崩壊核の跡
黒い塊――崩壊核が、こちらへ“向いた”気がした。腰に差したバールの冷たさが、服越しに掌へ移る。息を吐いても散らない、この裏側の空間で――「リヴ、下がれ」と言いかけた瞬間、枝が一斉に目を覚ました。
門も帰り道もない。――もう戻れない。
……守り切れるのか。
吐いた息がどこにも逃げない。風がない。温度が乗らない。あるのは、吸われる気配だけだ。地球の膜と、この世界の膜――二枚の薄い膜が遠くで向かい合い、その真ん中に黒が縫い付けられている。
俺たちはもう境界を跨いで、ここにいる。戻れないと分かっていても、足元の感覚だけが追いつかない。ただ、この裏側の足場に立っているだけで、足場のほうが俺たちを覚えていないような感覚すらした。
「……じゃあ、まとめるぞ」
自分に聞かせるみたいに言って、指を一本立てる。声が吸われて、少し遅れて返ってくる。その感触が喉の奥に残って気持ち悪い。
「一つ。あれが“世界を壊してる元凶”だ。止めないと、こっちの世界も地球も、まとめて終わる」
リヴが喉を鳴らして頷く。胸元を押さえた指に、さっきより力が入ったのが分かる。
「うん……だから今、ここに来たんだよね」
指を二本に増やす。言葉を選ぶほど、呼吸の浅さが目立つ場所だ。
「二つ。崩壊核は世界樹ってでかいOSに組み込まれた“間違えたお掃除”だ。魔素を均す機能がバグって、“全部食べれば安定する”って暴走してる」
リヴは目を伏せた。噛みしめるみたいに、まつげが一度だけ震える。
「……世界樹さんの中の、間違った掃除当番」
「そう。で、それを止めないといけない」
指を三本にする。息を整えようとしても、ここじゃ整う感じがしない。整ってほしいのは、たぶん俺のほうだ。
「三つ。倒すとか壊すとかじゃなくて、“切り離して隔離”が現実的だ。世界樹の中の機能なら、下手に壊したら土台ごとやられる」
言い終えた瞬間、視線が勝手にリヴの胸元へ落ちた。そこに見えない取っ手があるみたいで、空間のほうが先に緊張する。
「だから――私の“内側の部屋”だね」
リヴが胸に手を当てる。小さな動きなのに、背中が粟立った。
「……内側の部屋は、世界のルールの外側にある。魔素の流れが届かない。時間が動かない」
俺は頭の中で順番を並べ直す。中に入ったものは動けない。暴れる核も、噛みつく枝も、動けない。そこまでは分かってる。
「それに――器が消えたとき、その部屋ごと消える。中身も一緒に」
口に出した瞬間、リヴの指が胸元をわずかに強く押さえた。目線がほんの一瞬、揺れる。
「……私が消えたら、崩壊核も一緒に……」
「現時点では、それしか対策がなかったんだろうな」
言ってから、一度だけ目を閉じる。順番の話だ。焦っても、この裏側は焦りに合わせてくれない。
「まず暴走を止める。止めてから次を探す。バグなら修正パッチでも、代わりの器でも――そこは世界樹に最後まで働いてもらう」
リヴはきょとんとした顔をして、それからふっと笑った。薄い空間の中で、その笑いだけがやけに温かい。
「……ナオキらしい。諦めない順番だね」
「そもそも、リヴが消えて崩壊核も一緒に消える保証もないしな。世界樹にも最後まで働いてもらう。性格わるいかな?」
リヴは眉をほんの少し下げて、それでも口の端を上げたまま、俺を見た。
「ううん。好き。そういうの、ちゃんと頼れる感じがする」
さらっと言うな。喉の奥が詰まって、変な咳が出そうになる。
言い返す前に――空気が変わった。
音じゃない。崩壊核の表面が、わずかにこちらへ“傾いた”気配。目のような窪みが見えた錯覚が走って、背中の皮膚が先に理解する。
気づいた。俺たちの侵入に。リヴの魔素の匂いに。
次の瞬間、崩壊核の周りで眠っていた枝が一斉に起きた。伸びる。狙いは一つ――リヴ。
