第3話 波状
大河原隆一は。
スマートフォンを耳に当てたまま。
窓の外を見ていた。
夜。
議員会館の窓に。
自分の顔だけが映っている。
『それで』
電話の向こうから。
静かな声がした。
『相手の要求は?』
「金ではありません」
大河原は答えた。
「次の天皇賞です」
一拍。
「仕込まれている馬の情報を渡せと」
電話の相手は。
すぐには答えなかった。
双葉会狭山組組長。
狭山。
『息子さんを預かっている』
「はい」
『それだけでは、あなたが動かないと思った』
「……」
『だから、こちらへ情報を流すと脅してきた』
大河原の指が強くなる。
「私が裏切ったと」
「会に疑わせるつもりです」
『なるほど』
狭山の声は。
変わらない。
怒ってもいない。
驚いてもいない。
『相手は、どこまで知っていますか』
「資料を持っていると言っています」
『資料の中身は』
「分かりません」
『脅しだけという可能性は』
「あります」
『本当に持っている可能性もある』
「……はい」
狭山が黙った。
大河原は。
その沈黙に耐えられず。
先に口を開いた。
「情報を」
『はい』
「流してもよろしいでしょうか」
言った瞬間。
喉が乾いた。
「指定された掲示板へ」
「三頭分だけ」
電話の向こうで。
狭山が、わずかに息を吐いた。
『流してください』
大河原が目を上げる。
「よろしいのですか」
『敵対組織へ資料が流れるよりはいい』
「しかし」
『相手は素人です』
狭山は言った。
『競馬の情報を渡せば、必ず馬券を買う』
「……」
『大金を動かすには、人が必要になる』
『買う者』
『運ぶ者』
『換金する者』
一つずつ。
確かめるように。
『どこかに必ず痕跡が残る』
大河原は。
何も言えなかった。
『情報は渡す』
一拍。
『当てさせる』
さらに。
『その後で奪えばいい』
狭山の声は。
あまりにも穏やかだった。
『こちらも乗る』
「……馬券を買うのですか」
『私が仕込んだ情報です』
一拍。
『使わない理由がない』
狭山は淡々と続けた。
『ただし、相手が買えば』
『その分だけ配当は下がる』
『こちらの取り分も減る』
大河原は。
息を詰めた。
『当てさせてやるのですから』
『最後に残った金も』
『本来はこちらの取り分でしょう』
「……」
『関わった者も』
少し間を置く。
『始末すれば済む』
大河原の顔が。
窓に映る。
「息子は」
『それは、あなたの問題です』
「……」
『我々の問題は』
声が低くなる。
『誰がこちらの情報を知り』
『どこまで辿り着いているのか』
大河原は。
口を閉じた。
『数字を伝えてください』
「分かりました」
『大河原先生』
「はい」
『余計なことは書かないように』
電話が切れた。
大河原は。
しばらくスマートフォンを耳に当てたまま。
動かなかった。
やがて。
指定された掲示板を開く。
そして。
三つの数字を書き込んだ。
【13】
【17】
【5】
*
大河原議員が。
指定された掲示板に書き込んだ数字は。
三つだった。
【13】
【17】
【5】
来月の天皇賞(秋)。
十三番。
十七番。
五番。
その三頭が。
仕込まれている。
ただし。
着順までは分からない。
「馬は機械じゃない」
三番――木村は。
そう言った。
「騎手が仕込まれていても、スタートで躓くことはある」
「進路が塞がることもある」
「落馬だってある」
ノートに。
三つの数字を書く。
「八百長だからといって」
「十三、十七、五の順に並んでゴールする保証はない」
二番――山崎が。
眉を寄せた。
「じゃあ、どうすんだよ」
「せっかく命張って聞き出したのに」
木村は答えなかった。
三つの数字を。
丸で囲む。
13。
17。
5。
三つの円から。
何本もの線を引いていく。
単勝。
複勝。
馬連。
ワイド。
三連複。
三連単。
着順違い。
組み合わせ違い。
一本だった線が。
蜘蛛の巣のように広がっていく。
一番――藤井が。
そのノートを覗き込んだ。
「……何だよ、これ」
「九百万円の使い道だ」
「九百万を全部賭けるのか?」
「違う」
木村はペンを止めた。
「九百万円を」
「一枚の馬券にするんじゃない」
一拍。
「数十枚の当たりに変える」
二人が黙った。
「軸は十三、十七、五」
「三頭のうち、一頭だけが来る場合」
「二頭が来る場合」
「三頭とも来る場合」
「全部を分けて買う」
「三連単は?」
山崎が訊く。
「全通り押さえる」
「六通り?」
「ああ」
「順番が読めない以上」
「一通りに賭ける理由がない」
木村は。
ノートを閉じた。
「金だけじゃない」
「……何?」
「人間もだ」
*
木村が考えたのは。
三人だけで馬券を買う計画ではなかった。
