第4話 いつもの役割
人は変わる。
木村は、そう思っていた。
高校を卒業してから三十年以上。
就職し。
結婚し。
家庭を持ち。
仕事を失い。
夢を諦める。
環境が変われば、人間も変わる。
そう思っていた。
だが。
三十年以上、同じ二人を見続けて分かったことがある。
人は、そう簡単には変わらない。
変わるのは立場だけだ。
追い詰められた時。
その人間が昔から持っていたものが、隠し切れなくなる。
*
誘拐から三日。
山崎は床に広げた資料を眺めていた。
政治資金収支報告書。
過去の選挙日程。
競馬の払戻データ。
大河原隆一と双葉会の周辺人物。
赤い線。
青い丸。
余白へ殴り書きされた名前。
資料だけを見れば、几帳面な人間が整理したようには見えない。
だが、山崎の頭の中では全てが繋がっている。
「……やっぱり、ここなんだよなぁ」
山崎が独り言を漏らす。
木村はノートパソコンの画面から目を上げた。
「何がだ」
「二回目の選挙の時だけ、献金の名義が一つ多い」
「誤差じゃないのか」
「最初はそう思った」
山崎が一枚の紙を抜き取る。
「でも、この男。三年後に会社を移ってる」
「それがどうした」
「移った先が双葉会のフロント企業だ」
木村は紙を受け取った。
献金の日付。
転職した時期。
会社登記。
それぞれを見ただけなら、何の意味もない。
山崎は、そういうものを見つける。
昔からだった。
*
高校一年の秋。
クラスで盗難騒ぎが起きた。
なくなったのは、修学旅行の積立金。
担任が一時的に保管していた封筒から、五万円が消えていた。
教室の空気は最悪だった。
担任は生徒を疑った。
生徒たちは互いを疑った。
前日に職員室へ呼ばれた生徒。
放課後まで残っていた生徒。
家庭が貧しいと噂されていた生徒。
根拠のない視線が、一人へ集まり始めた。
山崎だけは、その輪へ入らなかった。
担任が黒板の前で話している間も、配布された会計表を見つめていた。
そして。
「先生。」
突然、手を挙げた。
「何だ、山崎」
「盗まれてないと思います」
教室が静まり返った。
担任の顔色が変わる。
「どういう意味だ」
「この五万円、最初から入ってないです」
「何を根拠に」
「先月の集金日、五人休んでます」
山崎は会計表を掲げた。
「一人一万円。ちょうど五万円」
「その五人は、翌週に払ったことになっている」
「なってます。でも、こっちの入金表には入ってない」
担任が表を奪うように確認した。
結果。
五万円は盗まれていなかった。
集金した教師が別の封筒へ入れたまま、帳簿への記載を忘れていた。
疑われていた生徒は、何もしていなかった。
山崎は得意げに笑った。
「ほら。言ったでしょう」
そこで終わればよかった。
だが、山崎は続けた。
「それより先生。」
「去年の積立金も、数字が合ってないんですけど」
教室の空気が凍った。
藤井が机の下で山崎の制服を引いた。
「やめろ」
「何でだよ」
「今はそれを言う時じゃない」
「でも、おかしいだろ」
「後にしろ」
「後にしたら誤魔化される」
山崎は止まらなかった。
教師の顔。
教室の空気。
自分が今どこまで踏み込んでいるのか。
何も見えていなかった。
木村は会計表を見た。
「山崎」
「何だよ」
「去年の話は証拠が足りない」
「でも数字が――」
「今言えば、今回の間違いまでお前の思い込みにされる」
山崎が黙った。
「確認するなら、去年の入金記録から先に探せ」
「……どこにある」
「生徒会室か事務室」
藤井がため息を吐いた。
「だから今日はやめろって言っただろ」
「やめたら証拠を消されるかもしれないだろ」
「教師を犯罪者みたいに言うな」
「じゃあ、お前は気にならないのかよ」
「気になるよ。だから順番を考えろって言ってんだ」
二人が木村を見る。
昔からそうだった。
山崎が何かを見つける。
藤井が止める。
最後に、木村が収める。
その後、三人は生徒会室の保管書類を確認した。
前年の帳簿にも、実際に複数の記載漏れがあった。
横領ではない。
杜撰な管理だった。
山崎の疑いは半分当たり、半分外れた。
