第8話 換金 後編
「換金が始まった!」
黒田は人の流れを押し分け、競馬場内へ飛び込んだ。
無線から複数の声が重なる。
『東側、老人が窓口へ向かっています』
『二階払戻所、女が一名』
『西側にも動きあり。会社員風の男です』
「一人ずつ喋れ!」
黒田が怒鳴る。
「東側の老人を止めろ! 二階は出口を押さえろ! 西側は馬券を確認しろ!」
『了解』
『東側、追います』
『人が多すぎて近づけません』
「押し分けろ! 何のためにそこにいる!」
佐伯は、後ろから迫る声を聞いていた。
振り返らない。
歩調も変えない。
払戻窓口までは、あと二十メートル。
目の前には十数人の列。
当たり馬券を握り締め、興奮した客たちが順番を待っている。
「すみません、通してください」
後方から男の声がした。
「ちょっと、邪魔だよ」
「押すなって!」
部下が客をかき分けて近づいてくる。
佐伯は列の最後尾に並んだ。
前の客が一人進む。
残り十三人。
胸ポケットの馬券が、急に重く感じられた。
ここで列を離れれば目立つ。
慌てれば追う理由を与える。
木村から言われた言葉を思い出す。
追われても走るな。
追われていると認めた瞬間、相手に正当性を与える。
佐伯は新聞を広げた。
レース結果を確認する客を装う。
『東側、対象が列に入りました』
「止めろ!」
『周囲に客が多すぎます』
「関係ねぇ! 馬券を取れ!」
『強引にやれば騒ぎになります』
「騒ぎになる前にやれ!」
黒田の声が無線を震わせた。
佐伯の前にいた男が窓口へ進む。
残り十二人。
その頃、東京ではスーツ姿の会社員が自動払戻機の前に立っていた。
男は財布から数枚の外れ馬券を出し、その中に万馬券を混ぜた。
一枚ずつ機械へ通す。
外れ。
外れ。
外れ。
最後の一枚。
機械の表示が切り替わった。
払戻金額を確認した男は、周囲を見ずに操作を続けた。
やがて係員に案内され、別室へ向かう。
数分後。
男は厚みのある現金袋を受け取った。
封を確かめることもなく、鞄を開く。
書類の間へ現金袋を滑り込ませた。
ファスナーを閉める。
それだけだった。
新潟では、買い物袋を持った女が窓口を離れた。
手にしていた現金袋を、スーパーの袋へ入れる。
その上に長ネギと菓子パンを載せた。
誰が見ても、夕食の買い物を終えた主婦にしか見えない。
大阪では、学生が受け取った札束をリュックへ収めていた。
帯封の付いた束を横に並べる。
上から教科書とパーカーを被せる。
リュックの口を閉じる。
肩に掛ける。
友人を待っていた学生のような顔で、その場を離れた。
黒田の無線に報告が飛び込む。
『東京、一名が換金した可能性があります』
「可能性じゃ分からねぇ!」
『別室へ案内された後、大きな鞄を持って出ました』
「追え!」
『すでに駅方面の人混みに入りました』
「写真は!」
『撮れていません』
「何やってんだ!」
黒田は無線機を握り潰すように持った。
「駅を押さえろ! 鞄を持ってる奴を全部確認しろ!」
『全部ですか』
「全部だ!」
怒鳴った直後、別の声が割り込む。
『新潟、女性一名、換金成功の可能性』
「止めろ!」
『すでに施設外へ出ています』
「車か!」
『徒歩です。買い物客に紛れました』
「探せ!」
『服装は?』
「お前が見たんだろうが!」
『灰色のコートです。ただ、同じような女性が多くて――』
「言い訳すんな! 探せ!」
さらに無線が鳴る。
『大阪、学生風の男が一名、払戻所を出ました』
『小倉、作業着の男が動いています』
『京都、老人二名。どちらか判別できません』
『福島、女が三人同時に窓口へ』
「待て!」
黒田は耳を押さえた。
「一つずつ報告しろ!」
だが報告は止まらない。
木村の計画は、黒田が判断できる数を超えていた。
一人を追えば、別の場所で二人が動く。
二人へ人員を割けば、空いた窓口へ三人目が入る。
怪しい者を止めても、そのほとんどが一般客だった。
「一枚も通すな!」
黒田が叫ぶ。
「窓口を塞げ! 馬券を持ってる奴を全員見ろ!」
『それでは一般客と揉めます』
