おかえり
電源の落ちたテレビの黒い画面。そこに残った指紋の跡と、枠の角の小さな欠け。普段なら見落とすものが、いまは勝手に目に入ってくる。時計は23:11――あと七分。
俺は喉を鳴らして、その数字を頭の中で何度もなぞった。
この三日間、やってきたのは確認作業の繰り返しだ。時計を見る。日付を見る。アラームを入れる。そして最後に、この黒い画面を見る。
枠へ手を伸ばすと、冷たさで指先が反射的に引っ込む。刺すような冷えじゃないのに、金属に触れた温度だけが指に残って、離れない。
数歩離れると落ち着かなくなって足が止まる。離れたいのに、気づくと体がテレビの前に戻っている。元の場所に戻った瞬間だけ、呼吸が少し楽になるのが腹立たしい。
息を吸っても胸の奥まで入っていかない。吐くと喉が乾く。水を飲んでも乾きが引かない。テレビを見たまま膝を押さえると、指先の震えがはっきり分かった。
――ガチャ。
玄関の鍵が回る音に、俺は顔を上げた。
扉が開いて、美咲さんが入ってくる。手にはコンビニの袋。バッグの肩紐が少しずれていて、急いだのが分かる。
「お邪魔します」
「……うん。入って」
美咲さんは俺の顔を見て、それから背後のテレビへ視線が行きかけて止めた。すぐに俺へ戻す。
「はい、これ。水とゼリー。あと甘いもの。喉、きついでしょう」
袋から中身を出して、テーブルの端に並べていく。動きは丁寧なのに、指先だけ力が入っている。
「助かった。ありがとう」
「まず飲んで。喉が落ち着いてから、次のことをやろう」
美咲さんはソファじゃなく床に座った。俺と同じ高さで、離れすぎない距離。
その距離だけで、胸の奥の固いものが少し緩む。ひとりで抱えていた緊張に、やっと相手が触れた感じがした。
「いま、何分前?」
「あと七分」
「……そう。じゃあ、いまは時間を数えるだけでいい」
美咲さんは小さく頷いて息を吐く。吐き方が整っているのが、逆に怖い。俺は乱れているのに、この人は崩れていない。
「直輝くん」
呼ばれて、意識が戻る。喉が鳴る。視線だけ美咲さんに向けた。
「……ごめん。考えが止まってた。いま聞いてる」
「怖い?」
まっすぐ聞かれて、笑えなかった。乾いた唇を一度舐める。
「……怖い。たぶん、今が一番きつい。心臓の音がうるさい」
「うん。怖いままでいい。動けるうちに、いま出来ることをやろう」
否定しない。励ましもしない。次にすることだけを置いてくる。
それが、いまの俺には助かった。
「いまだけでいい。いっぺん、深く吸って。吐いてみて」
「……分かった。やる」
「一回でいいよ。吸って」
言われた通りに息を吸う。肺が痛い。吐き出すと、肩の重さが少しだけ落ちた。
時計を見る。23:14。あと四分。
美咲さんがスマホを裏返して置いた。画面を伏せるだけで、部屋の音が減った気がする。
「直輝くん。立てる?」
「……立てる。俺が触る。いまのうちにやる」
「私は後ろにいるね。直輝くんの呼吸が止まりそうなら声かける。もし手が動かなくなったら、合図して。止めるから」
「……頼む」
俺は立ち上がって、テレビの前に行った。
枠にそっと指を置く。冷たい。冷たさが指先から広がっていくのに、指は離れなかった。
23:16。
部屋の音が遠い。冷蔵庫の唸りも、外の車の音も、聞こえているはずなのに頭に入ってこない。唾を飲み込む音だけがやけに大きい。
23:17。
心臓が一回、大きく鳴った。耳の奥で血の音がする。黒い画面だけが、輪郭までくっきり見える。
23:18。
部屋の空気が変わった。
黒い画面のいちばん下。枠と画面の境目に、白い線が一本走った。細いのに消えない。白い線はゆっくり左右に広がっていく。破れた感じじゃない。少しずつ、開いていく。
光が見える。でも目を閉じたくなる光じゃない。
そこから風が入ってきた。冷たくない。草と土と水の匂いが混じって、胸が少し楽になる。
頭の奥に短い言葉が落ちてくる。
『戻す』
命令というより、落ち着かせる声だった。
白い隙間が大きくなる。向こう側は見えないのに、通れる幅ができた。人が一人、通れる。
息が止まった、その直後。
「ナオキ!」
光の中から声がした。切れている。息が乱れている。
次の瞬間、リヴが転がるように飛び出してきた。足がもつれて、俺の胸にぶつかる。腕の中に体温が入ってくる。軽いけど、ちゃんと重さがある。呼吸がある。鼓動がある。
「……リヴ」
喉が詰まって、最初はそれしか出なかった。
リヴは俺の服を掴んだ。指先に力が入っている。肩が小さく上下している。
「ただいま……っ」
声が震えて、最後が小さくなった。
俺は息を吐いて、やっと言葉を繋いだ。
「……バカ。笑うな。どれだけ心配したと思ってんだ」
「……ごめん。待たせた」
リヴは言い切る前に、もう一度強く抱きしめてきた。息が落ち着かないまま、離れない。
「……三日だ。逃げ場なしで、ずっと最悪だった」
「……うん。ごめん。ほんとに、ごめん」
強がる余裕がないのが分かる。言葉の途中で息が引っかかる。帰ってきた。それは確かだ。でも、平気じゃない。
背後で、美咲さんが息を吸い直す音がした。
「……リヴちゃん」