速い。速いのに、勢い任せじゃない。避けた先を塞いでから刺す。逃げ道を作らせない動きだ。
「来る!」
叫ぶより先に、腰から一本抜いた。バール。今まで一度も使ってない武器で、派手さの欠片もない鉄の棒。
握った瞬間、冷たさが掌に貼りつく。頼りないのに、頼るしかない重さがある。
「リヴ、下がれ! 一回だけ距離取れ!」
リヴが半歩引く。引きながら手のひらを開いた。火でも氷でもない、リヴの“言葉にならない魔法”が走る。黒い枝の先が燃えも溶けもせず、ただ輪郭だけ欠けた。
――なのに、止まらない。
欠けたぶんを埋めるみたいに別の枝が伸びる。一本が消えるたび、二本が来る。数が、悪意みたいに増えていく。
俺は前へ出た。
枝は俺を避ける。――避けるというより、数に入れてない。魔素のない俺は対象じゃないらしく、黒い線は肩のすぐ横を抜けて、リヴへまっすぐ伸びた。狙いが一点に絞られる。守る側にとって最悪だ。
「……っ」
リヴは迎撃で手一杯になっていた。魔法を放つたび、呼吸がわずかに浅くなる。吸われるのを押し返しているのが、目に見える。
「ナオキ……!」
「分かってる!」
枝の束がリヴの足元へ絡むように潜り込む。逃げる足を奪ってから上を刺す形だ。俺はバールを振り抜いた。
鈍い感触。黒い枝の“硬さ”が鉄に返ってくる。木でも石でもない。折るというより、こじる。一本、次、次。折れた端が本体へ引かれるみたいに揺れ、戻ろうとして戻れないまま、また伸びようとする。
こいつらは自分の意思じゃない。ただ命令に従って伸びてる。なのに折った瞬間だけ、枝が“迷う”みたいに止まる。痛みを知らないくせに、痛みの真似だけするのが腹立たしい。
「……本体が引いてる」
枝を折るだけじゃ追いつかない。引き手に触れないと終わらない。
俺は崩壊核を見た。近づくほど黒が濃くなるはずなのに、逆だ。黒いのに輪郭だけが強くなる。触れたら“持っていかれる”って確信だけが増える。
リヴの迎撃が一瞬遅れた。枝が肩へ届きかける。
「ッ――!」
体ごと割り込んで、バールの先を枝の節に突き立てた。頭で考える前に体が動く。メリ、と嫌な音。枝が折れる。黒い欠片が飛んだ。
欠片が落ちない。落ちる場所を失ったみたいに、ふわりと空中に残る。
同時に、足元の硬さが紙一枚ぶん剥がれる感覚があった。踏みしめても、地面が返ってこない。――世界に載っていない。
長居は危ない。ここは世界の裏側だ。たぶん、俺のほうが先に薄くなる。
「……ありがとう」
リヴの声が細い。俺は頷くだけにして、視線を崩壊核へ戻した。距離。枝の流れ。俺が無視される隙間。
――通れる。
一歩、二歩。枝は俺を避けたままリヴへ伸びていく。その“隙間”が通路になる。
「ナオキ、無茶――」
「無茶じゃない。今しかない。お前は迎撃を続けろ、合わせる」
バールを両手で握り直す。狙うのは破壊じゃない。届くこと。気づかせること。
振り下ろした。
ガン、と鈍い衝撃が腕に返る。硬い。折れない。割れない。凹みもしない。崩壊核本体にダメージなんて入らない。入るわけがない。
でも――衝撃は“通った”。
黒い塊の表面が、ほんの少しだけ波打った。優しい揺れじゃない。内側から震えるような、嫌な脈だ。崩壊核が、こちらを“向いた”。
黒い枝の流れが一本だけ、ぴたりと止まる。止まった枝が、次の瞬間、方向を変えた。俺へ。
「……あ、そうなるんだ」
今まで俺を数に入れてなかった黒が、初めて俺を対象として数えた。遅い。遅いから、分かりやすい。
枝が俺の足元を狙ってくる。足場ごと絡め取って引きずり込むつもりだ。リヴへの圧が、ほんの一瞬だけ軽くなる。
俺は笑った。声が出る範囲で、ちゃんと。
「俺に気づくのも遅いけどさ」
枝が空間を撫でる。冷たいのに焼けるような感覚が走った。皮膚の表面が一枚薄くなる錯覚――いや、錯覚じゃない。足の裏の感覚が半拍遅れて返ってくる。地面が俺を覚えていない。
