三日の約束
三日後の23時18分。俺はこの六畳間で、テレビの前に立っていなければならない。――世界樹から、そう指示を受けた。
電源の落ちた黒い画面は、ただ暗いだけじゃない。奥行きのないはずの黒が、妙に重く見える。目を逸らしても、視界の端で引っかかって、結局そこへ戻ってしまう。あの時刻になれば、リヴは本当に戻ってくるのか。
――ガチャ。
玄関の鍵が回る音で、俺は反射みたいに顔を上げた。立ち上がるほどじゃない。冷蔵庫が小さくうなって、窓の外を遠い車が流れていく。空気も匂いも普段通りだ。
それでも、部屋の中心にいるテレビだけが落ち着かない。黒い画面が、ここに「いる」みたいに重い。
さっき一度、この玄関は開いた。美咲さんを送り出して、ちゃんと閉めた。分かってる。もう安全だと自分に言い聞かせても、鍵の音が鳴るたび胸の奥が硬く鳴る。
もし知らない足音だったら。もし、あの黒い枝の気配が混ざっていたら。考えがそこへ滑った瞬間、喉の奥が乾いて唾が飲みにくくなった。
扉が開いて、美咲さんが入ってきた。両手にコンビニ袋、もう片方に紙袋。袋の中でペットボトルが当たって、乾いた音が小さく跳ねる。
息は少し上がっているのに、足取りは乱れていない。急がないように、一段ずつ数えて階段を上がってきたのが分かった。
「……戻ったよ」
美咲さんはまず俺の顔を見て、次の瞬間だけ視線が揺れた。テレビのほうへ体が寄りかけて、途中でぴたりと止まる。足先を揃えて一呼吸置き、袋を床にそっと下ろした。
触れない、と自分に言い聞かせる動きだった。
「息、切れてますよ。走ってないですか」
「走ってない。途中で一回深呼吸しただけ。……荷物、重かっただろ」
美咲さんは小さく首を振って笑おうとしたが、うまくいかなかった。代わりに、袋の持ち手を握り直す。指の節が白くなって、ようやく手がほどける。
俺はその手元から目を離せず、冷蔵庫のうなりを一つ数えるみたいに、息をひとつだけ深く吐いた。
「直輝くん。まず、置くね」
美咲さんは紙袋の口を開け、机の上へ手早く物を並べていった。水。すぐ食べられるやつ。ゼリー飲料。カロリーバー。小さなパン。缶のスープ。予備の充電ケーブルまで出てきて、俺は思わず瞬きをする。
必要なものが視界に並ぶだけで、胸の中の散らかったものが少しだけ静まった。
「水と、食べられるもの。あと充電。三日って聞いた時点で、これだけは揃えとく」
「……助かります。本当に」
声が裏返りそうになるのを、喉の奥で押さえた。美咲さんは頷くだけで、今度は俺の目を真っ直ぐ見た。赤い目は赤いままなのに、泣きそうな目じゃない。崩れないように支える目だ。
「直輝くん、説明して。いまのままだと私、勝手に悪い方へ想像しちゃう」
俺は頷いた。ここで格好をつけたら、余計にこじれる。言えることだけを、順番に短く。
「リヴは、生きてます」
美咲さんの肩が、目に見えて落ちた。深い息が一つ入って、机の上の指先が少し柔らかくなる。
「……よかった」
「でも、今ここにはいないです」
美咲さんは口を開けて、閉じた。言葉が出ない代わりに、袋の口を整え始める。手だけ動く。止まると崩れるから動かしている、そんな動きだった。
その間に、美咲さんの視線がテレビへ寄る。近づきたいわけじゃない。勝手に吸い寄せられるみたいに。
「……あのとき、黒い枝みたいなのがリヴちゃんを狙ったよね」
「はい。あのあと俺たちは……このテレビを通って、“向こう”に行きました」
「リヴちゃんの世界」
「そうです。リヴの世界、異世界です」
美咲さんは小さく頷いた。ここまでは、彼女も目の前で見たことだ。リヴが異世界のハーフエルフだってことも、受け入れている。
「私、見送ったもんね。リヴちゃんが……『直輝くんを守るために戻る』って決めたところ」
その言い方が胸に刺さる。あのときのリヴの顔も、美咲さんの顔も、まだ鮮明だ。俺は一度だけ視線を落として、テーブルの木目を見てから戻す。
「……結局、俺も付いて行った。原因を放っとけなかった」
「原因って、あの黒い枝の元?」
「そうです。伸びてくる枝の根っこが、どこかにいる」
喉の奥が乾く。付いて行った、の一言で済ませるには、向こうで見たものは重すぎた。美咲さんは唇を噛む。怒りそうにも泣きそうにも見えるのに、声は荒らげない。
荒げたら、黒に届きそうな気がしているのかもしれない。
「向こうも、もう普通じゃなかったです。向こうの人たちの力も借りて、原因に近づいて……最後は“世界の裏側”――境界の奥みたいな場所に、飛び込みました」
「理解が追いつかないけど……で、直輝くんだけ戻ってきた?」