リヴが顔を上げる。美咲さんを見て、目が丸くなる。言葉が出るまで、短い間が空いた。
「……ミサキ」
「……おかえり。ほんとに、よかった……」
美咲さんの声が少しかすれている。泣いているのに、笑おうとしている。
リヴは俺から半歩も離れないまま、美咲さんにも手を伸ばした。美咲さんが一瞬迷って、それからその手を握る。
握られた瞬間、俺の目が熱くなった。
俺はもう一度テレビを見る。
白い光はもうない。黒い画面はただの黒に戻っている。さっきほど冷たく感じない。
終わった――そう思った瞬間、膝が抜けそうになった。
俺はリヴの肩を抱いて支える。
「……ちょい、座る。足が抜けた」
リヴが俺の顔を覗き込む。まだ呼吸が浅いまま。
「ナオキ、立てる? 頭、ぐらってしてない?」
「いま立ってる。けど、このまま突っ立ってると崩れる。床でいい。ここで座る」
「うん……」
美咲さんが目元を指で拭って、小さく咳払いをした。
「……リヴちゃん。さっきの言葉、私には分からなかった。日本語で、ゆっくり話せる?」
リヴは口を結んで、言葉を探す。
「……日本語、はなす。……ミサキ、ひさしぶり。来てくれて、ありがと」
ぎこちない。でも、伝えようとしている。
美咲さんはゆっくり頷いた。
「うん。帰ってきてくれて……ほんとによかった」
「わたし、いま……ここ、いる」
美咲さんがリヴを抱きしめる。リヴの背中に手が回る。
「……あったかい。へん。うれしい」
「うん……うん」
美咲さんの声が震える。
抱きしめられているのに、リヴはすぐテレビの方へ視線を向けた。短く、はっきりと。
美咲さんもそれに気づいて、目を細めた。
「リヴちゃん。立てる? 気持ち悪くない?」
リヴは返事をしかけて、途中で止めた。
「……ちょっと。あたま、ぐるぐるする。立つと、ふらつく」
「吐き気は?」
「吐きたくない。でも……のど、すごく、かわく」
「飲める? 一口ずつでいい」
「うん。……ゆっくり」
俺がペットボトルを開けて、リヴの口元に当てる。リヴは一口だけ飲んで、すぐ離した。肩で息をする。
「……あまい。みず、あまい」
「それ、水じゃなくてスポドリ。いまは喉に入るほうが大事だ」
「すぽ……どり」
リヴが真似して言って、口の端が少しだけ動いた。でもすぐ、呼吸が浅いまま戻る。
落ち着いた気はする。けど、確信はない。
テレビの黒は元通りだ。それでも、視界の端で画面の見え方が変になる瞬間がある。疲れのせいかもしれない。けど、体はまだ緊張を解いていない。
美咲さんが静かに言った。
「……直輝くん。リヴちゃん。座ろう。床でいい。いまは体を落ち着かせたい」
「……うん。ここから動けない。いまは、この位置が一番マシだ」
俺はリヴを抱えたまま、テレビから一歩も離れない位置で腰を下ろした。床が固い。固さがあるだけで、少し現実に戻れる。
その直後、リヴがまたテレビを見た。
「……まだ、いる」
「何が」
リヴはすぐには答えない。息を吸ってから、言葉を選ぶ。
「むこうの……におい。ここに、ちょっとだけ、まざってる」
背中に汗が出た。美咲さんの声も低くなる。
「じゃあ……まだ完全に終わってない?」
俺は答えられなかった。
リヴが俺の袖を引っ張る。指先が強い。
「ナオキ。だいじょうぶ。世界樹に、崩壊核、渡した」
「渡したら、もう安全なのか。こっちに何も残らないのか」
テレビから目を離せないまま聞く。リヴは一度息を整えて、言い直した。
「わたしが……渡す役になった。だから、世界樹が受け取れた。あとは世界樹が処理する。崩壊核は、いま、わたしの手元にない」
「……渡す役?」
俺が聞き返すと、リヴは胸の前で両手を握った。
「ほんとは世界樹、さわれない。不具合が起きるから。……でも、いちどだけ、崩壊核を自分の中に閉じた。だから、短い時間だけ運べた」
「……自分の中に入れたのか」
「うん。一回だけ。で、世界樹に渡した」
美咲さんが声を落とす。
「リヴちゃん……それ、痛くなかった?」
「痛かった。……でも、いまは、体は動く。寝たら、戻る」
無理に明るくはしない。言い切った直後、息が少し震えた。
俺の喉が詰まる。
「……今日は休め。体が追いついてない」
「むり、してない。……ナオキが、いるから」
リヴはまた俺の服を掴んだ。指の力が抜けない。
テレビは黒いまま。光はない。それでも、画面の端が歪んで見える瞬間がある。
リヴが小さく言った。
「……もう、こわくない」
「いま言えるのは、体が動くってことだな。もし気分が落ちてきたら、すぐ言え。黙って耐えるな」
「……うん」
リヴは大きく息を吐いた。
「わたし、ちょっと……つかれた」
「そりゃそうだ。今日はもう何もしない」
美咲さんがゆっくり頷く。
「じゃあ、今日は休みましょう。テレビには触らない。リヴちゃんは水分を取って、落ち着いたら寝る。直輝くんも、いまは無理に起きてないで」
「……分かった。このまま、ここで休む」
リヴが俺の胸元に額を寄せた。
「……ナオキ、はなさないで」
「離さない。……帰ってきたんだろ」
「うん。……ただいま」
小さな声だった。
それでも、その一言で、俺の胸の奥の固いものが、ほんの少しだけほどけた。




