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身代金は万馬券  作者: 大福


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第7話 換金 前編


 午後二時五十八分。


 全国各地の競馬場と場外馬券売場では、最終レースを前にした独特の熱気が膨らみ始めていた。


 新聞を折り畳み、赤ペンを走らせる老人。


 大型モニターを睨みながら、仲間と予想を交わす若者。


 窓口の位置を確かめ、財布の中の馬券を何度も数える男。


 誰もが、自分の勝負に夢中だった。


 その群衆の中に、別の勝負を待つ人間たちがいた。


 木村が集めた換金役。


 そして、その換金役を動かす現場責任者たち。


 互いの名前も知らない。


 顔も知らない。


 責任者が知っているのは、自分の担当する換金役だけ。


 換金役が知っているのは、指定された時刻と場所、そして合図だけだった。


 全体を把握している者はいない。


 一人が捕まっても、他には辿り着けない。


 一人が裏切っても、計画全体は止まらない。


 組織ではなかった。


 いくつもの孤立した点が、木村の指示によって一つの形を作っていた。


 午後三時。


 各地の責任者の携帯電話が、ほぼ同時に震えた。


 画面に表示された文字は短い。


『開始準備』


 それだけだった。


 札幌。


 責任者の男は、飲みかけの缶コーヒーをゴミ箱へ捨てた。


 東京。


 中年の女は、待合席から立ち上がり、肩に掛けたバッグの位置を直した。


 新潟。


 作業着姿の男が、喫煙所から出る。


 大阪。


 白髪交じりの男は、競馬新聞を畳み、胸ポケットへ入れた。


 誰も走らない。


 誰も周囲を見回さない。


 目立つ行動はするな。


 緊張を表に出すな。


 木村から繰り返し言われていた。


 いつも通りに歩け。


 勝った人間にも、負けた人間にも見えるように。


 責任者たちは、それぞれ指定された位置へ移動した。


 換金役はすでに群衆の中にいる。


 老人。


 会社員。


 学生。


 主婦。


 若い男女。


 配送業者。


 旅行客。


 どこにでもいる人間ばかりだった。


 木村が選んだのは、強そうな人間ではない。


 逃げ足の速い人間でもない。


 その場にいても、誰も疑問を抱かない人間だった。


 換金役の一人である佐伯は、窓口から少し離れた場所で、大型モニターを眺めていた。


 六十代後半。


 薄い灰色のジャンパー。


 くたびれた帽子。


 手には競馬新聞。


 誰が見ても、朝から競馬場に入り浸っている年金暮らしの老人にしか見えない。


 だが、新聞の内側には、万馬券が一枚挟まれていた。


 払戻金は、老人がこれまで手にしたことのない額だった。


 指先が震えそうになるたび、佐伯は新聞を強く握った。


 換金後の金は自分のものではない。


 決められた手順で運び、決められた人間へ渡す。


 それだけで報酬が支払われる。


 簡単な仕事だと聞かされていた。


 だが、簡単なはずがない。


 佐伯は視線だけを動かした。


 自分を見ている者はいない。


 少なくとも、そう見える。


 しかし、確実に誰かが見ている。


 木村か。


 それとも、木村を追っている連中か。


 佐伯には分からない。


 分からないままでいい。


 知らない方が安全だと、木村は言っていた。


 その頃、競馬場の来賓用駐車場に停められた黒いワゴン車の中では、狭山の部下たちが配置の最終確認を行っていた。


 車内には競馬場と周辺施設の図面が広げられている。


 赤い印が換金窓口。


 青い印が出入口。


 黒い線が監視カメラの死角。


 現場を任された黒田は、無線機を片手に部下たちを見回した。


「聞け」


 低い声だった。


 狭山本人の前では決して出さない、威圧を含んだ声。


「馬券を持ってる人間を見つけたら、換金させる前に止めろ。窓口へ並んでからじゃ遅い」


 若い部下が訊いた。


「一般客との見分けはどうします」


 黒田が睨む。


「それを見つけるのがお前らの仕事だ」


「ですが、今日だけで客は何万人も――」


「言い訳を聞いてるんじゃねぇ」


 車内が静まる。


 黒田は図面を指で叩いた。


「今日を逃せば馬券は紙屑だ。換金役は絶対に来る」


「本人も来ますか」


 別の男が訊いた。


 黒田は一瞬だけ黙った。


「来る可能性はある」


 実際には、本人が現場へ来るとは考えていなかった。


 だが、部下にはそう思わせておく必要があった。


 換金役だけを探すより、実行犯が紛れていると考えさせた方が、目の色が変わる。


「指示は頭に入ってるな。」


 誰も返事をしない。


「聞こえなかったか!」


「入ってます!」


 声が揃う。