「はい。俺だけ戻ってきました」
「リヴちゃんは?」
「向こうに残ってます」
美咲さんが、机の上の水の向きを揃え直した。何度揃えても、また触ってしまう。指先が忙しい。
絞り出すみたいに、声が落ちた。
「……なんで」
「……俺にもまだ全部は掴めてない。ここで推測で埋めるのは、いちばん危ない。」
美咲さんは数秒黙った。目を閉じて一度だけ息を吐き、また開く。立て直す動作だ。
「向こうで、何があったの」
俺は息を吸って、短く区切った。説明じゃなく、要点として置く。
「黒い枝の“元”になってるものです。魔素喰い、崩壊核……それと、世界樹」
美咲さんの眉がわずかに動いた。黒い枝が伸びたときの感触を思い出した顔に見えた。
「向こうで原因を止めるところまではいきました。崩壊核を封印した直後に……リヴも一緒に消えて、俺だけここに戻されました」
美咲さんは机の上を見つめたまま、ゆっくり息を吸う。吸ったぶんだけ、吐くのが遅い。
「封印……成功したのに、リヴちゃんが消えたのね」
「成功って言い切るのは怖いです。でも、崩壊核は止まった。少なくとも、あの瞬間は」
「直輝くんだけ戻されたのは、偶然?」
「偶然じゃない感じがします。誰かの都合で、この部屋に落とされた」
美咲さんの視線がまたテレビへ寄る。今度は距離を測るような目だ。俺の背中が冷える。
「美咲さん、テレビには近づかないでください」
「……分かってる。触らない」
受けるだけで終わらせないように、美咲さんは言い足した。
「触らないし、誰にも触らせない。……でも、見ちゃうね。勝手に」
「俺もです」
短く返すと、部屋の静けさが一段濃くなった気がした。黒が、息をしているみたいに。
「今ここで一番大事なのは、これです」
俺はスマホを取り上げて時計を見せた。日付と時刻。秒が普通に進む。普段なら当たり前の動きが、今は支えになる。
「俺が戻ってきたこの部屋が、“戻り口”になる。だから――三日後の同じ時刻に、この部屋で、境界になってるテレビの前に立てって“言われた”」
「言われた?」
「声じゃないです。頭に来た。短い指示だけ」
「誰に?」
迷って、でも嘘はつかない。美咲さんに伝わる形に削る。
「向こう側にいた、リヴのそばの“何か”です。……たぶん、俺たちが世界樹って呼んでたものの、意思」
美咲さんはゆっくり頷いた。言葉を飲み込むみたいに。
「三日後に、ここに立つ。それが条件ってこと?」
「たぶん。そういう言い方でした」
「……ずっとテレビの前から動くな、ってわけじゃないのね」
「“ずっと”は言われてないです。ただ……長く離れるのは、嫌な感じがします。短時間ならトイレも台所も行ける。けど、なるべく近くにいたい」
美咲さんの肩の力が、ほんの少し抜けた。
「よかった……。じゃあ、やることは単純。三日後の同時刻に、ここでテレビの前に立つ。それだけ守る。あとは体調崩さない」
声が、仕事のときの落ち着きに変わる。今はそれが助かる。美咲さんは袋から弁当を出してテーブルに置いた。サンドイッチも。お茶のペットボトル。ヨーグルト。水も数本。
「水は多め。夜中に買いに出なくて済むように」
「ありがとうございます」
「礼は後。いま食べる」
「……今ですか」
「今。食べないと頭が回らない」
俺は箸を取って弁当を開けた。普通の匂い。普通の米。口に入れると普通にうまい。こういう“普通”が、今は必要だ。
美咲さんは俺が飲み込むのを見届けてから、スマホを出した。
「三日後の同時刻。アラーム入れる。直輝くんのも」
「俺が入れます。画面、見てください」
俺がスマホを操作して、美咲さんが読み上げる。日付を確認。曜日も確認。三日後の同じ時間。念のため三十分前、十分前、当日は一時間前も。
数字が並ぶほど、胸の中の「よく分からない」が少しずつ形になる。
「これで寝落ちしても起きられる」
「助かります」
美咲さんは息を吐いて、もう一つ聞いた。
「その時間、私はいる? いたほうがいい?」
いてほしい。そう言うだけで自分が崩れそうで、言葉を選んだ。
「いてほしいです。……ただ、何が起きるか分からない」
美咲さんは迷わなかった。
「分かった。私も早めに来る」
一拍置いて、口の端をほんの少しだけ上げる。無理に作った笑顔じゃない。“決めた人”の表情だ。
「直輝くんとリヴちゃんを迎えられるように――言わないとね。『おかえり』って」
「……そうですね。リヴをちゃんと迎えないと」
その言葉を口にした瞬間、胸の奥にあった冷たさが、少しだけ形を変えた。不安じゃない。約束の形になる。
美咲さんはすぐ現実に戻る。戻るのが上手い。たぶん、それで何人も支えてきた人だ。