山崎は事実へ辿り着く。
ただし。
辿り着くまでに、必要以上の扉を蹴破る。
昔から、そういう男だった。
*
山崎は優秀だった。
新聞記者になってからも、変わらなかった。
誰も気に留めない数字のずれ。
一度だけ記事に出た名前。
写真の隅に写った車。
政治家の発言。
企業の登記。
それらを繋ぎ、他の記者が追いつく前に核心へ触れた。
だが。
核心には、触れていい時と悪い時がある。
世に出していい真実と。
まだ裏付けが足りない真実。
会社が守れる相手と。
会社ごと潰しかねない相手。
山崎は、その境目を何度教えられても覚えなかった。
上司が止めても掘った。
取材先が警告しても笑った。
記事を外されれば、別の媒体へ持ち込んだ。
優秀過ぎた。
そして、危う過ぎた。
最後には記者としての居場所を失った。
今はフリージャーナリスト。
肩書だけなら聞こえはいい。
実際は、仕事を選べる立場ではない。
それでも山崎は明るかった。
昔よりも、よく笑うようになった。
木村は理由を知っている。
山崎は、追い詰められるほど冗談が増える。
何かを諦めた後ほど、明るく振る舞う。
「これだけ揃ってれば、俺なら記事にできるんだけどなぁ」
山崎が笑う。
「載せるところがないけど」
自分で言って。
自分で笑った。
藤井は笑わなかった。
木村も何も言わなかった。
*
藤井は、三人の中で唯一、普通の人生を歩いてきた。
二十七年間、同じ会社へ勤めた。
結婚した。
子供を育てた。
住宅ローンを払い。
上司に頭を下げ。
部下の失敗を庇い。
家族の前では、何もなかったように振る舞った。
良く言えば普通。
悪く言っても普通。
だが、木村は知っている。
普通であり続けることが、どれほど難しいか。
毎朝決まった時間に起きる。
嫌な相手にも挨拶する。
生活費を計算する。
家族の予定を覚える。
将来のために金を残す。
何十年も、同じ責任を放り出さない。
それは才能だった。
山崎にも。
木村にもなかった才能。
藤井は、昔から二人のブレーキだった。
「やめろ」
「そこまでにしろ」
「後のことも考えろ」
何度聞いたか分からない。
山崎が火をつける。
藤井がブレーキを踏む。
木村が、燃え広がらない形へ収める。
三人の関係は、それで保たれていた。
今回も。
藤井は最後まで反対していた。
子供の誘拐などできるわけがない。
失敗すれば人生が終わる。
成功しても、元には戻れない。
正しいことを言っていた。
いつもの藤井だった。
だから木村は。
最後には藤井が立ち上がり、帰ると思っていた。
山崎も、そう思っていたはずだ。
だが。
藤井は帰らなかった。
三つのビールを注文した。
あの瞬間。
藤井は初めて、ブレーキを踏まなかった。
リストラ。
退職金。
再就職。
妻。
子供。
この先の生活。
普通を守り続けた男が。
普通を失う恐怖に負けた。
山崎の計画が現実になったのは、木村が乗った時ではない。
藤井が席を立たなかった時だ。
三人とも、もう止めない。
あの瞬間に。
木村はそれを理解した。
*
「木村。」
藤井の声で、意識が現在へ戻る。
「何だ」
「これ、本当に大丈夫なのか」
藤井は窓の外を気にしていた。
誘拐から三日。
外を走る車の音だけで、肩が動く。
「何がだ」
「全部だよ」
「曖昧過ぎる」
「駆のことも。警察のことも。大河原のこともだ」
「今は予定どおりだ」
「予定どおりなら安心しろって?」
「安心する必要はない」
「じゃあ、どうしろってんだよ」
「決めたことをやれ」
藤井は黙った。
木村は画面へ視線を戻す。
藤井は今回、初めてブレーキを踏まなかった。
だが。
ブレーキを失ったわけではない。
今も何度も止まろうとしている。
もう止まれない場所に来てから。
*
部屋の扉が開いた。
「三番」
四番が顔を覗かせる。
三人の空気が変わる。
山崎は資料を裏返した。
藤井は口を閉じる。
木村は画面を切り替えた。
「何だ」
「喉渇いた」
「冷蔵庫にある」
「二番が買った甘いやつ?」
「そうだ」
「一番は飲んでいいって言った?」
