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身代金は万馬券  作者: 大福


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4/15

第4話 いつもの役割


 人は変わる。


 木村は、そう思っていた。


 高校を卒業してから三十年以上。


 就職し。


 結婚し。


 家庭を持ち。


 仕事を失い。


 夢を諦める。


 環境が変われば、人間も変わる。


 そう思っていた。


 だが。


 三十年以上、同じ二人を見続けて分かったことがある。


 人は、そう簡単には変わらない。


 変わるのは立場だけだ。


 追い詰められた時。


 その人間が昔から持っていたものが、隠し切れなくなる。


     *


 誘拐から三日。


 山崎は床に広げた資料を眺めていた。


 政治資金収支報告書。


 過去の選挙日程。


 競馬の払戻データ。


 大河原隆一と双葉会の周辺人物。


 赤い線。


 青い丸。


 余白へ殴り書きされた名前。


 資料だけを見れば、几帳面な人間が整理したようには見えない。


 だが、山崎の頭の中では全てが繋がっている。


「……やっぱり、ここなんだよなぁ」


 山崎が独り言を漏らす。


 木村はノートパソコンの画面から目を上げた。


「何がだ」


「二回目の選挙の時だけ、献金の名義が一つ多い」


「誤差じゃないのか」


「最初はそう思った」


 山崎が一枚の紙を抜き取る。


「でも、この男。三年後に会社を移ってる」


「それがどうした」


「移った先が双葉会のフロント企業だ」


 木村は紙を受け取った。


 献金の日付。


 転職した時期。


 会社登記。


 それぞれを見ただけなら、何の意味もない。


 山崎は、そういうものを見つける。


 昔からだった。


     *


 高校一年の秋。


 クラスで盗難騒ぎが起きた。


 なくなったのは、修学旅行の積立金。


 担任が一時的に保管していた封筒から、五万円が消えていた。


 教室の空気は最悪だった。


 担任は生徒を疑った。


 生徒たちは互いを疑った。


 前日に職員室へ呼ばれた生徒。


 放課後まで残っていた生徒。


 家庭が貧しいと噂されていた生徒。


 根拠のない視線が、一人へ集まり始めた。


 山崎だけは、その輪へ入らなかった。


 担任が黒板の前で話している間も、配布された会計表を見つめていた。


 そして。


「先生。」


 突然、手を挙げた。


「何だ、山崎」


「盗まれてないと思います」


 教室が静まり返った。


 担任の顔色が変わる。


「どういう意味だ」


「この五万円、最初から入ってないです」


「何を根拠に」


「先月の集金日、五人休んでます」


 山崎は会計表を掲げた。


「一人一万円。ちょうど五万円」


「その五人は、翌週に払ったことになっている」


「なってます。でも、こっちの入金表には入ってない」


 担任が表を奪うように確認した。


 結果。


 五万円は盗まれていなかった。


 集金した教師が別の封筒へ入れたまま、帳簿への記載を忘れていた。


 疑われていた生徒は、何もしていなかった。


 山崎は得意げに笑った。


「ほら。言ったでしょう」


 そこで終わればよかった。


 だが、山崎は続けた。


「それより先生。」


「去年の積立金も、数字が合ってないんですけど」


 教室の空気が凍った。


 藤井が机の下で山崎の制服を引いた。


「やめろ」


「何でだよ」


「今はそれを言う時じゃない」


「でも、おかしいだろ」


「後にしろ」


「後にしたら誤魔化される」


 山崎は止まらなかった。


 教師の顔。


 教室の空気。


 自分が今どこまで踏み込んでいるのか。


 何も見えていなかった。


 木村は会計表を見た。


「山崎」


「何だよ」


「去年の話は証拠が足りない」


「でも数字が――」


「今言えば、今回の間違いまでお前の思い込みにされる」


 山崎が黙った。


「確認するなら、去年の入金記録から先に探せ」


「……どこにある」


「生徒会室か事務室」


 藤井がため息を吐いた。


「だから今日はやめろって言っただろ」


「やめたら証拠を消されるかもしれないだろ」


「教師を犯罪者みたいに言うな」


「じゃあ、お前は気にならないのかよ」


「気になるよ。だから順番を考えろって言ってんだ」


 二人が木村を見る。


 昔からそうだった。


 山崎が何かを見つける。


 藤井が止める。


 最後に、木村が収める。


 その後、三人は生徒会室の保管書類を確認した。


