
「……分かったよ」俺は小さく笑って、指先の力を抜いた。「ありがとうな。いい休みだ」
リヴは満足そうに頷いて、また青い世界へ視線を戻す。美咲さんも並び、俺たちは三人で静かに魚たちの舞いを見上げた。