 黒田は無線機を握り直した。


「失敗は許されない。馬券を一枚でも通せば、面子が潰れる。」


 狭山の名前は出さなかった。


 出す必要がなかった。


 全員が理解している。


 木村を取り逃がすことよりも、狭山へ失敗を報告することの方が怖い。


「散れ」


 ドアが開く。


 部下たちは競馬場へ向かった。


 黒田は一人、車内に残った。


 携帯電話を確認する。


 狭山からの連絡はない。


 それがかえって怖かった。


 何も言わない。


 進捗を聞かない。


 任せたという言葉すらない。


 狭山にとっては、成功して当然なのだ。


 黒田はシャツの襟元を引き、息を吐いた。


「見つけりゃいいんだ……」


 自分へ言い聞かせる。


「見つけて、止めりゃいい」


 午後三時九分。


 札幌の責任者の携帯電話が震えた。


 次いで、東京。


 新潟。


 大阪。


 福島。


 京都。


 小倉。


 責任者たちは足を止めず、携帯電話を確認した。


 新しい指示ではなかった。


 画像が一枚添付されている。


 札幌の男は、画面を見た瞬間に足を止めかけた。


 写真に写っていたのは、自分だった。


 競馬場の通路。


 右手には、先ほど買い直した缶コーヒー。


 背後には、青い上着を着た親子。


 今、まさに自分が立っている場所。


 数秒前に撮影された写真だった。


 男は反射的に振り返った。


 老人が歩いている。


 若い男女が笑いながら通り過ぎる。


 新聞を抱えた男がモニターを見上げている。


 カメラを構えている者はいない。


 誰だ。


 どこから撮った。


 胸の奥が急激に冷えた。


 東京の女も、自分の写真を見つめていた。


 肩に掛けたバッグ。


 左手に持ったペットボトル。


 今いる場所が一目で分かる構図。


 新潟の男には、喫煙所から出た直後の後ろ姿。


 大阪の男には、新聞を胸ポケットへ入れた瞬間。


 全員が違う角度から撮られていた。


 責任者たちは理解した。


 監視されている。


 木村は換金役だけでなく、自分たちまで監視している。


 誰か一人が馬券を奪う。


 換金役を売る。


 狭山側へ情報を流す。


 そんな裏切りを、最初から想定していた。


 写真の下には、一文だけ添えられていた。


『予定を変更した場合、換金は中止する』


 脅迫ではない。


 裏切れば殺すとも、報酬を払わないとも書かれていない。


 ただ、中止する。


 その一文だけで十分だった。


 換金が中止されれば、責任者は報酬を失う。


 同時に、手元に残った馬券の責任を負う。


 狭山側に見つかれば、換金に関与した証拠だけが残る。


 前へ進むしかないように、道が作られていた。


 札幌の男は、乾いた唇を舐めた。


「最初から……信用してねぇのかよ」


 小さく呟く。


 違う。


 木村は信用していないのではない。


 人間は裏切るものだと理解した上で、裏切らない状況を作っている。


 男は携帯電話をポケットへ戻した。


 もう辺りを見回さなかった。


 見つけられるはずがない。


 見つける必要もない。


 自分の役目を果たせばいい。


 午後三時十五分。


 発走まで、あと二十分。


 競馬場内の空気が変わり始めた。


 パドックから本馬場へ向かう馬。


 高まる歓声。


 予想を変え、券売機へ走る客。


 窓口付近の人の流れも増えていく。


 その中を、狭山の部下たちが動いていた。


 競馬を見ているようで、見ていない。


 彼らが見ているのは人間だった。


 周囲を気にする者。


 窓口の位置を何度も確認する者。


 不自然に大きなバッグを持つ者。


 携帯電話ばかり見ている者。


 一人の部下が、無線へ囁いた。


「対象らしき男を発見。四十代、紺のコート。東側窓口付近」


 黒田が即座に返す。


『何を持ってる』


「封筒です」


『押さえろ』


 二人の部下が男を挟んだ。


「すみません」


 男が振り返る。


「何ですか」


「その封筒、見せてもらえますか」


「は?」


「確認だけです」


「何の確認だよ」


 男の声が大きくなる。


 周囲の客が振り返った。


 部下の一人が封筒へ手を伸ばす。


 男は慌てて胸へ抱え込んだ。


「やめろよ! 警察呼ぶぞ!」


 封筒の口から覗いたのは、競馬新聞の切り抜きだった。


 馬券ではない。


 黒田の無線へ報告が入る。


「外れです」


『紛らわしい動きした奴は全員見ろ。次だ』


 謝罪も指示しない。


 部下たちは男を解放し、その場を離れる。


 黒田は車内のモニターを睨んでいた。


 競馬場内の監視映像を正規の手段で見ているわけではない。


 協力者が送ってくる断片的な映像。


 入口。


 通路。


 窓口付近。


 全てを見ることはできない。