 前年の帳簿にも、実際に複数の記載漏れがあった。


 横領ではない。


 杜撰な管理だった。


 山崎の疑いは半分当たり、半分外れた。


 山崎は事実へ辿り着く。


 ただし。


 辿り着くまでに、必要以上の扉を蹴破る。


 昔から、そういう男だった。


     *


 山崎は優秀だった。


 新聞記者になってからも、変わらなかった。


 誰も気に留めない数字のずれ。


 一度だけ記事に出た名前。


 写真の隅に写った車。


 政治家の発言。


 企業の登記。


 それらを繋ぎ、他の記者が追いつく前に核心へ触れた。


 だが。


 核心には、触れていい時と悪い時がある。


 世に出していい真実と。


 まだ裏付けが足りない真実。


 会社が守れる相手と。


 会社ごと潰しかねない相手。


 山崎は、その境目を何度教えられても覚えなかった。


 上司が止めても掘った。


 取材先が警告しても笑った。


 記事を外されれば、別の媒体へ持ち込んだ。


 優秀過ぎた。


 そして、危う過ぎた。


 最後には記者としての居場所を失った。


 今はフリージャーナリスト。


 肩書だけなら聞こえはいい。


 実際は、仕事を選べる立場ではない。


 それでも山崎は明るかった。


 昔よりも、よく笑うようになった。


 木村は理由を知っている。


 山崎は、追い詰められるほど冗談が増える。


 何かを諦めた後ほど、明るく振る舞う。


「これだけ揃ってれば、俺なら記事にできるんだけどなぁ」


 山崎が笑う。


「載せるところがないけど」


 自分で言って。


 自分で笑った。


 藤井は笑わなかった。


 木村も何も言わなかった。


     *


 藤井は、三人の中で唯一、普通の人生を歩いてきた。


 二十七年間、同じ会社へ勤めた。


 結婚した。


 子供を育てた。


 住宅ローンを払い。


 上司に頭を下げ。


 部下の失敗を庇い。


 家族の前では、何もなかったように振る舞った。


 良く言えば普通。


 悪く言っても普通。


 だが、木村は知っている。


 普通であり続けることが、どれほど難しいか。


 毎朝決まった時間に起きる。


 嫌な相手にも挨拶する。


 生活費を計算する。


 家族の予定を覚える。


 将来のために金を残す。


 何十年も、同じ責任を放り出さない。


 それは才能だった。


 山崎にも。


 木村にもなかった才能。


 藤井は、昔から二人のブレーキだった。


「やめろ」


「そこまでにしろ」


「後のことも考えろ」


 何度聞いたか分からない。


 山崎が火をつける。


 藤井がブレーキを踏む。


 木村が、燃え広がらない形へ収める。


 三人の関係は、それで保たれていた。


 今回も。


 藤井は最後まで反対していた。


 子供の誘拐などできるわけがない。


 失敗すれば人生が終わる。


 成功しても、元には戻れない。


 正しいことを言っていた。


 いつもの藤井だった。


 だから木村は。


 最後には藤井が立ち上がり、帰ると思っていた。


 山崎も、そう思っていたはずだ。


 だが。


 藤井は帰らなかった。


 三つのビールを注文した。


 あの瞬間。


 藤井は初めて、ブレーキを踏まなかった。


 リストラ。


 退職金。


 再就職。


 妻。


 子供。


 この先の生活。


 普通を守り続けた男が。


 普通を失う恐怖に負けた。


 山崎の計画が現実になったのは、木村が乗った時ではない。


 藤井が席を立たなかった時だ。


 三人とも、もう止めない。


 あの瞬間に。


 木村はそれを理解した。


     *


「木村。」


 藤井の声で、意識が現在へ戻る。


「何だ」


「これ、本当に大丈夫なのか」


 藤井は窓の外を気にしていた。


 誘拐から三日。


 外を走る車の音だけで、肩が動く。


「何がだ」


「全部だよ」


「曖昧過ぎる」


「駆のことも。警察のことも。大河原のこともだ」


「今は予定どおりだ」


「予定どおりなら安心しろって?」


「安心する必要はない」


「じゃあ、どうしろってんだよ」


「決めたことをやれ」


 藤井は黙った。


 木村は画面へ視線を戻す。


 藤井は今回、初めてブレーキを踏まなかった。


 だが。


 ブレーキを失ったわけではない。


 今も何度も止まろうとしている。


 もう止まれない場所に来てから。


     *


 部屋の扉が開いた。


「三番」


 四番が顔を覗かせる。


 三人の空気が変わる。


 山崎は資料を裏返した。


 藤井は口を閉じる。


 木村は画面を切り替えた。


「何だ」


「喉渇いた」


「冷蔵庫にある」


