黒い画面の向こう
――床が冷たい。
目を開けた瞬間、そこだけがやけに鮮明だった。裏側の、色のない足場じゃない。硬いコンクリート。いつもの六畳間。壁の角に落ちる影、カーテンの隙間から差す薄い街灯り。
なのに胸の奥だけが、まだ“吸われる気配”の中に置き去りで――俺は反射みたいにテレビへ顔を向けた。
「リヴが……生きてるか、答えろ」
喉から出た声は小さい。返事なんてあるはずもない。ここには俺しかいない。
吐いた息は散って、風も温度も空気の匂いもちゃんとある。
――それでも、白が来て黒が消えた光景がまぶたの裏に焼き付いたまま、頭が追いつかない。
崩壊核も、リヴも、いなくなった。
最後に残ったのは白い線、縫い目みたいな一本と、かすかに震えた“返事みたいな”動き。繋がった。取っ手が掛かった。成功だ。そう結論づけたはずなのに、目の前にリヴがいないだけで体が勝手に別の答えへ滑り落ちそうになる。
(消えた? 消えたまま?)
「やめろ」
自分の声で自分を殴る。勝手に最悪を確定させるな。
視界の端が一瞬揺れて、まぶたの裏に裏側の黒が戻ってくる気がした。深く吸い込む。埃っぽい部屋の匂いが肺に入って、ここにいるんだと無理やり思い出せる。
指先がじんと痛い。視線を落として、俺は息を止めた。
右手にバールがあった。
いつの間に持ち帰ったのか分からない。ただ掌に食い込む冷たさだけが、やけに現実だった。握りが強すぎて、指の節が白い。
床に置こうとして、置けない。落としたら、さっきの裏側が全部嘘になる気がした。
代わりに視線を上げる。テレビがそこにある。電源も入っていない黒い画面。六畳間の、いつもの黒。
……なのに、あの黒は裏側の黒と同じ“厚み”を持っている気がした。
画面の縁が、ただのプラスチックに見えない。見慣れた角度のはずなのに、ほんの少しだけズレているみたいで、目が勝手に焦点を探す。覗き込むほど、画面の奥にもう一枚、薄い膜がある錯覚が強くなる。
俺はテレビの前まで歩いた。一歩ごとに足裏の感覚が確かになる。床が足裏を押し返してくる。裏側と違って、逃げ場がない。それが今は怖い。
床の冷たさが足首からじわじわ登ってきて、ありがたいはずなのに身震いが止まらない。
「……世界樹」
呼びかけても返事はない。
ただ、黒の奥がほんの少し揺れた。電気の揺れじゃない。水面みたいな優しさでもない。もっと嫌な、内側からの動き。
唾を飲み込む音が耳の奥で響いて、喉の乾きがはっきり分かった。
「おい。頼むから……」
途中で切れる。頼むから何だ。返してくれ、見せてくれ――違う。まず確認だ。
言葉を整える余裕なんて、もう捨てた。いま必要なのは答えだけ。
「リヴが……生きてるか、答えろ」
沈黙のまま黒が濃くなる。
次の瞬間、その濃さが急に薄くほどけた。部屋の空気がひゅっと引かれる。耳の奥が詰まって、音が落ちてくる。
『ナオキ……聞こえる?』
リヴの声だった。
心臓が一拍遅れて、その次に息が喉を突き破る。返事が出るまでの間がやけに長い。声を出す筋肉が硬直して、すぐには動かなかった。
「聞こえる! お前、どこだ。無事か、今すぐ言え」
荒い声になった。荒いのに、耳だけは必死で拾っている。画面の黒に目を固定したまま、肩が勝手に上がっているのが分かる。
落ち着け、と喉の奥で噛んだ瞬間、リヴの息が返ってきた。
『無事、って言うには……ちょっと、重い』
怖がっている息じゃない。耐えている息だ。混ざった微かな掠れが、無理に声を通している証拠みたいで、胃の奥がきゅっと縮む。
『でも、生きてる。ナオキ、あなたは?』
「……六畳間だ。勝手に戻された」
言いながら部屋の角を見る。散らかったテーブル、伏せた紙、生活の残りカス。ここが戻る場所だと、無遠慮に主張してくる。
