黒い獣を追う日
夜明け前のヴェルンは、まだ夢と現のあいだにいるみたいだった。石畳には昨夜の冷えが薄く張りつき、空の端だけが墨を溶かすように薄橙へにじみ始めている。ヴァルターの店先に立つと、白い息が四つ、ゆっくり揺れた。
「本当はもう少し寝かせておきたかったんだけどね」
セラさんはそう言いながら、布包みをふたつ、俺とリヴの手に押しつけてきた。指先に伝わる重みは大したことがないのに、胸の奥がじんと熱くなるのがわかる。
「固いパンに、干し肉。それと……チーズも少しね。――いい? これ、戦いのためじゃないんだよ。帰ってくるために、ちゃんと食べな」
「……はい」
返事をしながら、俺は包みの結び目をいちど確かめた。ほどけないように、というより、受け取ったものを落としたくなくて。
「セラさん」
リヴがそっと布包みを胸に抱きしめる。吐く息は白く、頬は冷えているのに、目だけがやけに真っ直ぐだ。
「ちゃんと、戻ってきてから食べます」
「そうしておくれ」
セラさんは俺とリヴを順に見て、口元だけ少し柔らかくした。
「帰ってきたら、味のこと聞かせてね。……『焦げてた』なんて言ったら、さすがに泣くよ」
「泣かせないように、ちゃんと戻ってきます。美味しかったって言いに」
俺が苦笑すると、セラさんの目尻がほんのわずか緩んだ。笑いの形になりかけて、すぐに戻る。その境目が、いまの空気に似ている。
「ナオキさん」
背中のほうから、おずおずと声がした。振り向くと、マントの裾をぎゅっと握ったラナが立っている。いつもの元気が丸ごと消えたわけじゃないが、押し込められているのが顔に出ていた。
「ほら」
ラナは小さく息を吸って、無理やり明るさを引っ張り出すみたいに笑う。
「缶詰開ける約束、覚えててくださいね。忘れたら怒りますから」
「怖いな」
俺はわざと肩をすくめてみせた。言葉が重く沈みそうだったから、冗談の形にする。
「じゃあ、絶対忘れないようにしておかないと」
「ラナの怒りは怖いからね」
リヴもくすっと笑って、ラナのほうへ一歩寄る。
「ちゃんと帰ってきてさ、一緒に『変な国のお裾分け』しよ」
「うん!」
返事はさっきより少し大きくて、俺はそれだけで息が通った気がした。
「ミーナさんは?」
リヴが辺りを見回した瞬間、通りの角から走ってくる影があった。
「は、はぁ……! 間に合いました……!」
マントの裾を踏みそうになりながら駆けてきたミーナさんが、俺たちの前でぴたりと止まる。頬が赤く、呼吸が乱れているのに、来たことだけは譲らない目をしていた。
「ギルドに寄る前に、どうしてもこっちに顔を出したくて……」
「おはようございます」
「おはようございます」
俺たちが頭を下げると、ミーナさんは慌てて手を振った。
「頭なんて下げないでください! その……怖いのは、怖いですけど……」
言いかけて、いちど飲み込む。喉の奥で言葉が震える気配が、見ているこっちにも伝わってきた。
「みんなで帰ってきたあとに、愚痴を聞く役くらいはできますから。だから、ちゃんと帰ってきてください」
その「役くらいは」の言い方が妙に現実的で、俺は思わず笑ってしまった。笑いは軽いのに、胸の奥にはちゃんと釘が刺さる。
「じゃあ、めちゃくちゃ愚痴を用意しておかないと」
「ナオキ、愚痴だけじゃなくて、ちゃんと自慢話も準備しておこう」
リヴが横から言う。俺は頷いて、あえて軽く返した。
「帰ったら、延々語るぞ。『あのとき俺がこうして』って」
「……延々はやめてください。ほどほどで」
ミーナさんは、いつもの調子を半分くらい取り戻した顔で言った。
「愚痴でも自慢でも、まとめて聞きます。だから……ちゃんと戻ってきてくださいね」
「約束です」
リヴが微笑むと、ミーナさんは胸元をぎゅっと押さえた。小さな仕草なのに、そこに全部が詰まっている気がする。
「じゃあ、ギルドまで一緒に行きましょう。途中で、へんな不良に絡まれたら困りますし」