「揉めろ!」
『警備員が動き始めています』
「先に押さえろ!」
『警察を呼ばれます』
黒田は一瞬、言葉を失った。
警察。
狭山側が最も避けなければならない存在だった。
競馬場の中で、一般客から無理やり馬券を奪えばどうなるか。
木村の仲間を捕まえる前に、自分たちが連行される。
それでも止めなければならない。
狭山へ、失敗したとは言えない。
「顔を出すな」
黒田は声を落とした。
「騒がせずに止めろ」
『さっきは揉めろと――』
「黙ってやれ!」
佐伯の前には、あと四人。
背後の男は、すでに数メートルまで近づいていた。
「すみません」
肩へ手が伸びる。
佐伯は半歩だけ前へ進んだ。
手は空を切った。
「待ってください」
今度は、はっきりと佐伯へ向けられた声だった。
周囲の客が振り返る。
佐伯もようやく振り返った。
「私ですか?」
「少し確認したいことがあります」
「何をです?」
「その新聞の中を見せてもらえますか」
佐伯は眉を寄せた。
「どうして?」
「いいから見せてください」
「あなた、競馬場の人?」
「違います」
「警察?」
「それも違う」
「じゃあ何で見せなきゃならないんだ」
佐伯の声は大きくない。
だが、周囲の客には十分聞こえた。
男は視線を集めていることに気づき、声を落とした。
「揉めたくないんです。少し見せてもらうだけでいい」
「私は揉めてませんよ」
佐伯は新聞を胸へ抱えた。
「あなたが急に見せろと言ってきたんでしょう」
列が一人進む。
あと三人。
男は焦った。
無線から黒田の声が飛ぶ。
『何をしてる! 馬券を取れ!』
男は佐伯の腕を掴んだ。
「ちょっと来てください」
佐伯は抵抗しなかった。
その代わり、周囲へ聞こえる声で言った。
「この人、誰ですか?」
近くの客が男を見る。
「何してんだ?」
「爺さんに絡んでるぞ」
「警備員呼べ」
男は手を放した。
「違います。知り合いです」
佐伯がすぐに否定する。
「知りません」
「おい、本当に知らないのか?」
「知りません」
客たちの視線が男へ集まる。
男は一歩下がった。
佐伯の番が来た。
新聞の間から馬券を取り出す。
窓口へ差し出す。
係員が券面を確認する。
機械へ通す。
男は動けなかった。
ここで馬券へ手を伸ばせば、周囲の全員が見る。
佐伯は別室へ案内された。
『対象が換金しました』
報告を聞いた黒田は、足を止めた。
「取り返せ」
『今は無理です』
「何でだ」
『客に囲まれています』
「そんなもん関係ねぇ!」
『こちらの顔を撮られています』
黒田の耳にも、遠くから客の声が届いた。
「動画回せ!」
「さっき爺さんの腕掴んでたぞ!」
「警察呼んだ方がいいんじゃないか?」
黒田は歯を食いしばった。
「離れろ」
『ですが――』
「一度離れろ!」
佐伯は別室で現金を受け取った。
係員から渡された現金袋を両手で持つ。
重かった。
人生で一度も手にしたことのない重さ。
それでも中身を確かめなかった。
現金袋を肩掛け鞄へ収める。
ファスナーを閉める。
部屋を出る。
先ほどの男は、もういなかった。
佐伯は群衆の中へ戻った。
走らない。
振り返らない。
ただ、帰る客たちと同じ速度で出口へ向かった。
午後三時四十三分。
二つ目の波が動いた。
別の責任者たちが、担当者へ一斉に送る。
『GO』
京都。
帽子を被った老人が立ち上がる。
福島。
若い女が携帯電話を鞄へ戻す。
小倉。
作業着姿の男が券売機の前を離れる。
東京。
旅行鞄を引いた夫婦が、それぞれ違う窓口へ向かう。
最初の換金役を追うため、人員が外へ流れていた。
空いた場所へ、次の換金役が入る。
黒田が無線へ叫ぶ。
「戻れ! 外を追ってる奴の半分を中へ戻せ!」
『駅まで来ています』
「戻れ!」
『対象を見失います』
「もう見失ってんだろうが!」
車内に残った部下が言う。
『黒田さん、人数が足りません』
「分かってる!」
『応援を呼びますか』
「呼べると思うか!」
大人数を動かせば目立つ。
組の人間を競馬場へ集めれば、警察にも察知される。