よかった、が喉まで上がってきて刺さったまま動かない。飲み込むだけで喉が痛い。
『よかった……』
リヴの声が少しだけ柔らかくなる。それだけで胸が痛む。優しいほど、距離が爪を立ててくる。
「崩壊核は」
聞くのが怖い。でも聞かなきゃ前へ進めない。
目を逸らしたら負けだと思って黒を睨んだ。掌が汗で滑りそうになって、バールの柄を握り直す。
『……入った』
間を置いて、リヴが言う。
『私の部屋に。動けない。……動けないはず。だけど、いる。すごく、いる』
“いる”が重い。
胸の奥がひやりと冷える。あの黒い塊が、彼女の内側に残っている。動けないはず、と言いながら、圧だけは確かにある。
想像が勝手に膨らみかけて、喉の奥で吐き気になりそうになる。
「お前は? お前が――」
言葉が詰まる。言い換えたら「お前も一緒に消えたのか」だ。聞いた瞬間に現実になるのが怖い。
『私は、今……世界樹さんの、内側にいるみたい』
テレビの黒がほんの少し波打った。声が、その波の向こう側から届く。音の薄さが距離そのものだった。
六畳間にいるのに、足元が頼りなくなる。
『白い部屋とは違う場所。根っこみたいな光があって……私の輪郭が、少し薄い』
「薄い?」
嫌な想像が喉元まで上がってきて噛み潰す。胸の奥で、折れた枝みたいな音が鳴った気がした。
『溶けそう、っていうのが一番近い』
俺は拳を握る。掌の汗で、バールの冷たさが戻ってくる。縋ってるみたいで腹が立つのに、縋らないと崩れそうだった。
「溶けるな。勝手に――」
言いかけて止める。“勝手に”じゃない。俺たちが選んだ。世界を守るために。だから戻す責任がある。
声を荒げたら、リヴの輪郭がもっと薄くなる気がして、奥歯を噛んだ。
「……待て。世界樹に言え。戻せるのか。戻す気があるのか、はっきりさせろ」
自分でも分かるくらい声が低くなる。怒りじゃない。祈りでもない。確認だ。次の手を決めるための。
焦げつくみたいな沈黙の中で、リヴの呼吸が一度だけ揺れた。
『……今、世界樹さんが――』
その瞬間、テレビの黒が割り込んだ。
リヴの声が遠のいて、別の“言葉”が落ちてくる。声じゃない。音でもない。規則みたいな断言。
『返す』
たった二文字。
背中の皮膚がざわつく。嘘が混ざる余地のない、言い切りだった。短いほど逃げ道が消える。
「……返す?」
『返す』
繰り返される。俺は息を吐いた。吐いたのに胸が軽くならない。返すと言っただけで、返ったわけじゃない。
むしろ、ここで“返す”を突きつけられたせいで、俺の役割が確定した気がした。
「いつだ。どうやってだ」
問い詰める形になる。それでも曖昧にされたら俺は壊れる。
手のひらが痺れて、テレビの枠に触れようとしても指先が震えた。黒が一度だけ濃くなる。
『点を保て』
「……点?」
『お前の場所が戻り口になる。動くな。切るな。忘れるな』
命令形で、役割が一気に固定された。
六畳間。テレビの前。ここが固定点。リヴが帰るための座標。
背筋が冷えるのに、どこかで救われる。やることが一つに絞られたからだ。
「……分かった。ここにいる。絶対に動かない」
言ってから、テレビの枠に手を置いた。
叩かない、壊さない、切らない。
黒の奥へ向けて呼びかけ直す。声がぶれたら繋がりがほどける気がして、言葉を短く、それでも外さない。
「リヴ。聞こえるか」
『うん……聞こえる。世界樹さんの声、重いね』
軽口の形を借りて、怖さを押し込めてる。分かる。俺の喉も乾いて、舌が上顎に張り付いた。
俺まで揺れたら線が細くなる。そう思って、呼吸だけを揃える。
「溶けるって言ったな」
『……うん』
「溶けるな。戻すから。帰すから、そこにいろ」
約束の形にして口に出す。言葉は軽い。でも言わないと形にならない。
黒の奥で、リヴが息を吸い直す気配がした。ざらついた音が混ざる。