「ヴェルンの朝にそんなの出ないよ」
ラナが呆れたように言い、すぐに付け足す。
「でも、一緒に行こ。私も途中まで」
「心強い護衛が二人もいて助かるな」
俺はマントの留め具を最後に確かめ、店の看板を振り返った。木の匂いと、パンの匂いと、そこにいる誰かの体温の名残が、まだ薄暗い空気に混ざっている。
「じゃあ、行ってきます」
「行ってらっしゃい」
セラさんは、ひとりひとりの肩に手を置いた。押さえるでもなく、引き止めるでもないのに、触れられた場所がじわっと温かい。
「よく聞いて、よく見て、ちゃんと帰ってきなさい。……夕飯、用意して待ってるからね」
「“胃に優しいモード”で?」
俺が言うと、セラさんは小さく鼻を鳴らした。
「そう。“がっつりモード”は、その次の日まで取ってあるから」
「じゃあ、それを楽しみに行ってきます」
小さな笑い声が、まだ眠たい街路に溶けていった。見送りはここで終わる――そう自分に言い聞かせても、胸の奥に残るものは消えない。結局は、この「行ってきます」を「ただいま」に変えられるか、それだけだ。
◇
ギルドの前に着くころには、空の色はずいぶん薄くなっていた。大きな扉の前には、すでに何組ものパーティと鎧姿の兵士たちが集まっている。馬の鼻息、鎧が擦れる金属音、誰かの小さなあくび――朝が動き出す音が、まとまって耳に入ってくる。
「思ったより……多いな」
俺が呟くと、隣でミーナさんが小さく頷いた。目の下には薄い疲れが見えるのに、背筋は崩れていない。
「ヴェルン周辺の登録パーティで、動けるところはほとんど声をかけましたから。兵舎のほうも、かなり無理をお願いして……」
「そのぶん、帰ってこないとだね」
リヴが言うと、ミーナさんは「はい」と短く返した。震えていない声の芯が、逆に怖さをごまかしていない証拠に思えた。
簡易の机の前で、ギルド職員が次々と名前を読み上げ、点呼を取っている。
「ナオキ、リヴ」
「はい」
二人で返事をすると、職員は札に印をつけてうなずいた。
「先鋒組。集結地点は城門の内側、一番前の列です」
「あの、ミーナさんは?」
「私は護衛・避難組の事務担当で城に残ります。だから――」
ミーナさんは拳を軽く握って見せた。握りしめるというより、踏みとどまる形だ。
「門のところで待ってます。……帰ってくる人数、ちゃんと数えます」
ミーナさんはそう言って、指先をきゅっと握り込んだ。笑ってごまかす余裕はなくて、目だけがまっすぐこっちを向いている。俺は喉の乾きを一度飲み下してから、わざと軽い調子を作った。
「じゃあ、全部数え終わるまで、仕事終わらないですね」
「終わりません。だから……仕事を増やさないでくださいね」
短いやりとりのあと、俺たちはそれぞれの持ち場へ向かった。背中が離れる瞬間、手を振る代わりに視線だけで頷き合う。
城門のほうから、低い声が響く。
「よし、全員、こっちを向け」
ギルドマスターが門の影から歩いてきた。鎧ではなく、いつもの古びたコート姿なのに、その足取りは兵士たちより重く見える。地面を踏むたび、空気が少しずつ締まっていく。
「討伐隊は三つに分ける。先鋒、護衛・避難、後衛と予備だ」
昨夜と同じ段取りが、短い言葉でなぞられていく。口を挟む者はいない。さっきまで残っていた雑談の気配がすっと引いて、耳に残るのは鎧の擦れる音と、誰かが息を整える音だけになった。
「一つだけ、昨日と違う話をする。……よく聞け。今回の最優先は“討伐”じゃない。生きて戻ることだ」
ざわついていた空気が、そこでぴたりと止まった。背筋の奥に、冷たい線が走る。
「黒い獣に傷ひとつ付けられなくても構わん。だがな、ここにいる顔が――ひとつでも欠けたら、わしはあいつを討ったとは言わん」
マスターは俺たちの列をゆっくり見渡した。視線がひとりずつに止まり、そのたび、空気が一段重くなる。
「自分の足で門をくぐって、自分の口で『ただいま』と言え。――そこまでやって、ようやく仕事は終わりだ。いいか、今日やるのは“黒い獣退治”じゃない。明日も続くヴェルンのための仕事だ」
