準備の日、ギルドの地図と工房の机
ヴェルンの城門前は、まだ陽が昇りきる前だというのに人の熱で白く煙っていた。鎧のきしむ音、馬の鼻息、油と鉄と革の匂いが冬へ向かう冷気に混ざり、そこだけ別の温度が溜まっている。門の陰には見送りの街の人々が列を作り、誰も声を張らない。ただ小さく手を振り、指を組み、唇の内側で祈りを転がしていた。
「ナオキさん。帰ってきたら、缶詰……一緒に開けるって約束、忘れないでくださいね!」
人垣の隙間からラナが手を振った。目の周りは少し赤いのに泣き顔にはなっていない。崩れないように、自分の顔を自分で支えている。明るく作った声の勢いが可笑しくて、俺は息を抜いた。
「……そっちか。命より缶詰が先なの、怖いな」
「先じゃないです! でも、忘れたら怒りますから。ほんとに」
胸を張って言い切ったあと、ラナは一瞬だけ視線を落とした。すぐ戻る。たったそれだけの揺れが、胸の奥を小さく引っかく。俺は笑ったまま、冷えた息が喉に引っかかったのをごまかすように唾を飲んだ。
「忘れたら怒るんだろ? じゃあ怒らせないように戻る。缶詰、開けに来るよ」
「もちろんです! だから……ちゃんと開けに戻ってきてください!」
背後からセラさんが苦笑しながら前へ出てきた。ラナの頭をひと撫でして落ち着かせると、余計な前置きもなく俺の襟を軽く払う。引き止める手じゃないのに、触れた指先の温度だけが布越しに残った。
「ラナが怒るのは帰ってきてから。……まずはちゃんと帰ってきなさい」
「はい。帰ってきます。……そのために行ってきます」
セラさんは頷き、今度は口元だけで笑う。
「こっちは帰ってくる人のためのご飯を準備しとくからね。胃に優しいやつと、その次の日のがっつりモード。――両方」
「両方食べに戻ります。……その“次の日”が来るように、ちゃんと」
言い終えた瞬間、胸の内側がきゅっと詰まった。セラさんの頷きは早い。言葉にされない「信じてる」が先に来て、口の中が乾く。
門の陰からミーナさんが書類の束を抱えたまま出てきた。ギルドの制服で、表情は固いのに目だけがまっすぐだ。逃げ道を塞ぐ視線が、こちらに刺さる。
「……怖いのは、怖いですけど。みんなで帰ってきたあとに愚痴を聞くくらいならちゃんとやります。だから、戻ってくるついでに……仕事を増やしすぎない程度でお願いします」
「愚痴と自慢話、半分ずつ持って帰ります。戻ったら、聞き役をお願いしたい」
わざと軽く言うと、ミーナさんは一瞬だけ目を潤ませ、それからきゅっと笑った。
「逃げません。……楽しみにしてますから」
それだけ告げて、彼女はすぐ持ち場へ戻っていく。背中が離れるのが早い。見送る側の熱を、これ以上引っ張らないための速さに見えた。
門のほうから低い声が飛ぶ。
「先鋒、配置につけ!」
ギルドマスターだ。いつもの古いコート姿のまま門の影からずん、と踏み出してくる。その足取りは鎧を着た兵士よりよほど重い。
「ナオキ、行こう」
「ああ。……行ってくる」
俺はもう一度だけ振り返り、セラさんとラナに手を振った。二人の「行ってらっしゃい」が朝の冷たい空気を震わせる。その余韻を背中に受けたまま列へ戻ると、城門が軋む音を立てて開いていった。石畳から土の道へ足裏の感触が変わり、ヴェルンのざわめきが背後へ離れていく。
重い盾を並べた戦士たちが最前列、その後ろに槍と剣、さらに弓と魔法使い。俺とリヴは前衛のすぐ背後、盾列の影に入る位置についた。首元には小さな金属の冷たさ――ホイッスルが、指を伸ばせばすぐ触れられる距離にある。
左手ではリヴの指を握っている。握り返す力が、いつもより少し強い。
「ナオキ」