『……ナオキ』
名前を呼ばれて、黒が一瞬だけ薄くなる。返事みたいに脈が打つ感触があって、固まっていた何かが少しだけ緩む。
溶けるのは俺でいい。リヴは溶けるな。
『私ね、いま、自分の指を見てる。輪郭が、ほどけるみたいで……怖い』
「怖いなら、怖いって言え。言っていい」
『言ってるよ』
弱く笑う気配が、余計に痛い。笑うのは強がりだ。強がりのぶんだけ、どこかが削れてる。
『ナオキ、切らないで。ここ、まだ繋がってる。私の部屋と、世界樹さんの内側と、あなたの六畳間……変な線で繋がってる』
「切るかよ」
吐き捨てるみたいに言って、俺はバールを床に置いた。
ガン、と鈍い音が部屋に残る。裏側では薄かった音が、ここでは重さを持って残った。
――ここが現実で、帰す場所だ。
音も重さもある。だから戻れる。
それでも、黒の奥はいつまた厚みを増すか分からない。会話が切れる感覚は、糸が指から抜けていくみたいに無音で、気づいたときには遅い。
俺はテレビから目を離さないまま、呼吸を整えた。
「お前は今、何してる。崩壊核を抱えたままか」
『抱えてる、っていうより……胸の奥が重くて、内側の部屋の隅に黒い“染み”が張りついてる。動けないのに、吸う圧だけはある』
喉がまた乾く。吸う圧。あの黒が、まだ何かを求めている。
動けないのに“いる”――その事実がじわじわ刺さる。
『世界樹さんが、受け皿を作るって言ってる。私が……手袋になるって』
「手袋……」
繰り返すと、現実味が増す。誰かがやるべき役を、リヴが背負った。背負わざるを得なかった。
俺は点として、逃げられない。
『直接触れたら、世界が汚れるから。だから、私が境目になる』
声が揺れる。怖さだけじゃない。覚悟の重さだ。
「無茶すんな」
『……あなたに言われたくない』
そこで、ほんの少しだけ笑う。
笑えたら大丈夫だと思いたいのに、思うほど胸が苦しくなる。喉の奥がきゅっと縮んで、息が一瞬引っかかった。
『でも、大丈夫。世界樹さんが――』
言いかけたところで、テレビの黒がまた厚みを増す。
空気が引かれる。線が細くなる。耳が遠い水の中へ沈むみたいに鈍っていく。
俺は反射で画面に額を近づけた。冷たいはずの画面が、ぬるい熱を持っている気がして背中に汗が浮く。
「リヴ!」
『聞こえる。大丈夫。……ナオキ、動かないで。そこにいて』
「いる。ここで待つんじゃない。ここを保つ」
即答した。言葉が短いほど揺れない。揺れたら切れる。切れたら帰れない。
『私、やるね。引き渡す。直してもらう。……帰るために』
最後の言葉が少しずつ遠くなる。
ぷつり、じゃない。すっと線が奥へ引かれていく感触だけが残る。悲鳴を上げる暇すらない速度で、繋がりが退いた。
テレビの黒が、ただの黒い画面に戻る。いつもの黒。何も映さない黒。
戻ってきたはずの六畳間が、いきなり広く感じた。
俺はその前に座った。背中を壁に預け、膝も抱えず、ただ“そこにいる”形を作る。
姿勢を崩すのが怖い。体温の位置がずれたら固定点がずれる気がして、背骨を一本ずつ壁に沿わせるように落ち着かせた。
時計は見ない。時間の話じゃない。繋がりの話だ。
どれだけ待てばいいかなんて、ここでは意味がない。意味があるのは切らないこと、忘れないこと、ここに在り続けることだけ。
世界樹の命令が、頭の中で繰り返される。
動くな。切るな。忘れるな。
俺はテレビの前で息を整えた。床の冷たさが尻から背中へ伝わり、部屋の埃っぽさが鼻の奥に残る。
その全部を、ここが戻り口だという証拠として抱え込む。
黒い画面の奥の気配が、もう一度揺れるのを待つ。
今度は途切れないように。線が細くなる瞬間を見落とさないように。
呼吸の回数まで数えるみたいにして、俺は点を保ったまま座り続けた。