何人かが小さく顎を引く。その動きに混ざって、俺も息を飲み込んだ。大げさな言葉じゃなく、いつもの生活の延長だと言い切られたのが、逆に重い。
「先鋒、前へ」
号令が落ちると、先鋒組が前へ出て列を組んだ。前列に重い盾、そのすぐ後ろに槍と剣の前衛。さらに後ろへ弓と魔法使いが並ぶ。俺とリヴは中ほど、前衛の背をすぐ追える位置に収まった。
「ここが、お前たちの場所だ」
マスターが近づいてきて、列の切れ目を指で示す。視線が俺とリヴを行き来した。
「前に出るのは剣と槍だ。お前たちはその後ろで、獣の動きをよく見ておけ」
言い切って、ひと呼吸置く。
「それから――例の“内側の部屋”を使うかどうかを決めろ」
「分かった。使うかどうかは、俺たちで判断する」
昨夜と同じ返事のはずなのに、喉の奥がわずかに乾いた。隣のリヴの横顔を盗み見ると、瞳は前に据えたまま、吸う息だけが短い。白く吐けた息がすぐにほどけていくのを見て、俺は視線を戻し、声の調子だけ整えた。
「無理だと思ったら、即撤退する」
「ああ。そこは信じている」
マスターは小さく息を吐いた。
「撤退の合図、いま確認しておく。全体は角笛と、光の合図魔法。……で、お前たちは?」
「私が『下がって』って言ったら、いったん引きます」
リヴが半歩前に出る。喉が小さく鳴って、それでも声は崩れない。最後まで言い切って、そこで初めて息を吐いた。
「枝の欠片でも、全部を受け止められる自信はありません。だから、合図は分かりやすいほうがいい」
「『下がって』か。……いいな」
マスターの口元がわずかに緩む。
「その言葉が聞こえたら、先鋒は一度距離を取る。前に出てる連中も、まとめてだ。……いいか?」
「任せろよ」
前列の大柄な剣士が拳を鳴らした。
「嬢ちゃんが『下がって』って言う前に、こっちも嫌になってるかもしれねぇけどな」
「そのときは一緒に下がろう」
俺が返すと、列のあちこちから小さな笑いがこぼれた。長くは続かない。それでも、消える直前に肩の力が一瞬だけ抜ける。
「もう一つ。ナオキのホイッスルだ」
マスターが俺の首元を指す。
「それが鳴ったら?」
「いったん止まって、状況を確認する」
指で小さな笛をつまんで見せると、掌の汗が金具に移る感触が生々しかった。
「怖くなったら鳴らす。……子どもみたいだけど」
「実際、怖いもんは怖いしね」
リヴが横から言う。口元は笑っているのに、目は笑っていない。
「じゃあ、私も鳴らす。『下がって』って言って、それでも足りなかったら」
「ダブル合図だな」
マスターは満足そうに頷いた。
「言っておくが――」
声がほんの少し低くなる。
「誰かが『もう少しだけ』なんて言い出したら、その時点でそいつは、街とお前たちの“線”を踏み越えようとしている。そういうやつは、わしが叩き落とす」
リヴが小さく息を飲む音が耳に届いた。俺は何も言わず、足裏で地面を確かめる。踏み越えたくない線があるなら、立ち位置を固めるしかない。
「線引きは、お前たちが決めろ。わしらは、その線を守る」
「……はい」
リヴの返事は小さかったが、揺れなかった。
「よし。――わしは門で帰りを待っておる。全員分の足音を、ちゃんと聞かせろ」
それが出発前の最後の言葉だった。
◇
重い城門が軋む音を立てて開いていく。冬に向かう空気は冷たいのに、一歩踏み出した瞬間、肌に触れる“質”が変わった気がした。外の冷たさじゃない。背中が街から離れていく冷たさだ。
いつもなら買い出しや畑仕事へ向かう人で賑わう街道も、今朝は様子が違う。道の脇には窓から顔を出す人々や、門まで見送りに来た子どもたちがぽつぽつ並んでいる。誰も大声は出さない。小さく手を振り、帽子を取って頭を下げ、胸の前で祈るように指を組むだけだ。
「……静かだな」
鎧のきしむ音や馬の蹄が、いつもよりくっきり耳に残る。周りの音が抑えられているせいだ、と遅れて気づく。