それでも前へ出る。バールを構え直して、枝の間へ体を滑り込ませた。
「なんの力もない俺に意識を向けるなんて――悪手だろ」
崩壊核が枝をさらに伸ばす。俺へ、俺へ、俺へ。守るべき本体を守るために、守る必要の薄い俺へ。
枝が一本、喉元へ跳ねた。
息が詰まる。反射でバールを差し込む。金属と黒が噛み合って、火花の代わりに“輪郭”が削れた。腕が痺れる。握力が抜けそうになる。バールを落としたら、次は俺が落ちる。
――いい。こっちを見ろ。もっと。
枝の“流れ”が変わった。今までの雑な追い払いじゃない。俺の動きの先を読んで、逃げ道を潰してくる。存在を認識させるには十分だった、って言わんばかりの執拗さ。
枝が俺だけを狙って増える。速さも角度も、さっきまでとは別物。バールを握る指が、痺れたまま開きかけた。
その瞬間を、リヴが逃さなかった。
黒い足場を蹴って、リヴが跳ぶ。軽い。軽いのに、決断だけ重い。一直線に崩壊核へ距離を詰めた。
「リヴ!」
「今しかない! ナオキ、目を離さないで!」
走りながら胸元に手を当てる。白い部屋を呼ぶ動き。術式でも詠唱でもない。ただ、“そこにある”ものへ手を伸ばす。
崩壊核の直前。止まれない。止まったら吸われる。だから言葉で押し切る。
「貴方も世界を守るシステムの一部なんだろうけど――」
リヴの声が空間を突き抜ける。震えてない。震えてるのは周りのほうだ。
「貴方は世界を壊しちゃう」
リヴの足元に白い影が落ちた。影なのに輪郭が眩しい。世界の外側の白。触れたら“止まる”場所。
リヴが崩壊核の表面をなぞるように手を伸ばす。直接触れない。白を先に当てる。縫い目を探す。
――縫い目。
俺には見えない。けどリヴは一瞬だけ指先を止めた。そこだけ、布の継ぎ目みたいに引っかかる場所がある。
枝が俺の肩をかすめた。腕が痺れたまま、言葉が喉の奥で欠ける。視界の端で、リヴの輪郭まで薄くなりかけた。吸う圧が跳ね上がる。崩壊核が、自分に取っ手を掛けられるのを理解したみたいに。
それでいい。俺が受けてる間に、リヴが届く。
リヴが叫ぶ。
「だから私の部屋に入って!!」
白い影が、崩壊核の表面に“掛かった”。
掛かった瞬間、吸う圧が跳ね上がる。黒い塊が初めて「拒む」みたいに脈打った。拒むくせに逃げられない。縫い目に取っ手が掛かったからだ。
世界の裏側が息を止める。
白い影が掛かったまま、崩壊核が一度だけ大きく脈打つ。吸う圧が跳ね上がり、俺の視界の端が削れる。音が遅れて消えていく。
――持っていかれる。
そう思った瞬間、白が来た。
目が眩むほどの白い光が、裏側の空間そのものを裏返すみたいに広がった。枝が鳴るはずの音も、俺の息の音も、全部まとめて“無”に落ちる。
次の瞬間、光がすっと引いた。
そこには崩壊核が――ない。黒い塊も、縫い付けられていたはずの重さも、空間の歪みも、丸ごと抜け落ちたみたいに消えていた。
「……リヴ?」
声が自分の喉から出たのか、出てないのか分からない。足元がまた薄くなる。世界が俺を記録しない。慌てて一歩下がって、さらに二歩下がると、残っていた枝が目的を失ってぐにゃりとたわみ、ほどけるように輪郭を失っていった。
俺はバールを握りしめたまま、空白になった場所を見つめた。
リヴも、いない。
胸がひやりとする。「成功」と「最悪」は、見た目だけだと似てしまう。
「リヴ……!」
呼びかけた瞬間、空白の中心に細い“白い線”が残っているのに気づいた。縫い目みたいな一本線。さっきまで黒が縫い付けられていた場所に、白だけが残っている。
光じゃない。部屋の跡だ。――繋がった痕。
背骨の奥が、今度は確信でざわついた。俺はその白を睨みつけて、声を押し出す。
「……無茶すんな。勝手に消えるな」
白い線が、かすかに震えた。返事みたいに。