藤井が顔を上げる。
「一本だけだぞ」
「はーい」
四番は冷蔵庫からジュースを取り出し、木村の隣へ座った。
最初は正体を隠すために決めた番号だった。
今では四番も、何の迷いもなく使っている。
「三番」
「何だ」
「ずっとそれやってるね」
四番がパソコンを見る。
画面には文字が並んでいる。
「何を書いてるの」
「筋書きだ」
「小説?」
木村の指が止まった。
「似たようなものだ」
「じゃあ、僕も出てる?」
「ああ」
「どんな役?」
「人質」
「そのままじゃん」
四番が不満そうに頬を膨らませる。
「もっと格好いい役にしてよ」
「現実を変えるつもりはない」
「小説なら変えてもいいでしょ」
「これはまだ小説じゃない」
「じゃあ、何?」
木村は答えなかった。
山崎が口を挟む。
「三番はなぁ、昔から頭の中で何でも話にするんだよ」
木村が山崎を見る。
「余計なことを言うな」
「別にいいだろ。名前じゃないんだから」
「二番」
「はいはい」
四番が笑う。
三人が番号で呼び合うことを、もう遊びのように感じている。
「三番は小説家なの?」
「一応な」
「本、出した?」
「出した」
「有名?」
「売れてない」
山崎が即答した。
「二番」
「事実だろ」
「僕、読んでみたい」
木村は四番を見る。
「子供が読むものじゃない」
「面白くないの?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ面白い?」
木村は答えられなかった。
自分で書いたものが面白いのか。
もう何年も分からない。
書き始める。
先が見える。
誰が裏切り。
どこで失敗し。
どう終わるか。
結末が分かった瞬間、指が止まる。
だが。
今回だけは違った。
山崎の資料を見た時。
頭の中で、いくつもの筋書きが同時に動き始めた。
政治家。
暴力団。
競馬。
子供。
三人の中年男。
どこへ転ぶのか。
誰が残るのか。
最後が読めない。
だから。
木村は今も書き続けている。
『タタタ、タン』
少し止まる。
『タタタタ、タン』
四番が耳を傾ける。
「やっぱり変な打ち方」
「癖だ」
「覚えたよ」
四番が机の上を指で叩く。
「タタタ、タン」
続けて。
「タタタタ、タン」
山崎が笑う。
「そっくりじゃん」
「やめろ」
「何で?」
「気が散る」
「三番もやってるのに」
「俺はいい」
「ずるい」
また、四番が笑った。
誘拐されている子供の笑い声とは思えなかった。
それが良いことなのか。
悪いことなのか。
木村には判断できなかった。
*
夜。
山崎は畳の上で眠っていた。
藤井は壁にもたれ、腕を組んだまま目を閉じている。
四番だけが起きていた。
木村はノートパソコンへ向かっている。
『タタタ、タン』
音が止まる。
「三番」
「何だ」
「本当に帰す?」
「ああ」
木村は画面を見たまま答えた。
「約束した」
「そっか」
四番の声は明るくなかった。
「帰りたくないのか」
「帰りたいよ」
「なら何だ」
四番は膝を抱えた。
「帰っても、たぶん何も変わらないから」
木村は四番を見る。
「父親が嫌いなのか」
「嫌いじゃない」
答えは早かった。
「パパはすごい人だよ」
「テレビにも出るし」
「みんな頭を下げるし」
「学校でも、先生がパパの話をする」
「でも」
一拍。
「僕には興味ない」
責める口調ではなかった。
長い間、そういうものだと受け入れてきた声だった。
「僕が何年生かは知ってると思う」
「たぶん」
「好きな食べ物は知らない」
「学校で何してるかも」
「誕生日は、秘書が教えないと忘れる」
木村は黙って聞いた。
「家にいても、ずっと電話してる」
「僕が話しかけると、後でって言う」
「その後は来ない」
「忙しいんだろう」
「うん」
四番は頷いた。
「だから嫌いじゃない」
「仕方ないって分かってる」
子供が親を庇っている。
木村には、そう聞こえた。
「設楽さんは違うけど」
「設楽?」
「パパの秘書」
四番の声が少しだけ明るくなる。
「学校の行事も来てくれる」
「パパが来られない時は、いつも設楽さん」