 それでも人数はこちらが上だ。


 換金窓口は限られている。


 馬券を金へ変える以上、必ずどこかへ現れる。


 木村の手がどれほど込んでいても、最後は人間が窓口へ立つ。


 黒田はそう信じていた。


 午後三時二十四分。


 狭山は事務所の窓際に立っていた。


 机の上には携帯電話が一台。


 その横に、木村の写真。


 狭山は写真を見ていない。


 遠くの街並みを眺めている。


 部屋にいる男が報告した。


「各会場、配置が終わりました」


「そうか」


「黒田からは、まだ対象を確認できていないと」


 狭山は答えなかった。


「人数を増やしますか」


「必要ない」


「しかし――」


 狭山が男を見る。


 それだけで、言葉が止まった。


「人数を増やせば、木村は換金をやめる」


「では、見逃すことになります」


「見逃さないために黒田がいる」


「敵は、俺たちが窓口を押さえることを知っている」


「はい」


「人を配置することも、馬券を持つ人間を探すことも分かっている」


「それでも今日、換金する」


 男は意味を考えた。


「勝算があるということですか」


「違う」


 狭山は静かに言った。


「俺たちがどう動くか、もう決めている」


 午後三時三十分。


 責任者たちの携帯電話へ、予定表が送られた。


 そこには換金役ごとの行動開始時刻が記されている。


 全員同時ではない。


 三時三十八分。


 三時四十一分。


 三時四十三分。


 三時四十七分。


 場所によって開始時刻が違う。


 同じ会場でも、窓口ごとにずらされている。


 最初の換金に敵が反応する。


 人員が集まる。


 その反対側で次が動く。


 さらに人が流れる。


 空いた場所で三人目が動く。


 単発ではない。


 波。


 一つを止めても、次が来る。


 次を追えば、その背後から別の波が押し寄せる。


 責任者の役目は、自分の担当者へ開始の合図を送ることだった。


 早すぎても駄目。


 遅すぎても駄目。


 一人の判断ミスが、別会場の換金役を危険に晒す。


 写真を送られた責任者たちは、もう迷わなかった。


 命令されたからではない。


 自分だけが止まれば、他の責任者から切り離される。


 全員が進む状況を、木村は作っていた。


 午後三時三十四分。


 ファンファーレが鳴った。


 場内から歓声が上がる。


 大型モニターに馬たちが映し出される。


 観客が一斉に前を向く。


 その瞬間だけ、誰も人を見なくなる。


 ゲートへ収まる馬。


 実況の声。


 旗が振られる。


 スタート。


 歓声が爆発した。


 新聞を握る手。


 拳を突き上げる男。


 名前を叫ぶ女。


 押し合う肩。


 走る馬の蹄音が、場内のスピーカーから響く。


 佐伯はモニターを見ていなかった。


 胸ポケットの携帯電話が震えるのを待っている。


 隣の男が叫んでいる。


「行け! そのまま!」


 前の老人が新聞を叩く。


「差せ! 差せ!」


 誰も佐伯を見ていない。


 最終コーナー。


 馬群が膨らむ。


 実況の声が速くなる。


 責任者たちは携帯電話を握った。


 まだだ。


 木村から送られてきた時刻を確認する。


 秒針が進む。


 最後の直線。


 大歓声。


 馬が一頭、抜け出す。


 後方から別の馬が迫る。


 場内の空気が揺れた。


 ゴール。


 一瞬の静寂。


 直後、歓喜と罵声が同時に弾けた。


 勝った者が叫ぶ。


 負けた者が新聞を投げる。


 周囲の人間が一斉に動き始める。


 払い戻しへ向かう者。


 帰り支度をする者。


 結果を確認する者。


 人の流れが幾つにも分かれる。


 その混乱の中。


 午後三時三十八分。


 最初の責任者が、担当する換金役へメッセージを送った。


『GO』


 佐伯の胸ポケットが震えた。


 老人は携帯電話を取り出さなかった。


 一度だけ深く息を吸う。


 新聞を畳む。


 帽子の位置を直す。


 そして、払い戻し窓口へ向かって歩き出した。


 同じ時刻。


 別の会場では、スーツ姿の会社員が列へ並んだ。


 さらに別の会場では、買い物袋を下げた主婦が馬券を財布から取り出した。


 学生がリュックの肩紐を握り直す。


 作業着姿の男が券面を確認する。


 一つ目の波が動き出した。


 黒田の無線に声が飛び込む。


『東側窓口、老人一名。動きが不自然です』


「馬券は!」


『確認できません』


「見ろ!」


『人が多すぎます!』


「押し分けろ!」


 黒田は車のドアを開けた。


「始まったぞ!」


 競馬場の歓声の中へ飛び出す。


「換金が始まった!」

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