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身代金は万馬券  作者: 大福


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2/15

第2話 四番

 「……今だ」


 木村の声だった。


 午後五時四十五分。


 秋の日は、すでに落ちかけていた。


 塾から図書館へ続く道。


 大河原 駆は、一人で歩いていた。


 小学五年生。


 名門私立小学校の制服。


 背中には、小綺麗なリュック。


 毎週木曜日。


 塾が終わってから迎えが来るまでの、わずかな時間。


 駆は一人になる。


 三人は。


 その瞬間を待っていた。


「……行くぞ」


 木村が動いた。


「え、ちょ、待っ――」


「遅れるな」


「分かってるよ!」


 山崎が続く。


 藤井だけが。


 一瞬。


 動けなかった。


 少年の背中。


 まだ小さい。


 本当に。


 ただの子供だった。


(俺たち)


 藤井の喉が鳴った。


(本当にやるのか?)


 その時。


 駆が振り返った。


 目が合った。


「――っ!」


「藤井!」


 山崎の声。


 身体が勝手に動いた。


 次の瞬間。


 藤井の手が。


 少年の口を塞いでいた。


「んっ――!」


 暴れる。


「ご、ごめ――」


「喋るな!」


 木村が少年の身体を押さえる。


 山崎が周囲を見る。


「早く! 早くしろって!」


 ほんの数十秒。


 だったはずだ。


 だが藤井には。


 何分にも感じられた。


 少年の口を塞ぐ。


 自分の手。


 その下で。


 必死に息をする。


 小さな身体。


(俺)


 藤井の指が震えた。


(今)


(子供を誘拐してる)


