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身代金は万馬券  作者: 大福


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第5話 信念


 夜が明ける少し前。


 人気のない住宅街で、三番は車を停めた。


「四番。」


 駆が顔を上げる。


 三番はフロントガラスの先を指した。


「あそこまで、一人で行くんだ。」


 百メートルほど先。


 交差点の角に、小さな交番が見える。


「……あそこまで?」


「ああ。」


「最後くらい送れよ。」


「交番の前に防犯カメラがある。」


「なるほど。」


 駆は窓の外を見たまま笑った。


「誘拐犯って大変だな。」


「今頃気づいたか。」


「子供を誘拐するより、小説を書いてた方が楽だったんじゃない?」


 三番は答えなかった。


 駆は膝の上に置いていた原稿を持ち上げる。


 監禁されている間、何度も読み返した紙の束だった。


「これ。」


 三番が手を差し出す。


 駆はすぐには渡さなかった。


「面白かった。」


「……そうか。」


「でも。」


 原稿を指で叩く。


「主人公、頭良すぎ。」


 三番の眉がわずかに動く。


「何でも分かってて。」


「何をされても慌てなくて。」


「全然失敗しない。」


「そんな奴、本当にいる?」


 三番は駆を見る。


「いないかもしれないな。」


「だろ?」


 駆は原稿を差し出した。


「失敗するくらいが、ちょうどいいよ。」


 三番は受け取り、紙の端を揃えた。


「参考にする。」


「ちゃんと直してよ。」


「ああ。」


 駆は助手席のドアに手を掛ける。


 そこで動きを止めた。


「俺。」


「警察には、知ってること全部話すから。」


 三番は原稿を見たまま答える。


「それでいい。」


 駆が振り返る。


「止めないの?」


「止める理由がない。」


「捕まるかもしれないぞ。」


「その時は、その時だ。」


「怖くないの?」


 三番は原稿を鞄にしまった。


「怖いから、先を考える。」


「先を考えるから、続きを書ける。」


 駆は呆れたように笑う。


「また小説か。」


「ああ。」


「君が何を話すかも。」


「その後、警察がどう動くかも。」


「全部、続きの中にある。」


「何でも分かってる主人公みたいだな。」


 三番は一瞬黙った。


 それから、ほんの少しだけ笑う。


「だから。」


「失敗するくらいが、ちょうどいいんだろう。」


 駆も笑った。


 ドアを開け、車を降りる。


 二、三歩進んだところで振り返った。


「いつか読ませてね。」


「ああ。」


「必ず。」


 駆は交番へ向かって歩き出した。


 三番は、その小さな背中を見つめていた。


 駆が交番の扉を開ける。


 中から警察官が飛び出してくる。


 その姿を確認してから、三番は車を発進させた。


     *


 数時間後。


 警視庁。


 取調室。


 大迫は大河原と向かい合っていた。


 息子が無事に保護された父親。


 そのはずだった。


 しかし、大河原の顔に安堵はあっても、捜査への協力姿勢はなかった。


「改めて伺います。」


 大迫は手元の資料を開く。


「何故、警察へ通報しなかったんです。」


「息子の命が懸かっていました。」


「犯人に口止めされた?」


「そう考えていただいて結構です。」


「犯人の要求は何だったんです。」


「お答えできません。」


「何故です。」


「必要がないからです。」


 大迫は目を細めた。


「必要かどうかは、捜査する側が判断します。」


「息子さんは誘拐された。」


「犯人から何らかの要求があった。」


「あなたはそれに応じた。」


「だから、息子さんは解放された。」


「違いますか。」


 大河原は椅子の背にもたれた。


「刑事さん。」


「あなた、何年目です?」


 大迫は答えない。


「熱心なのは結構です。」


「ですが。」


 一つひとつ、言葉を置く。


「一つ、勘違いをしている。」


「私は参考人です。」


「被疑者ではない。」


「質問に答える義務もありません。」


 大迫は視線を逸らさなかった。


「被害者だからこそ、聞いているんです。」


「犯人を捕まえるために必要です。」


「要求を教えてください。」


「お断りします。」


「何故、言えないんです。」


「先ほどから申し上げている。」


「必要がないからです。」


「息子さんがまた狙われる可能性もある。」