「二番が買った甘いやつ?」


「そうだ」


「一番は飲んでいいって言った?」


 藤井が顔を上げる。


「一本だけだぞ」


「はーい」


 四番は冷蔵庫からジュースを取り出し、木村の隣へ座った。


 最初は正体を隠すために決めた番号だった。


 今では四番も、何の迷いもなく使っている。


「三番」


「何だ」


「ずっとそれやってるね」


 四番がパソコンを見る。


 画面には文字が並んでいる。


「何を書いてるの」


「筋書きだ」


「小説?」


 木村の指が止まった。


「似たようなものだ」


「じゃあ、僕も出てる?」


「ああ」


「どんな役?」


「人質」


「そのままじゃん」


 四番が不満そうに頬を膨らませる。


「もっと格好いい役にしてよ」


「現実を変えるつもりはない」


「小説なら変えてもいいでしょ」


「これはまだ小説じゃない」


「じゃあ、何?」


 木村は答えなかった。


 山崎が口を挟む。


「三番はなぁ、昔から頭の中で何でも話にするんだよ」


 木村が山崎を見る。


「余計なことを言うな」


「別にいいだろ。名前じゃないんだから」


「二番」


「はいはい」


 四番が笑う。


 三人が番号で呼び合うことを、もう遊びのように感じている。


「三番は小説家なの?」


「一応な」


「本、出した?」


「出した」


「有名?」


「売れてない」


 山崎が即答した。


「二番」


「事実だろ」


「僕、読んでみたい」


 木村は四番を見る。


「子供が読むものじゃない」


「面白くないの?」


「そういう意味じゃない」


「じゃあ面白い?」


 木村は答えられなかった。


 自分で書いたものが面白いのか。


 もう何年も分からない。


 書き始める。


 先が見える。


 誰が裏切り。


 どこで失敗し。


 どう終わるか。


 結末が分かった瞬間、指が止まる。


 だが。


 今回だけは違った。


 山崎の資料を見た時。


 頭の中で、いくつもの筋書きが同時に動き始めた。


 政治家。


 暴力団。


 競馬。


 子供。


 三人の中年男。


 どこへ転ぶのか。


 誰が残るのか。


 最後が読めない。


 だから。


 木村は今も書き続けている。


『タタタ、タン』


 少し止まる。


『タタタタ、タン』


 四番が耳を傾ける。


「やっぱり変な打ち方」


「癖だ」


「覚えたよ」


 四番が机の上を指で叩く。


「タタタ、タン」


 続けて。


「タタタタ、タン」


 山崎が笑う。


「そっくりじゃん」


「やめろ」


「何で?」


「気が散る」


「三番もやってるのに」


「俺はいい」


「ずるい」


 また、四番が笑った。


 誘拐されている子供の笑い声とは思えなかった。


 それが良いことなのか。


 悪いことなのか。


 木村には判断できなかった。


     *


 夜。


 山崎は畳の上で眠っていた。


 藤井は壁にもたれ、腕を組んだまま目を閉じている。


 四番だけが起きていた。


 木村はノートパソコンへ向かっている。


『タタタ、タン』


 音が止まる。


「三番」


「何だ」


「本当に帰す?」


「ああ」


 木村は画面を見たまま答えた。


「約束した」


「そっか」


 四番の声は明るくなかった。


「帰りたくないのか」


「帰りたいよ」


「なら何だ」


 四番は膝を抱えた。


「帰っても、たぶん何も変わらないから」


 木村は四番を見る。


「父親が嫌いなのか」


「嫌いじゃない」


 答えは早かった。


「パパはすごい人だよ」


「テレビにも出るし」


「みんな頭を下げるし」


「学校でも、先生がパパの話をする」


「でも」


 一拍。


「僕には興味ない」


 責める口調ではなかった。


 長い間、そういうものだと受け入れてきた声だった。


「僕が何年生かは知ってると思う」


「たぶん」


「好きな食べ物は知らない」


「学校で何してるかも」


「誕生日は、秘書が教えないと忘れる」


 木村は黙って聞いた。


「家にいても、ずっと電話してる」


「僕が話しかけると、後でって言う」


「その後は来ない」


「忙しいんだろう」


「うん」


 四番は頷いた。


「だから嫌いじゃない」


「仕方ないって分かってる」


 子供が親を庇っている。


 木村には、そう聞こえた。


「設楽さんは違うけど」


「設楽?」


「パパの秘書」


 四番の声が少しだけ明るくなる。


「学校の行事も来てくれる」


「パパが来られない時は、いつも設楽さん」


「誕生日も覚えてる」


「去年は本をくれた」


「何の本だ」