美咲さんはメモアプリを開いて、短く打つ。
・三日後同時刻
・食事(抜かない)
・睡眠(削らない)
・連絡は最小限(体調不良)
「これでいいかな。目印があったほうが、動けるでしょ」
「……はい」
美咲さんは一度、俺の顔を見た。
「リヴちゃんの声、聞いたって言ってたよね」
「聞きました。短く。“大丈夫”って」
「……それならいい」
美咲さんは、その言葉だけを今夜の支えにするみたいに言った。
「今夜はそれだけ信じて寝よ」
紙袋からインスタント味噌汁が出てくる。
「お湯、沸かすよ」
台所でポットが鳴る。湯気の匂いがしてくる。部屋がちゃんと“生活”に戻る。カップが二つ。俺に一つ渡される。
「熱いから気をつけて」
「ありがとうございます」
飲む。ちゃんと熱い。口の中が落ち着く。
美咲さんは床に座った。ソファじゃない。俺と同じ高さ。距離を詰めすぎない。詰めなさすぎない。
「直輝くん。三日間の予定、決めよう」
「予定……?」
「大げさにしない。普通の予定。いつ寝て、いつ起きて、いつ食べるか。三日後の時間に眠くならないように」
「今日、いま何時に寝られそう?」
「……一時には」
「遅い。できれば零時半まで。明日からも同じにする。起きるのは?」
「七時くらいです」
「よし。朝ごはんは食べる。昼も。夜も。抜かない。量は少なくていい。受け付けないならゼリーでもいい」
「……分かりました」
美咲さんは続ける。淡々としているのに、ちゃんと俺の呼吸を見ている。
「私が来る時間。明日は昼過ぎに来る。夕方も来る。明後日も同じ。三日後は二十時には来る。……怖くなる前に、先に来る」
「……お願いします」
「うん。あと、連絡の取り方」
美咲さんが俺のスマホを指さした。
「電源は切らない。マナーモードでもいいけど、着信は分かるように。私からの連絡は絶対気づけるように」
「はい。音量、上げときます」
「それと、外から来た人。管理会社とか、近所とか。誰か来たらどうする?」
「……出ないほうがいいですか」
「あなたは出ない。私がいるときは私が出る。いないときは基本出ない。貼り紙で済ませる。『体調不良のため対応できません』で十分」
「……分かりました。貼り紙、用意しときます」
美咲さんは少しだけ間を置いて言った。
「普段通りでいい。身構え過ぎると、体がもたない」
「……はい」
「風呂は?」
「入れます」
「なら入る。明日も入る。眠りの質が変わる。三日後に顔が死んでたらリヴちゃんが困るよ」
「……分かりました」
美咲さんは立ち上がって、部屋を軽く見回した。テレビのほうは見ない。台所と洗面所の位置、トイレへの動線、ゴミ袋の位置だけ確認してる。必要なことだけやる。余計なことは増やさない。
「ゴミはここでいい? 匂い出たら嫌だから、まとめる」
「大丈夫です」
「換気は?」
「少しなら」
「了解。じゃあカーテン閉めたまま、少しだけ窓開ける。寒くなったら閉める」
玄関へ向かいながら、美咲さんが振り返った。
「直輝くん、最後にもう一回。勝手に背負い込まない。変なことがあったら言う。怖いときも言う。分かった?」
「……分かりました。無理しそうになったら言います」
「よし」
「美咲さん」
「なに」
「……来てくれて、助かりました」
美咲さんは一瞬だけ顔をしかめて、でもすぐにいつもの顔に戻った。
「助かるなら、ちゃんと寝る。ちゃんと食べる」
「はい」
「じゃあ私は帰る。明日また来る。夜でも連絡していい。遠慮しない」
「……はい」
扉が閉まった。
部屋が静かになる。冷蔵庫の音。遠い車の音。湯気の残り。弁当の匂い。いつもの夜だ。
俺は食べ終わった容器をまとめて、ゴミ袋に入れた。手を洗って、トイレに行って戻る。違和感はない。普通に動ける。普通に戻れる。そこだけは確かだ。
スマホを見る。充電中。アラームも入ってる。
念のため、紙にも書いた。メモ帳に太字で。
『三日後 23:18 テレビ前』
時刻はスマホのアラームと同じに揃える。紙をテーブルの端に置く。目に入る場所に。
テレビを見る。電源は入っていない。いつもの黒い画面のまま。けれど、その黒が「ただの黒」だと、体が認めない。
三日後の同じ時間に、ここに立つ。
それだけ守ればいい。
布団に入る前に、もう一度だけ時刻と日付を見る。アラームの一覧も確認する。三日後の予定が、ちゃんと残っている。
息を整えて、目を閉じた。
「……リヴ」
小さく呼んで、返事を待たない。待つと余計なことを考える。
今は寝る。三日後に立つために――そして、あの黒の向こうから、ちゃんと「おかえり」を言えるように。