「ん? ……どうした」
リヴは小さく息を吸い、いつもみたいに話題を探すように言った。
「ちゃんと帰ってきたらさ。ラナの缶詰と、セラさんのがっつりモード……どっち、先にする?」
「難しいな。胃に優しいのを挟まないと、ほんとに死ぬ気もするし」
前を向いたまま、口元だけで笑ってみせる。盾の縁越しに見える淡い空が、白すぎて目が痛かった。
「じゃあ、帰り道で相談だ」
「うん」
それだけのやり取りで、胃のあたりにこびりついていた重さが、ほんの少しほどける。
しばらくは、いつもどおりの街道だった。朝日を斜めに受けて光る畑、遠くで荷馬車を引く農夫の背中。避難に向かう小さな隊と何度かすれ違い、そのたび人々は帽子を取って頭を下げた。
帽子を取った手が、なかなか下がらない。返事の場所だけが空いている。俺は言葉の代わりに顎を引いた。余計な動きは背中の重さを増やすだけだ。
最初の村に着くころには太陽はもう高かった。けれど村は静かすぎて、洗濯物も焚き火の煙もない。開きかけたままの扉と、その前に立つ兵士だけが目に入る。
「ここから先の住民は、すでに避難済みです!」
ひとりの兵士がギルドマスターに向かって声を張った。
「問題の畑は、あちらに。……見れば、すぐ分かります」
案内された先で、俺たちは言葉を失った。畑の一画だけが古びた白黒写真みたいな色になっている。土も草も全部が同じ灰色に潰れ、割れた地面から突き出た枯れ茎が風に揺れても、音がしない。すぐ隣の畝にはまだ青い葉が残っているからこそ、境目だけが妙にはっきりしていた。
「……ひどいな」
思わず漏れた声に、前列の剣士も「うへえ」と顔をしかめる。
「作物の被害って話で済む顔してねぇ。これ、村ごと持ってかれるやつだろ」
リヴが小さく頷いて膝を折る。灰色の土にそっと指を触れた瞬間、ひやり、と指先が痺れた。冬の冷たさじゃない。熱を奪うというより、触れた感触そのものが薄い。土のはずなのに“空っぽ”みたいだった。
「魔素の流れを……雑に引きちぎった跡」
リヴは息を吐き、指先のざらつきを確かめるように撫でる。
「森で見た針目の周りに似てるけど、あっちは縫い目がほどけかけてただけ。こっちは布ごと破ってる。浅くて乱暴……端が、ぐしゃぐしゃ」
言い切ったあと、唇を一度だけ噛む。言葉より先に身体が拒んでいる。俺はその横顔から視線を外し、すぐそばの井戸を覗き込んだ。水は澄んでいるのに、頬に触れる空気が薄く冷えている。さっき踏んだ灰色の土と、同じ匂いが混じっていた。村が冷えたんじゃない。外から貼り付けられた冷たさだ。
喉の奥で苦いものを飲み込む。ここで止めなければ、この先の街道沿いも同じ穴だらけになる。想像のはずなのに、その景色が泥の重みで胸に張り付いた。
「ここを基点に陣を敷き直す!」
ギルドマスターの声が飛ぶ。
「村側に目印を立てろ! 避難と警戒は兵士に任せる。討伐隊は、この先だ!」
旗が立ち、兵士たちが動き始める。その少し先で風の匂いが変わった。最初に消えたのは空だった。さっきまで頭上を横切っていた鳥の影が、いつの間にかない。次に風が変わり、頬を撫でていた冷たさが急にぬるくなる。寒くはないのに土の匂いも草の匂いも、するっと抜け落ちていった。
「……嫌な感じだね」
リヴが胸元を押さえる。握った手の中で、微かな震えが伝わってきた。
「大丈夫。嫌だって思ったら言え。俺が先に危ないと思ったら、笛を吹く」
声は低く、短く。余計な言葉を足すほど揺れる。
「うん。……それまでは、ちゃんと前を見てる」
前方から走る足音が近づく。息を切らした偵察役の冒険者がギルドマスターの前で足を止めた。