木村はその限界まで読んでいた。
狭山は、人を出せないのではない。
出せる人数を自分で選ばされていた。
京都の払戻所。
一人の男が現金袋を受け取り、出口へ向かっていた。
三十代半ば。
黒いジャケット。
特徴のない顔。
狭山の部下が二人、前後から近づく。
「待て」
男は足を止めた。
部下の一人が進路を塞ぐ。
「その鞄を渡せ」
男は現金袋を右手に持っていた。
「どうしてです?」
「聞くな。渡せ」
もう一人が背後へ回る。
男は二人の顔を順番に見た。
怯えているようには見えなかった。
むしろ、少し楽しそうだった。
そして、口元を歪めた。
ニヤリ。
「遅かったですね」
部下の表情が変わった。
「何だと」
「もう換金は終わりました」
「渡せ!」
男の肩を掴む。
男は現金袋を胸へ抱え込み、大声を上げた。
「強盗です!」
周囲の客が一斉に振り返る。
「助けてください! 金を奪われます!」
「違う!」
部下が慌てる。
「こいつは――」
「強盗!」
男はさらに声を張った。
「この人たち、払戻金を奪おうとしてます!」
客が集まり始める。
「おい、手を放せ!」
「警備員!」
「顔撮っとけ!」
携帯電話が次々と向けられる。
部下は男から手を離した。
「誤解です」
「何が誤解だよ」
「今、金を渡せって言っただろ」
「動画に入ってるぞ」
警備員が駆けつける。
「どうしました?」
換金役の男は、現金袋を抱えたまま部下を指差した。
「この二人に金を奪われそうになりました」
「違う!」
「では、こちらで話を聞かせてもらいます」
警備員が部下たちの前へ立つ。
男は一歩下がった。
警備員の背後へ回る。
人混みに紛れる直前、もう一度だけ部下を見た。
笑ってはいなかった。
先ほどの表情は消えていた。
ただの怯えた被害者の顔になっている。
男はそのまま群衆の中へ消えた。
『京都で問題発生!』
黒田が叫ぶ。
「何があった!」
『対象に強盗だと騒がれました。警備員に止められています』
「黙らせろ!」
『周囲に動画を撮られています』
「携帯を奪え!」
『無理です! 十人以上います!』
「追え!」
『対象を見失いました』
黒田は無線機を車の座席へ叩きつけた。
すぐに拾う。
壊すわけにはいかない。
報告は続いている。
『小倉、換金完了』
『福島、一名が払戻所を出ました』
『東京、夫婦と思われる二名が別々に換金』
『札幌、対象を見失いました』
『大阪、二人目が動いています』
「止めろ!」
黒田は何度目か分からない言葉を叫んだ。
「探せ!」
誰を。
どこで。
どの人間を。
もう判断できていなかった。
「一枚も通すな!」
『すでに複数枚が換金されています』
「まだ持ってる奴がいる!」
『見分けがつきません』
「怪しい奴を全員止めろ!」
『警備員がこちらを探しています』
「なら顔を隠せ!」
『それでは余計に怪しまれます』
「うるせぇ!」
黒田の声だけが大きくなる。
現場はすでに、命令で動かせる状態ではなかった。
狭山は事務所で報告を聞いていた。
黒田の怒号。
部下たちの混乱。
各地から届く失敗の報告。
側にいた男が携帯電話を握っている。
「現在確認できただけで、七枚が換金されています」
狭山は何も言わない。
「まだ換金されていない馬券もあります。人員を増やせば――」
「増やしたらどうなる」
男は答えられなかった。
「競馬場へ組員を集め、一般客から馬券を奪うのか」
「……いえ」
「警察の前でか」
「できません」
「なら増やしても同じだ」
狭山は机の上の木村の写真を見た。
静かな顔。
特別な特徴はない。
街ですれ違っても、記憶には残らない。
「木村は、俺たちを止めようとはしていない」
男が狭山を見る。
「どういう意味ですか」
「好きに動かせている」
黒田は自分の判断で窓口を押さえた。
最初の換金役を見つけ、自分の判断で部下を集めた。
追跡のため、自分の判断で配置を崩した。
騒ぎを避けるため、自分の判断で手を引いた。
すべて狭山側が選んだ。
だが、選べる道は最初から木村によって用意されていた。