山崎が集めた。
競馬好きの知人。
日雇い仕事を転々としている男。
金に困っている元同僚。
小遣い欲しさに引き受けた競馬仲間。
誰一人として。
計画の全体像を知らない。
彼らが知っているのは。
ただ一つ。
指定された金で。
指定された買い目を。
指定された場所で買う。
買い終えたら。
決められた回収役へ渡す。
それだけだった。
一番が。
青ざめた。
「待てよ」
「何だ」
「そいつらに馬券を持たせるのか?」
「一時的にはな」
「馬鹿言うな!」
一番が立ち上がる。
「もし当たったらどうするんだよ!」
「何千万」
「下手すりゃ億になる馬券だぞ!」
「そんなもの持たせて逃げられたら――」
「当たってから回収するから逃げられる」
一番の言葉が止まった。
三番は。
静かに続けた。
「レースが始まる前に回収する」
「……え?」
「買わせる」
一本目の指を立てる。
「確認する」
二本目。
「回収する」
三本目。
「その時点では」
「ただの紙だ」
一番が黙った。
二番が。
ゆっくり笑った。
「なるほどな」
「購入役には、ほかの人間を見せない」
「買う場所も」
「時間も」
「回収場所も分ける」
三番は言った。
「俺たちが欲しいのは、人間じゃない」
ノートを指で叩く。
「手だ」
「手?」
「九百万円を三人で賭ければ」
「三人の動きになる」
一拍。
「十数人に分ければ」
「ただの客の群れになる」
二番の笑みが消えた。
一番も。
黙っている。
「これが」
木村は言った。
「波状攻撃だ」
*
十月下旬。
日曜日。
天皇賞(秋)当日。
東京。
神奈川。
埼玉。
大阪。
複数の場外馬券売り場。
インターネット投票は使わない。
口座の履歴が残る。
大量購入も避ける。
何も知らない購入役たちが。
人混みの中へ散っていった。
ある者は。
十三番の単勝。
ある者は。
十三と十七の馬連。
ある者は。
五、十三、十七の三連複。
そして。
一部には。
三頭の着順を入れ替えた。
六通りの三連単。
誰も。
自分以外の人間が。
何を買っているのか知らない。
誰も。
十三、十七、五という三頭が。
何を意味するのか知らない。
指定された通りに買う。
買ったら。
決められた回収役へ渡す。
それだけ。
九百万円。
その金が。
一枚の巨大な賭けではなく。
無数の小さな紙片へと。
姿を変えていった。
*
午後三時十五分。
一番は。
駅前の喫茶店で。
何度も腕時計を見ていた。
一人目。
「これでいいんだろ」
男が。
茶封筒を差し出す。
一番は中を見る。
馬券。
確認。
「いい」
代わりに。
報酬の入った封筒を渡す。
二人目。
三人目。
時間をずらして。
次々と馬券が集まってくる。
まだ。
それらに価値はない。
ただの紙だ。
だが。
あと二十分もすれば。
三頭が予定通り走れば。
この紙の束は。
人間の人生を狂わせる金に変わる。
一番の手が震えた。
「……何やってんだ、俺」
その時だった。
一人。
来ない。
一番は。
腕時計を見る。
三時十八分。
もう一度。
三時十九分。
「……遅い」
スマートフォンを取り出す。
連絡する。
出ない。
「おい……」
嫌な汗が。
背中を流れた。
もう一度。
出ない。
三度目。
ようやく繋がる。
『……もしもし』
「どこにいる!」
『近く』
「だったら早く来い!」
「馬券を渡せ!」
沈黙。
「聞いてんのか!」
『なあ』
男の声が。
変わっていた。
『これ、本当に代理購入か?』
一番の呼吸が止まる。
「何言ってんだ」
『さっき』
「……」
『知り合いから電話が来た』
一番の指が。
スマートフォンを強く握る。
『あいつも今日』
『知らない奴に金を渡されて、馬券を買ったらしい』
「それがどうした」
『場所は違う』
『金額も違う』
一拍。
『でも、買った馬は同じだ』
一番の顔から。
血の気が引いていく。
『十三』
『十七』
『五』
「……偶然だ」
『三頭とも同じで?』
「競馬なら、そんなこともある」
『あいつは三連複』
『俺は三連単』
「……」
『これ』
男が言った。
『当たるんじゃないのか?』
「馬券を渡せ」
『嫌だね』
「おい」
『当たったら』
一拍。
『俺の人生が変わる』
電話が切れた。
「おい!」
一番は叫ぶ。
「おい!」
切れている。
一番は震える指で。
別の番号を押した。
三番。
数回のコール。
『どうした』
木村の声だった。
「まずい」
『何が』
「一人」
「馬券を渡さない」
沈黙。
「知り合いと連絡を取った」
「同じ三頭を買わされてるって気づいた」
『……そうか』
「どうする!?」
『そいつはいくら持ってる』
一番が答える。
数秒。
木村は言った。
『切れ』