「どうだ。見えたものを、落ち着いて言え」
「街道の先の畑地帯が、一帯だけ夜みたいに暗くなってます。その真ん中で、黒い影の塊みたいなのが……うごめいてて」
「形は一定か?」
「伸びたり縮んだりしてます。……一定しません。あまり見てると目がおかしくなりそうで……」
その言葉の最後に合わせて、胸の奥の棘が乾いた音で軋んだ。内側の部屋の扉が、音もなく揺れる。まだ鍵はかかっているのに、外から取っ手に手がかかったような感覚が背中を撫でた。
「先鋒、前へ! 盾、構えろ!」
号令が陣を走る。
「これより先、足を出す場所を間違えるな! 一歩の差で、生きて戻れるかどうかが変わるぞ!」
「ナオキ」
「いる。……聞こえてる」
握ったリヴの手に力を込める。
「嫌だって思ったら、ちゃんと言え。お前が言う前でも危ないと思ったら、俺が笛を吹く。合図は俺が握る」
「うん。……それなら、私も迷わない」
黒い獣は遠くからでも分かった。畑の真ん中に夜が一塊で落ちている。まだ日が高いのに、その一帯だけが夕暮れより暗い。影の塊が呼吸するように伸び縮みし、輪郭を追おうとすると視界の端がじわりと滲んだ。焦点がずれるというより、見てはいけない場所へ引っ張られる。
「……見えるか」
前列の大柄な剣士が低く呟く。
「あれが……黒い獣ってやつか」
角笛を持つ兵士が指を添え、隣の魔法使いは杖の先に静かな光を灯す。光を揺らさないよう腕を固めているのが、なお怖い。
「ここらで止めとくか」
ギルドマスターが前へ出て、土を爪先で軽く蹴った。
「これ以上近づきすぎると、喰い込まれる。盾列、ここで前を塞げ!」
重い盾が一斉に前へ出る。鉄と木の板が隙間なく並び、簡易の壁が出来上がった。
その瞬間、黒い塊から黒い「枝」が伸びた。一本じゃない。何十本もの枝が地面を掻きむしるようにはい出し、木の根にも似たそれが、色だけを奪いながら音もなく走ってくる。
「来るぞ!」
剣士の怒鳴り声と同時に、一本の枝が先頭の槍兵の足元を薙いだ。脛のすぐそばで大地の色が抜ける。踏ん張っていた土が灰色の粉みたいに崩れ、足場がずるりと沈んだ。黒い枝が今度は人間そのものを狙って跳ね上がり、槍兵の胸めがけて鞭のようにしなる。
「土壁!」
リヴの声が弾けた。前列の足元から分厚い土の壁がぐんと立ち上がり、槍兵の身体をすっぽり覆う。黒い枝が叩きつけられて鈍い音を立てて弾かれたが、ぶつかった部分の土の色がじわりと褪せていった。
「今の……壁ごと喰いやがったのかよ」
槍兵の声が引きつる。土壁は表面を削られながらも、まだ獣を押しとどめていた。
「押すな! 踏ん張れ!」
ギルドマスターの声が飛ぶ。
「盾は守りじゃない、ここを保つための板だと思え! 足元を見ろ!」
黒い枝が何本も地面を舐めるように走り、通った跡だけ土が灰色に乾いていく。さっき見た畑の灰色が、今この場で増えていくのが分かった。
「このままだと、立ってる場所がなくなるぞ!」
叫びが上がるのとほぼ同時に、後方で魔法使いが詠唱を終えた。
「火弾っ!」
炎の球が黒い枝にぶつかってはじけ、燃え上がる。枝の表面が赤く割れ、砕けて落ちた。効いている――けれど、砕けた欠片が落ちた場所の土もまた色を失っていく。胃の奥が冷えた。
「効いてはいるけど、追いついてねぇな」
弓使いが舌打ちする。
「これは身体じゃない。外側の……なんだ、上着みたいなもんだぞ」
ギルドマスターが歯噛みする。
「外套だけをちまちま削ってるようなもんだ!」
黒い塊は、こちらを計っているみたいに形を変えた。真ん中が膨らみ、枝が一斉に地面を叩く。灰色の斑点が一気に広がる。
「マスター!」