一人を止めれば、別の一人が通る。
強引に奪えば、強盗として騒がれる。
騒ぎを避ければ、換金を許す。
警察を恐れて人数を抑えれば、手が足りない。
人数を増やせば、自分たちの存在を晒す。
どちらを選んでも、木村の計画が進む。
狭山はゆっくりと椅子へ座った。
「……読まれたんじゃない」
「え?」
「俺に選ばせたのか」
男は口を閉じた。
その言葉の意味を理解した瞬間、背中に冷たいものが走った。
狭山は怒鳴らない。
机も叩かない。
木村の写真から目を離さず、考えている。
負けを認めた男の顔ではない。
次の手を探す男の顔だった。
午後三時四十七分。
三つ目の波。
『GO』
残っていた換金役たちが一斉に動いた。
だが、この時にはもう、狭山側の配置は崩壊していた。
駅へ走った者。
警備員に囲まれた者。
一般客と揉めている者。
間違った対象を追っている者。
黒田の指示を待つ者。
同じ会場にいながら、互いがどこにいるのかも分からない。
窓口では次々と馬券が処理される。
係員が券面を確認する。
機械が払戻金額を表示する。
帯封の付いた札束が並べられる。
現金袋へ収められる。
封が閉じられる。
老人が受け取る。
会社員が鞄へ入れる。
主婦が買い物袋へ隠す。
学生がリュックを背負う。
作業着姿の男が現金袋を肩へ掛ける。
一人。
また一人。
誰も走らない。
誰も喜ばない。
ただ、決められた出口へ向かって歩いていく。
黒田の無線へ、最後の報告が届いた。
『最終対象、払戻所を出ました』
「追え」
『人員がいません』
「誰でもいい! 近くの奴を向かわせろ!」
『全員、別の対象を追っています』
「切り上げさせろ!」
『どれを切りますか』
黒田は答えられなかった。
どれが本物で、どれが囮なのか。
もう分からない。
「黒田さん」
無線の向こうで、部下が言った。
「終わりました」
「何がだ」
「換金です」
「まだだ!」
黒田は叫んだ。
「まだ馬券を持ってる奴がいる!」
『窓口の締切時刻です』
黒田は時計を見た。
秒針が進む。
払戻窓口の受付終了が告げられる。
シャッターが下り始めた。
そこで初めて、黒田は動きを止めた。
場内にはまだ大勢の客がいる。
勝った者。
負けた者。
現金を持つ者。
外れ馬券を捨てる者。
その中に、木村の換金役が何人いたのか。
誰がいくら持って出たのか。
何一つ分からなかった。
無線機から声がする。
『黒田さん、どうしますか』
返事はできなかった。
狭山へ報告しなければならない。
一枚も通すなと言われた。
だが、一枚どころではない。
ほとんどを通した。
黒田は競馬場の出口を見た。
人の波が外へ流れていく。
その背中のどれかが、現金を運んでいる。
もう追えない。
午後四時二分。
狭山の携帯電話が鳴った。
黒田からだった。
狭山はすぐには取らなかった。
三度目の呼出音で通話を受ける。
「どうした」
『……申し訳ありません』
黒田の声は枯れていた。
「結果を言え」
『換金されました』
「何枚だ」
『確認できていません』
「何枚止めた」
沈黙。
『一枚も……』
狭山は目を閉じた。
数秒後、静かに聞いた。
「怪我人は」
『いません』
「逮捕された者は」
『京都で二人が警備員に拘束されています。警察が来る前に名前を出さず処理させます』
「動画は」
『複数撮られています』
「分かった」
『狭山さん』
「何だ」
『申し訳ありません』
狭山は通話を切った。
謝罪には何の価値もない。
結果だけが残る。
机の上には、木村の写真。
狭山はそれを手に取った。
側にいた男が尋ねる。
「どうしますか」
「換金は終わった」
「では、金の流れを追いますか」
「追えない」
「なぜです」
「一人が全部を持っていると思うか」
男は答えなかった。
各地で分散して換金された現金。
それぞれ別の人間が運ぶ。
受け渡し場所も、時間も違う。
一人を捕まえても、その先に木村がいるとは限らない。
むしろ木村は、捕まる人間まで想定している。
金を追えば、また選ばされる。
静かな声で言った。
「必ず捕まえろ。」