「……は?」
『そいつは捨てる』
「待てよ!」
一番が声を荒らげる。
「当たったら、何千万になると思ってる!」
『一番』
静かな声だった。
『一枚の馬券と』
「……」
『計画全部』
一拍。
『どっちが高い』
一番は。
何も言えなかった。
『追うな』
「でも――」
『追えば』
「……」
『お前が繋がる』
電話が切れた。
一番は。
喫茶店の片隅で。
立ち尽くした。
木村が。
最初から裏切りを予想していたのか。
それとも。
起きた瞬間に。
切り捨てたのか。
藤井には。
分からなかった。
ただ。
一つだけ分かった。
三番にとって。
人間の欲は。
怒るものでも。
嘆くものでもない。
計画を修正するための。
頭の中の小説の一行に過ぎない。
「……化け物かよ」
一番が。
呟いた。
*
午後三時三十分。
大半の馬券は。
回収された。
三番のノートに。
次々とチェックが入る。
回収。
回収。
回収。
一件だけ。
空白。
三番は。
その欄に一本の線を引いた。
消した。
それだけだった。
二番から。
連絡が入る。
『こっちは終わった』
一番からも。
『……終わった』
三番は時計を見る。
午後三時三十五分。
発売締切。
もう誰にも。
買い足すことはできない。
もう誰にも。
やり直すことはできない。
九百万円の大部分は。
すでに馬券へ変わった。
あとは。
走るだけだった。
*
午後三時四十分。
東京競馬場。
ファンファーレ。
数万人の歓声が。
地鳴りとなって響く。
一番は。
大型モニターを見上げていた。
二番も。
三番も。
別々の場所で。
同じ十八頭を見ていた。
ゲートイン。
十三番。
十七番。
五番。
三頭が。
ゲートの中へ消える。
一番の唇が震えた。
「頼む……」
何に祈っているのか。
自分でも分からない。
金か。
命か。
それとも。
すべてが嘘であってほしいのか。
最後の一頭が入る。
静寂。
次の瞬間。
ガシャン――!
一斉にゲートが開いた。
『各馬、一斉にスタート!』
歓声。
十八頭が。
芝を蹴る。
一番は。
息を止めた。
十三。
十七。
五。
三頭を探す。
いる。
走っている。
だが。
五番が。
後方へ下がっていた。
「おい……」
十三番は中団。
十七番は先頭集団。
五番は。
前が塞がれている。
『十七番、好位につけています!』
一番の喉が鳴る。
『十三番は中団外目!』
「五は」
画面を探す。
「五はどこだ」
実況の声が続く。
『五番、まだ後方!』
一番の手が。
カバンを強く握る。
木村の言葉が。
頭を過る。
馬は機械じゃない。
進路が塞がる。
落馬だってある。
仕込まれていても。
三頭が必ず来るとは限らない。
『第四コーナーを回って直線!』
歓声が爆発する。
『十七番、先頭!』
「来た……」
『外から十三番!』
「来た……!」
十七。
十三。
二頭が。
並ぶ。
だが。
五番がいない。
「五……!」
その時。
馬群の間から。
一頭が抜けた。
『五番!』
一番の身体が。
前へ出る。
『五番が内から伸びてくる!』
「来た……!」
十七。
十三。
五。
三頭が。
ゴール板へ迫る。
『十七番先頭!』
『十三番が差を詰める!』
『五番も来る!』
誰かが叫ぶ。
誰かが怒鳴る。
誰かが馬券を破る。
一番には。
何も聞こえなかった。
十七。
十三。
五。
それだけしか。
見えない。
三頭が。
ゴール板を駆け抜けた。
*
数分後。
確定。
掲示板に。
数字が灯る。
一着。
十七番。
二着。
十三番。
三着。
五番。
【17―13―5】
大河原が書いた順番とは。
違った。
だが。
三頭は。
すべて来た。
三連複。
的中。
馬連。
的中。
単勝。
複勝。
ワイド。
そして。
六通りに分けた三連単のうち。
一通りだけが。
当たっていた。
一番は。
笑わなかった。
喜びもしなかった。
ただ。
震えた。
自分達が集めた。
大量の紙切れが。
今。
二億円を超える価値を持った。
その瞬間だった。
*
同じ頃。
場外馬券売り場から。
少し離れた路地。
一人の男が。
震える手で。
一枚の馬券を見つめていた。
回収役へ。
渡さなかった馬券。
【三連複 5―13―17】
着順は違う。
だが。
三頭とも。
掲示板に載っている。
男は。
何度も馬券を見る。
「……マジかよ」
人生が変わる。
そう思った。
誰にも渡さない。
誰にも言わない。
換金したら。
仕事も辞める。
借金も返す。
遠くへ行く。
男の口元が。
ゆっくりと吊り上がった。
男は。
馬券を財布の奥へ押し込んだ。
そして。
人混みの中へ消えた。
自分が持ち逃げしたのが。
一枚の当たり馬券ではなく。
木村へ続く。
最初の糸だとも知らずに。