俺は声を張った。肺の奥が痛い。
「外側だけなら、まだ間に合うはずです! 削り切る前提で動ける!」
「どうするつもりだ」
問いに答えたのはリヴだった。土壁の影から一歩出て、黒い塊を真正面から見据える。呼吸は浅いのに、目が逸れない。
「ここで止めたい。……私の魔法、全部使う。外套だけ剥がして、核にはまだ触れない」
後ろの魔法使いたちが一斉に振り向く気配がした。
「全部って、お前――」
「ナオキから教わったカガクの魔法、全部ぶつける」
言い切って胸元のお守りをぎゅっと握る。
「だから、そのあいだ……人を守ってて。前が崩れたら、私、立っていられない」
ギルドマスターはほんの一瞬だけ目を閉じ、それから短く頷いた。
「先鋒、聞け!」
低い声が陣全体に響く。
「これより、里帰り組の魔法に合わせて叩く! 嬢ちゃんが削ったところを左右から刺せ! 誰一人、前に転がすな!」
「おう!」
剣士たちが拳を握る。弓使いが矢を一本つまみ上げ、こめかみを指で軽く叩いた。
「いいねぇ、派手にやってくれ。こっちはその隙、全部拾うからよ」
「頼りにしてる。破けたところだけ――そこだけ、拾ってくれ」
リヴは短く返し、視線を前へ戻した。
「ナオキ」
「ここにいる。……背中は俺が持つ」
俺はリヴの指を握り直す。首元の金属はまだ冷たいままで、口の中が乾く。
「やばくなったら笛を吹く。お前が声を出す前でも、危ないと思ったら吹く」
「……うん。合図があるなら、最後まで前を見てる」
リヴは一度だけ目を閉じ、それから黒い獣を見据えた。
「ここからは、私の番」
右手を掲げる。
「土壁、増設」
地面がうなり、さっきの二倍は厚い土の壁が盾列の前に次々と隆起した。黒い枝が打ちつけ、表面の色が剥がれていく。だが壁は崩れきらず、獣の勢いを確かに殺した。
「次。雷槍」
声が落ちた瞬間、細い白い光が何本も空から伸びた。音は小さいのに胸の奥まで震えが届く。光で出来た槍が黒い塊の胴体を縫うように突き刺さり、外套が雷に焼かれて弾け飛んだ。
「雷だと!?」「あんなの、王都でも滅多に見られねぇぞ!」
「一本じゃねぇ……今、何本落ちたよ」
前列の兵士が目を剥く。黒い枝の何本かが痙攣し、力を失って地面に貼り付いた。
「まだ動く。だったら――氷結」
黒い獣の足元、畑の土が白く光って凍りついた。枝が氷に絡みついたまま固まり、獣が身をよじっても凍った枝が杭みたいに大地を掴んで動きを奪う。
「凍らせやがった……」「雷の次は氷かよ!?」
「あれ、いくつ属性持ってんだよ」
呻き声が、半分は感嘆に変わる。
「今だ、前ぇ!」
ギルドマスターの号令に前列の剣士たちが吠えた。盾を構えたまま半歩踏み込み、槍の穂先が氷で縫い止められた枝の付け根を叩き折る。黒い枝がもげるたび、その断面から影が煙のように散った。
「まだ外側が厚い」
リヴの声が低くなる。胸元を押さえる指先が白い。
「畳みかける。火流」
黒い塊の周囲に炎の筋がいくつも生まれた。爆ぜる火じゃない。外套の表面を撫でるように走り、焦がし、削っていく。すすのような黒い欠片が宙に舞い、それが地面に落ちた場所からまた色が抜けた。
「火まで……」「暴発しねぇのが不思議なくらいだぞ」
「暴発させてねぇから今、生きてるんだろが!」
ギルドマスターの一喝に前列が短く笑い、すぐ口を閉じた。
「石槍」
地面が突き上がる。外套が薄くなった部分を狙うように鋭い石の槍が何本も噴き出し、黒い外套がそこだけ破れて飛び散った。
「弓! 破けたところを狙え!」
俺の声に弓使いたちが一斉に矢を番える。氷と石で動きを縫われ、炎と雷で薄くなった箇所を矢が正確に射抜いた。矢そのものは闇に飲まれるが、そのたび黒い塊の輪郭が少しずつ痩せていく。