「誕生日も覚えてる」
「去年は本をくれた」
「何の本だ」
「探偵の本」
「好きなのか」
「うん」
四番は笑った。
「悪い人が、最後にちゃんと捕まるから」
木村は画面へ視線を戻した。
今、目の前にいる悪い人間は。
最後に捕まるのか。
自分にも分からない。
「設楽さんは優しいよ」
「僕が一人になると、必ず来てくれる」
「パパより一緒にいるかも」
「信用しているんだな」
「うん」
迷いのない返事だった。
木村は少し考える。
「四番」
「何?」
「もし今回の件で、お前の父親が責任を取らされるとしたら」
「うん」
「どうすると思う」
四番は首を傾げる。
「パパが責任を取るの?」
「仮の話だ」
「誰か一人に責任を押し付ければ、自分は助かる」
「その場合、お前の父親はどうする」
四番の表情から笑みが消えた。
すぐには答えなかった。
膝を抱えたまま、床を見る。
「……設楽さん」
木村は四番から目を離さない。
「なぜだ」
「いつもそうだから」
「いつも?」
「何か悪いことがあると、パパは設楽さんを呼ぶ」
「最初は怒る」
「その後、ごめんって言う」
「でも」
四番の指が、膝の上で動く。
「最後は、設楽さんがやったことになる」
「設楽は反論しないのか」
「しない」
「どうして」
「パパを守るのが仕事だからって」
四番は顔を上げた。
「三番」
「何だ」
「設楽さん、悪いことしてないよ」
「ああ」
「今回も、設楽さんのせいにされる?」
木村は答えなかった。
可能性は高い。
大河原は、自分の政治生命を守るためなら切る。
息子より自分を選ぶ男だ。
秘書一人を犠牲にすることに、迷う理由はない。
「三番」
「何だ」
「設楽さんを助けられる?」
木村の指が止まる。
山崎なら、すぐに答えただろう。
藤井なら、無責任なことを言うなと止めただろう。
木村は考えた。
設楽。
大河原の秘書。
駆が信頼する男。
大河原が責任を被せる可能性が最も高い人間。
そして。
大河原の内側を知る人間。
筋書きの中に、まだ置かれていなかった駒。
「分からない」
木村は正直に答えた。
四番が俯く。
「でも」
木村はノートパソコンへ向き直る。
「考える」
四番が顔を上げた。
「本当?」
「ああ」
「約束?」
「約束はしない」
「何で」
「できると決まっていない」
「じゃあ、何で考えるの」
木村は画面を見つめた。
「その方が」
一拍。
「筋書きとして自然だからだ」
四番は意味が分からないという顔をした。
それでも。
少しだけ笑った。
「変な人」
「ああ」
木村の指が動く。
『タタタ、タン』
画面に新しい名前を打ち込む。
設楽。
その下に。
大河原が秘書へ責任を押し付ける場合。
想定される行動。
逃走経路。
連絡方法。
必要な役割。
文字が増えていく。
『タタタタ、タン』
四番はその音を聞きながら、ゆっくり目を閉じた。
「三番」
「何だ」
「ありがとう」
「まだ何もしていない」
「でも、考えてくれるんでしょ」
木村は答えなかった。
やがて。
四番の小さな寝息が聞こえ始める。
木村は一度だけ、その寝顔を見た。
人質。
計画を成立させるための駒。
最初は、それだけだった。
だが今は。
四番が信じている人間まで、筋書きの外へ捨てることができなくなっていた。
木村は再び画面を見る。
『タタタ、タン』
少し考える。
『タタタタ、タン』
山崎が火をつける。
藤井が止める。
木村が収める。
三十年以上。
ずっと、そうだった。
だが今回。
藤井は初めて、ブレーキを踏まなかった。
そして木村も。
火を消すのではなく。
その火がどこへ進めば、全てが終わるのかを考えている。
画面の中に、新しい筋書きが形を取り始める。
設楽を生かす。
大河原を動かす。
金を回収する。
三人を国外へ出す。
そのために必要な、最後の役割。
木村は一つの項目を打ち込んだ。
『タタタ、タン』
画面に表示された文字を見つめる。
――送金役。
木村は保存した。
部屋には、四番の寝息と。
木村が再びキーを叩く音だけが、静かに響き続けていた。