「ナオキ」
隣からリヴが呼ぶ。
「いつもの街道が、違って見える?」
「うん。普段は“向こうに行く道”って感じだけど、今日は“戻ってくる道”でもある」
「じゃあ、よく覚えておかないとね」
リヴは胸元のお守りにそっと触れた。布越しの小さな硬さに合わせて、意識が内側へ沈んでいくのが、横にいてもわかる。
リヴの「余白」はまだ空っぽのはずなのに、何かが来る場所だけが先に形を持ち始めている。世界樹から伝わるかすかな振動の、そのさらに外側。輪郭だけがぼんやり待っている――そんな気配が、繋いだ手の指先にまで伝わってきた。
行軍は淡々と進んだ。前を行く馬の尻尾が揺れ、盾の背に朝日が反射してちらちら光る。誰かのため息が白く伸びて、すぐにほどけた。城壁が遠くなるほど、胸の奥の棘みたいな感覚がゆっくり向きを変えていく。街から遠ざかる足音が、そのまま「戻るための線」を後ろへ引いているみたいだった。
◇
最初の目撃情報があった小さな村に着いたころには、日はだいぶ高くなっていた。なのに、村そのものは妙に静かだ。屋根の上で揺れる洗濯物もなく、犬の吠え声もない。人の気配の代わりにあるのは、家々の前に立つ兵士の姿だけだった。
「ここから先の住民は、すでに避難させてある」
先に来ていた兵士がマスターに報告する。
「畑の一画が、おかしなことになってまして……」
案内された先で、俺たちは「それ」を見た。畑の一部だけが、まるで色を抜き取られたように灰色がかった枯れ草だらけになっている。すぐ隣の畝にはまだ青々とした葉が残っているのに、境界だけが不自然なくらいくっきりしていた。緑と灰色のあいだに、目に見える一本の線が引かれている。
「……ひどいな」
思わず漏れた声が、乾いた空気に吸われる。土を踏む感触も違った。乾いているはずなのに、靴の裏がぺたりと吸いつくような、気持ちの悪い柔らかさがある。
「リヴ」
「うん」
リヴは膝を折り、そっと土に指を触れた。ひやりとした感触が皮膚から骨まで染みていくのが、見ていてわかる。目を閉じた横顔が少し硬い。
「魔素の流れが……裂けた跡だ」
言葉を選ぶように短く間を置いて、リヴは続ける。
「森で見た針目の周りと似てる。ただ、あそこより浅くて雑。布を引き裂いたあとみたいに、端っこがぐしゃぐしゃ」
裂け目の縁が、じわじわと青い畑のほうへ滲もうとしている。いまは細いひび割れに見えるそれが、太い線へ変わる未来だけは、簡単に想像できた。
「こっちは……井戸か」
俺はすぐそばの井戸を覗き込む。水面は濁っていない。それでも頬に触れる冷たさが、さっき踏んだ土と同じ種類のものに感じる。外側から持ち込まれた冷たさ――そうとしか言いようがない。
喉の奥で苦いものを飲み込む。ここで止めなければ、この先の街道沿いも同じ「穴」だらけになる。色のある世界と、色を失った世界の境目に立たされている感覚が、妙に現実味を持って胸に張り付いた。
◇
短い休憩のあと、討伐隊は村の先の街道に陣を敷き直した。マスターの声が飛ぶ。
「ここから先は、黒い獣の“テリトリー”だと思って動け。偵察を前に出しすぎるな。先鋒は盾と槍を前に。後衛は間隔を取りながらついていけ」
先鋒の戦士たちは、簡単な自己紹介を兼ねて口を開く。笑いに似た声が混ざるのは、怖さを隠すためじゃない。怖さを抱えたまま動くためだ。
「今回、前に立たされてる馬鹿でかいのは俺だ。お前らの前で死ぬ気はねぇからな。盾が折れたら、そのときは一緒に逃げるぞ」
「黒い獣の目ん玉くらいなら、一本くらい抜いて見せるよ」
弓使いが弓を肩に担いで笑う。
「外したら?」
「そのときは、後ろ向いて逃げながら撃つ」
「それはそれで頼もしいね」
小さな笑いがこぼれ、すぐに口が閉じる。空気が軽くなりすぎない、その塩梅がありがたかった。
マスターはその空気を保ったまま、俺とリヴを指さした。
「こいつらは、観察と封じの役目だ。前には出ない。出るのは“中身”だけ――いいな?」