「顔、分かんなくなってきたな。最初は獣っぽかったのに、今はもうただの塊だ」
「形を保てなくなってる。いい傾向だ」
黒い塊の真ん中で、何かが脈打っていた。外套が剥がれた分だけ、中心の「黒さ」が際立つ。視線を向けた瞬間、胸の棘がきりきりと縮む。揺れの芯が、そこに集まっている。
「……見えた」
リヴが小さく呟く。
「核。あれが眷属の芯」
周囲が一斉に息を呑む気配がした。
「点じゃねぇか」「あんな豆粒みたいなので、ここまで喰うのかよ」
ギルドマスターが吠える。
「聞いたな! 核はあの中だ! だがまだ触るな! 外套を剥がし切るまでは近づくな!」
黒い塊が、最後の外套を取り戻そうとするみたいに膨らむ。細く鋭い枝が何本も盾列の足元と隙間を狙って走った。
「右、少し下がれ! 左、詰めろ!」
俺はホイッスルに指を添えたまま叫ぶ。盾列が揃って一歩動き、さっきまで踏んでいた場所を黒い枝が貫いた。土の色が一気に抜ける。
「っぶねぇ!」
「足元から目ぇ離すな!」
ギルドマスターの声に前列が歯を食いしばる。黒い枝の一本が遅れていた若い戦士の胸めがけて跳ね上がった。
「しまっ――」
「土壁!」
リヴの声が被さる。戦士の目前で土の盾が爆ぜるように立ち上がり、黒い枝が突き刺さった。壁の一部が一瞬で灰色に変わって崩れ落ちる。戦士は尻もちをついたまま呆然と灰を見つめた。
「お、おれ……」
「生きてる。だったら立って。……まだ倒れてる余裕、ないよ」
リヴは振り向かずに言った。言い方は冷たいのに、突き放してはいない。
「……ああ!」
戦士が泥だらけのまま立ち上がる。
リヴの呼吸が少しずつ荒くなってきている。胸元を押さえる指先が白く、握っている手にも力が入らない瞬間が混じった。俺はその揺れを逃さないよう、ホイッスルを握る指に意識を集める。
「リヴ」
短く呼ぶと、返事は即答だった。
「まだ。……まだ、嫌だじゃない」
黒い外套はもう薄い。真ん中の核が脈打つたび、周囲の影を引きずっている。ここから先は誤魔化しがきかない。そう言われなくても、肌が先に分かっていた。
「ナオキ。ここから先は、中身の仕事だよ」
内側の部屋の扉が重たく軋むイメージがした。まだ開けてはいない。ただ、取っ手に指を乗せるところまで来ている。核を取り込めれば、この一帯の裂け目は一度閉じる。けれど、ほんの少しでも誤れば、世界のほうがこちらへ裂けてくる。
指先に汗が滲む。ホイッスルの冷たさが首元でじっとり重い。俺はそこに指をかけたまま、動かなかった。
「合図は俺が握る。……だから、お前は前だけ見てろ」
「……うん」
リヴは胸元のお守りにそっと触れた。セラさんの手の感触、ラナの缶詰、ミーナさんの「楽しみにしてます」――全部を胸の奥へ戻すみたいに。
それから、ひとつだけ言葉を選ぶ。「もう嫌だ」じゃない。代わりに、自分に釘を打つための短い線を引く。
「あと一手」
それが限界の線だった。この一手で駄目なら、そこで確実に退く。核を取り込むのか、諦めて逃げるのか――決めるのは、その一息の先。
俺の指がホイッスルを強く握る。吹く準備はできている。
リヴは内側の部屋の扉に手を添えた。
「魔法、全部」
囁くように呼びかける。
「私のほうを向いて。こっちを残すために、あと一回だけ――」
黒い核が、わずかに浮かんだ。畑の空気が歪み、音が薄くなる。匂いが消える。世界と核のあいだで、見えない何かがきしんだ。
ここから先は、もう誰にも代われない。次の一息で世界がどちらに傾くのか――答えを待つように、陣のどこからも息の音がしなかった。