「その時も警察に黙っているつもりですか。」


 大河原の口元から笑みが消えた。


 それでも大迫は止めない。


「今回、犯人は身代金を要求しなかった。」


「それなのに、あなたは警察へ通報できなかった。」


「何かを要求されたからです。」


「そして、それを実行した。」


「だから息子さんは戻ってきた。」


「刑事さん。」


「要求は何だったんです。」


「いい加減にしなさい!」


 大河原の声が取調室を打った。


 大迫の隣に座る若い刑事が、わずかに肩を震わせる。


 大河原は机へ身を乗り出した。


「あなたは今。」


「何の証拠もない。」


「何の根拠もない。」


「ただの憶測だけで。」


「私が犯罪に関与しているかのように話を進めている。」


「私は息子を誘拐された被害者です!」


「その認識で間違いありませんね?」


 大迫は黙って見返した。


「答えなさい。」


「私が何かの犯罪に関与している。」


「そう疑っているんですか。」


「私は、犯人の要求を知りたいだけです。」


「答えになっていない!」


 大河原は大迫を睨みつける。


「あなたは、自分の思い込みで被害者を拘束し。」


「家族の傷を抉り。」


「国会議員としての職務まで妨害している。」


「それが警察の捜査ですか。」


「職務は関係ありません。」


 大迫は静かに言った。


「誘拐事件です。」


「肩書きが何であろうと。」


「私は同じことを聞きます。」


 大河原の目が細くなる。


 取調室の空気が張り詰めた。


 大迫は一歩も引かない。


「犯人の要求を教えてください。」


 数秒の沈黙。


 大河原はゆっくりと立ち上がった。


「これ以上は時間の無駄です。」


「今後は弁護士を通してください。」


 上着の裾を整える。


 扉へ向かい、手を掛けたところで足を止めた。


「それと。」


 振り返らないまま言う。


「あなたの上司には。」


「こちらから話をしておきます。」


 扉が閉まった。


 若い刑事が小さく息を吐く。


「……大丈夫ですか。」


「相手は議員ですよ。」


 大迫は閉じた扉を見たまま答えた。


「関係ない。」


「でも、上から止められたら。」


「その時は、その時だ。」


 大迫は資料を閉じる。


「隠したいものがある。」


「それだけは分かった。」


     *


 別室。


 駆は毛布を肩に掛け、温かいココアを両手で包んでいた。


 母親は病院で待機している。


 父親は別室で事情を聞かれている。


 大迫は駆の向かいに腰を下ろした。


「疲れているところ、ごめんな。」


「大丈夫。」


「覚えていることだけでいい。」


「うん。」


「犯人たちは、名前を呼び合っていた?」


「名前は知らない。」


「一番。」


「二番。」


「三番。」


「そう呼んでた。」


「君は?」


「四番。」


「顔は見た?」


「見た。」


「声も覚えてる?」


「うん。」


「どんな話をしていた?」


 駆は答えようとして、口を止めた。


 三頭の馬。


 掲示板。


 父親が打ち込んだ文字。


 それを話せば、警察は父親へもう一度聞くだろう。


 何故、その馬番を知っていたのか。


 誰から情報を得たのか。


 何故、警察へ相談しなかったのか。


 父親が隠しているものまで、全部露わになるかもしれない。


 三番には、知っていることを全部話すと言った。


 だが。


 駆は父親の顔を思い浮かべた。


「競馬。」


「競馬?」


「うん。」


「競馬の話をしてた。」


「どんな話?」


「馬は思い通りにならないって。」


「それだけ?」


 駆はココアへ視線を落とした。


「小説も書いてた。」


「犯人が?」


「三番が。」


「どんな小説?」


「誘拐の話。」


 大迫のペンが止まる。


「今起きていることを書いていたのか?」


「分からない。」


「読ませてもらっただけ。」


「面白かった?」


 駆は一瞬、大迫を見た。


「まあまあ。」


 大迫は少し笑った。


「他に覚えていることは?」


 駆は首を横に振る。


「それくらい。」


 嘘は言っていない。


 ただ。


 全部を話さなかった。


 大迫は、駆の顔をしばらく見ていた。


 それ以上は追及せず、静かに手帳を閉じた。


     *


 その日の夜。


 警視庁。


 刑事課のテレビから、スポーツニュースが流れていた。


『本日行われた天皇賞(秋)は、上位人気馬が次々と敗れる大波乱となりました』


『三連単は記録的な高額配当となっています』


 画面には、着順と払戻金が大きく表示されている。