「分かってます」
俺は頷き、首元のホイッスルに指を添えた。冷たい金属が指先に張りつく。
リヴが小声で尋ねる。
「私が『下がって』って言っても、誰かが“もう少しだけ”って言ったりしないって、信じていいですか」
問いは小さいのに、刺さる場所が深い。俺は横から口を挟んだ。
「言ったやつがいたら、俺が先に逃げる。そういうやつのそばにいると、こっちが危ないからな」
前衛の剣士が「おいおい」と笑い、弓使いが「それは困る」と肩をすくめる。
「誰もそんなことは言わん。言わせんようにするのが、わしの役目だ」
マスターは一度だけ空を見上げ、すぐ視線を戻した。
「線引きは、お前たちが決めろ。わしらは、その線を守る」
「……はい」
リヴは小さく頷いた。繋いだ手にかかる力が、さっきより少し強い。「下がって」は逃げの言葉じゃない。俺たちの命と、街の明日を守るための境界線だ――その意味だけは、もう揺らがない。
◇
午後も傾きかけたころ、空気が変わった。最初に気づいたのは鳥だったのかもしれない。さっきまで遠い林から聞こえていたさえずりが、ぱたりと止む。次に風が変わる。頬を撫でていた冷たい風が急にぬるくなるのに、鼻先に届く土の匂いは薄くなっていった。
「……空が、嫌な感じだね」
リヴが胸元を押さえる。呼吸が一段浅くなり、胸の奥の棘がはっきり軋むのが、横にいる俺にもわかった。世界樹から伝わる「核の揺れ」の先端、そのまた先――針先みたいなものが、じわりと内側に触れ始めている。
「偵察、戻ってきたぞ!」
前方から走る足音が近づく。息を切らせた偵察役がマスターのもとに駆け寄った。
「どうだ」
「街道の先の畑地帯が、一帯だけ夜みたいに暗くなってます。その真ん中で、黒い……影の塊みたいなのが、うごめいてて……」
「形は」
「一定じゃありません。伸びたり、縮んだり。見てると目がおかしくなりそうです」
報告を聞くあいだ、リヴの内側で何かが軋む気配が強くなる。“内側の部屋”の扉が、音もなく開きかけるような感覚。重い木戸に外から手をかけられたみたいな嫌な感触が、背筋を撫でた。
俺は自分の呼吸を整えながら、リヴの手をぎゅっと握る。
「まだ、近づきすぎてない」
言葉にしたのは、リヴのためというより俺のためだった。握った手が少しだけ強く返ってくる。
「合図も決めた。行けるところまで行って、嫌だと思ったら戻る」
「うん」
リヴは短く返事をして、息を整えた。目を開けたときの瞳が、さっきより冷えている。
「ここから先が、私たちの番だね」
◇
先鋒は、じりじりと進んだ。街道が林を抜けると視界が急に開け、その向こうの畑地帯の一角だけが不自然な闇に沈んでいるのが見えた。日はまだ落ちていないのに、そこだけ夜みたいに色がない。灰色と黒のあいだで揺れる何かが、中心でうごめいている。
遠くから見ているはずなのに、輪郭を目で追おうとすると視界の端がじわりと滲んだ。焦点が合わないというより、合ってはいけない場所に引っ張られる感じがする。
「……見えるか」
前列の剣士が低く呟く。
「あれが」
「黒い獣」
誰かが小さく息を呑んだ。角笛を持つ兵士が、いつでも吹けるように指を添える。隣の魔法使いは杖の先に静かな光を灯し、光が揺れないように腕を固定していた。
リヴの内側で、鍵がひとりでに回るイメージが浮かぶ。ここから先は自分の手で決めろ、と世界樹に告げられているような感覚が、手のひら越しに伝わってくる。
「ナオキ」
「いる」
俺は握った手に力を込めた。声を大きくしない。大きくしたら、何かに気づかれる気がした。
「まだ線の、こっち側だ。行けるところまで行って、嫌だと思ったらすぐ戻る」
「うん」
リヴは目を閉じ、“内側の部屋”の扉に手を添えるみたいな仕草をした。目の前の闇と、背後のヴェルン。その二つのあいだに引かれた細い線の上に、俺たちが立っているのがわかる。世界の揺れは、もう隣まで来ていた。