「探偵の本」


「好きなのか」


「うん」


 四番は笑った。


「悪い人が、最後にちゃんと捕まるから」


 木村は画面へ視線を戻した。


 今、目の前にいる悪い人間は。


 最後に捕まるのか。


 自分にも分からない。


「設楽さんは優しいよ」


「僕が一人になると、必ず来てくれる」


「パパより一緒にいるかも」


「信用しているんだな」


「うん」


 迷いのない返事だった。


 木村は少し考える。


「四番」


「何?」


「もし今回の件で、お前の父親が責任を取らされるとしたら」


「うん」


「どうすると思う」


 四番は首を傾げる。


「パパが責任を取るの?」


「仮の話だ」


「誰か一人に責任を押し付ければ、自分は助かる」


「その場合、お前の父親はどうする」


 四番の表情から笑みが消えた。


 すぐには答えなかった。


 膝を抱えたまま、床を見る。


「……設楽さん」


 木村は四番から目を離さない。


「なぜだ」


「いつもそうだから」


「いつも?」


「何か悪いことがあると、パパは設楽さんを呼ぶ」


「最初は怒る」


「その後、ごめんって言う」


「でも」


 四番の指が、膝の上で動く。


「最後は、設楽さんがやったことになる」


「設楽は反論しないのか」


「しない」


「どうして」


「パパを守るのが仕事だからって」


 四番は顔を上げた。


「三番」


「何だ」


「設楽さん、悪いことしてないよ」


「ああ」


「今回も、設楽さんのせいにされる?」


 木村は答えなかった。


 可能性は高い。


 大河原は、自分の政治生命を守るためなら切る。


 息子より自分を選ぶ男だ。


 秘書一人を犠牲にすることに、迷う理由はない。


「三番」


「何だ」


「設楽さんを助けられる?」


 木村の指が止まる。


 山崎なら、すぐに答えただろう。


 藤井なら、無責任なことを言うなと止めただろう。


 木村は考えた。


 設楽。


 大河原の秘書。


 駆が信頼する男。


 大河原が責任を被せる可能性が最も高い人間。


 そして。


 大河原の内側を知る人間。


 筋書きの中に、まだ置かれていなかった駒。


「分からない」


 木村は正直に答えた。


 四番が俯く。


「でも」


 木村はノートパソコンへ向き直る。


「考える」


 四番が顔を上げた。


「本当?」


「ああ」


「約束?」


「約束はしない」


「何で」


「できると決まっていない」


「じゃあ、何で考えるの」


 木村は画面を見つめた。


「その方が」


 一拍。


「筋書きとして自然だからだ」


 四番は意味が分からないという顔をした。


 それでも。


 少しだけ笑った。


「変な人」


「ああ」


 木村の指が動く。


『タタタ、タン』


 画面に新しい名前を打ち込む。


 設楽。


 その下に。


 大河原が秘書へ責任を押し付ける場合。


 想定される行動。


 逃走経路。


 連絡方法。


 必要な役割。


 文字が増えていく。


『タタタタ、タン』


 四番はその音を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。


「三番」


「何だ」


「ありがとう」


「まだ何もしていない」


「でも、考えてくれるんでしょ」


 木村は答えなかった。


 やがて。


 四番の小さな寝息が聞こえ始める。


 木村は一度だけ、その寝顔を見た。


 人質。


 計画を成立させるための駒。


 最初は、それだけだった。


 だが今は。


 四番が信じている人間まで、筋書きの外へ捨てることができなくなっていた。


 木村は再び画面を見る。


『タタタ、タン』


 少し考える。


『タタタタ、タン』


 山崎が火をつける。


 藤井が止める。


 木村が収める。


 三十年以上。


 ずっと、そうだった。


 だが今回。


 藤井は初めて、ブレーキを踏まなかった。


 そして木村も。


 火を消すのではなく。


 その火がどこへ進めば、全てが終わるのかを考えている。


 画面の中に、新しい筋書きが形を取り始める。


 設楽を生かす。


 大河原を動かす。


 金を回収する。


 三人を国外へ出す。


 そのために必要な、最後の役割。


 木村は一つの項目を打ち込んだ。


『タタタ、タン』


 画面に表示された文字を見つめる。


 ――送金役。


 木村は保存した。


 部屋には、四番の寝息と。


 木村が再びキーを叩く音だけが、静かに響き続けていた。

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