 周囲の刑事たちが声を上げた。


「こんなの当てた奴いるのかよ。」


「人生変わるな。」


 大迫はテレビを見つめたまま動かなかった。


 駆の言葉が頭の中で蘇る。


『競馬の話をしてた。』


『馬は思い通りにならないって。』


 大河原の言葉も重なる。


『お答えできません。』


 身代金は支払われていない。


 それでも要求は通った。


 息子は解放された。


 そして、その日に出た記録的な高額配当。


「競馬……。」


 大迫が立ち上がる。


 机の上の新聞を引き寄せ、着順を確認した。


「誘拐。」


「身代金はなし。」


「言えない要求。」


「高額配当。」


 点だったものが、一つの線に変わっていく。


 大迫は小さく呟いた。


「……これか。」


     *


 翌朝。


 警視庁。


 大迫は出勤してきた若い刑事へ資料を投げ渡した。


「JRAへ連絡しろ。」


「何を確認します?」


「昨日の高額配当。」


「的中票の数。」


「発売された場所。」


「払戻しの方法。」


「全部だ。」


 若い刑事は資料へ目を落とす。


「誘拐事件と関係があるんですか。」


「まだ分からない。」


「でも、犯人の要求が競馬だったとしたら。」


 大迫は上着を手に取る。


「金はこれから動く。」


「競馬場。」


「場外馬券売場。」


「高額払戻しに対応できる場所を洗え。」


「張り込むんですか。」


「ああ。」


「議員から圧力が掛かるかもしれませんよ。」


 大迫は歩みを止めない。


「事件は。」


「権力で消えたりしない。」


「犯人は必ず。」


「自分の金を受け取りに来る。」


 刑事たちが動き出す。


 隠し通そうとする者と。


 暴こうとする者。


 互いの信念が。


 静かに衝突を始めていた。


 レース終了から二時間。


 都内某所。


 地下カジノの一室。


 男は上機嫌だった。


 昨日まで返せなかった借金。


 今日、一括で返した。


 札束はまだバッグの中に残っている。


「景気がいいな。」


 声に振り返る。


 黒田だった。


 男の笑みが消える。


「……黒田さん。」


「来い。」


「ど、どうしたんですか。」


「親父がお呼びだ。」


 その一言で、男の顔色が変わった。


     *


 応接室。


 狭山は静かに煙草を吸っていた。


「座れ。」


 男は震える手で椅子に腰を下ろす。


 狭山は灰を落とす。


「競馬、当たったそうだな。」


「……はい。」


「いくらだ。」


「八百万円くらいです。」


「そうか。」


 沈黙。


 煙だけがゆっくりと漂う。


「黒田。」


「はい。」


「こいつが急に借金を返した理由は。」


「天皇賞です。」


 狭山は男を見る。


「運が良かった。」


「そう言いたいのか。」


「……はい。」


「違うな。」


 男の喉が鳴る。


「お前は。」


「当たり馬券を買える人間じゃない。」


「……。」


「誰の馬券だ。」


 男は答えない。


「もう一度聞く。」


「誰の馬券だ。」


 長い沈黙。


「依頼で……買いました。」


「依頼人は。」


「知りません。」


「名前もか。」


「はい。」


「会ったことは。」


「ありません。」


「連絡は。」


「掲示板だけです。」


 狭山は煙草を揉み消した。


「それで。」


「なぜ渡さなかった。」


 男は俯く。


「結果を見たら……。」


「当たってたんです。」


「欲が出ました。」


「俺一人で換金しました。」


 狭山は表情を変えない。


「黒田。」


「はい。」


「嘘は。」


「ついてないと思います。」


「そうか。」


 狭山は立ち上がった。


「お前。」


 男は肩を震わせる。


「勘違いするな。」


「俺が怒っているのは。」


「金を盗んだことじゃない。」


 男は顔を上げる。


「俺達より先に。」


「お前を利用した人間がいる。」


「そいつが気に入らねぇ。」


 部屋が静まり返る。


「黒田。」


「はい。」


「こいつから全部聞き出せ。」


「掲示板。」


「受け渡し場所。」


「時間。」


「どんな小さなことでもいい。」


「その一本が。」


「必ず次へ繋がる。」


「承知しました。」


 狭山は部屋を出る。


 男は力なく椅子へ崩れ落ちた。


 この時ようやく理解した。


 自分が盗んだのは、馬券ではない。


 組織の面子だった。

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