 その事実が。


 遅れて。


 身体の中へ入ってきた。


「乗せろ!」


 ドアが閉まる。


 車が走り出す。


 藤井は。


 少年から手を離した。


 自分の手を見る。


 震えていた。


「……俺」


「黙ってろ」


 木村が言った。


「でも」


「今は何も考えるな」


「俺たち」


 藤井の呼吸が速くなる。


「戻れないぞ」


 山崎が。


 運転席から怒鳴った。


「最初から分かってただろ!」


「分かってたのと、やるのは違うだろ!」


「うるさい!」


「お前が言い出したんだろ!」


「だから俺だって――」


「二人とも黙れ」


 木村の一言で。


 車内が静かになった。


 後部座席。


 目隠しをされた少年だけが。


 何も言わず。


 座っていた。


 泣いていない。


 暴れてもいない。


 そのことに。


 まだ誰も気づいていなかった。


     *


 郊外。


 古びた木造アパート。


 誰も使っていない一室。


 三人は少年を部屋へ入れた。


 カーテンを閉める。


 鍵をかける。


 少年を座らせる。


 藤井は。


 部屋の隅で。


 自分の手を見ていた。


「……まだ感触がある」


 山崎が振り返る。


「何?」


「口」


「は?」


「あの子の口を塞いだ」


 藤井は手を見る。


「まだ、ここに」


「今さら何言ってんだよ」


「今さらって何だよ!」


「始める前に覚悟しただろ!」


「覚悟って言えば何でもできると思うなよ!」


「じゃあ帰るか!?」


「帰れるわけないだろ!」


「なら――」


「静かにしろ」


 木村だった。


 二人が黙る。


 木村は。


 少年の前にしゃがんだ。


 目隠し。


 口元だけが塞がれている。


「……」


 木村が。


 ゆっくり。


 口を塞いでいたテープを剥がした。


 三人とも。


 身構えた。


 泣く。


 叫ぶ。


 助けて。


 パパ。


 そう言うと思っていた。


 少年は。


 しばらく何も言わなかった。


 そして。


「……遅いよ」


 山崎の眉が動いた。


「……は?」


 少年は。


 もう一度言った。


「遅い」


 声は。


 驚くほど落ち着いていた。


「もっと早く」


 一拍。


「さらってくれればよかったのに」


 藤井が。


 木村を見る。


 山崎を見る。


「……何だ、このガキ」


 少年が続けた。


「身代金」


「……」


「いくらにしたの?」


 山崎が固まる。


「一億?」


 少年の口元が。


 わずかに笑った。


「それとも三億?」


「お前」


 山崎が言った。


「何言ってんだ?」


「パパなら払えるよ」


 少し間があった。


「僕を助けたいならね」


 木村の目が。


 わずかに変わった。


「どういう意味だ」


 少年が。


 木村の声の方向へ顔を向ける。


「そのままの意味」


「父親はお前を助けない?」


「分からない」


「なぜだ」


「パパは」


 少年は。


 少し考えた。


「僕より大事なものが、いっぱいあるから」


 藤井の表情が曇る。


「……子供が」


 呟く。


「そんなこと言うなよ」


「本当だよ」


 駆は淡々としていた。


「選挙」


 一つ。


「地位」


 二つ。


「お金」


 三つ。


「秘密」


 最後だけ。


 声が少し低くなった。


 木村が反応した。


「秘密?」


「うん」


「どんな」


「知らない」


「嘘だな」


 即答だった。


 駆が黙る。


 山崎が木村を見る。


「何で分かるんだよ」


「知らない人間は、秘密とは言わない」


「……」


「何か知ってる」


 木村は。


 少年を見る。


「違うか」


 沈黙。


 やがて。


 駆が笑った。


「おじさん」


「何だ」


「頭いいね」


 山崎が鼻で笑う。


「こいつ、小説家だからな。全然売れてないけど」


 木村が。


 ゆっくり山崎を見た。


「余計なことを言うな」


「いや、それくらい別に――」


「俺たちは」


 木村の声が低くなる。


「こいつに情報を与える側じゃない」


 山崎が黙る。


 駆の口元は。


 まだ笑っていた。


「で?」


 駆が訊いた。


「本当はいくら欲しいの?」


 木村が答える。


「金はいらない」


 初めて。


 駆の笑みが止まった。


「……じゃあ何?」


「情報だ」


「何の?」


 木村は。


 少年の表情を見ながら言った。


「天皇賞」


 沈黙。


「秋」


 駆は動かない。


「お前の父親が知っている」


 さらに続ける。


「大穴の馬番」


 ほんの一瞬。


 駆の呼吸が。


 止まった。


 木村は。


 見逃さなかった。


「知ってるな」


「……知らない」


「今、反応した」


「競馬くらい知ってるよ」


「違う」


 木村が言った。


「天皇賞に反応したんじゃない」


 一拍。


「父親と馬番を繋げた瞬間だ」


 駆が。


 黙った。


 山崎が興奮して身を乗り出す。


「やっぱりだ!」


 藤井を見る。


「ほら! 俺の調べた通り――」


「おい藤井、木村、このガキ――」


 言葉が。


 止まった。


 部屋から。


 音が消えた。


 藤井の顔から。


 血の気が引いた。


 木村が。


 ゆっくり。


 山崎を見る。


「……今」


 低い声。


「何て言った」


「いや」


 山崎の顔が引き攣る。


「違う、その」


「名前だ」


「……」


「俺たちの」


 藤井が立ち上がった。


「お前……!」


「悪かったって!」


「悪かったで済むかよ!」


「口が滑ったんだよ!」


「誘拐で口滑らせて本名言う奴があるか!」


「うるさいな! 俺だって緊張して――」


「藤井さん」


 少年の声。


 全員。


 止まった。


「木村さん」


 藤井の唇が震える。


 駆は。


 目隠しされたまま。


 笑っていた。


「藤井さん」


「木村さん」


 そして。


 少し考える。


「じゃあ」


 声の方向。


 山崎へ顔を向ける。


「あなたが山崎さん?」


 山崎の顔が。


 完全に固まった。


「……何で」


「二人の名前は呼んだのに」


 駆が言う。


「自分の名前だけ呼ばなかったから」


 沈黙。


「三人で来てるなら」


 笑う。


「残った人が山崎さんでしょ?」


 山崎は。


 何も言えなかった。


 木村が。


 少年を見つめる。


「今から名前は禁止だ」


 藤井を見る。


「お前が一番」


 山崎を見る。


「お前が二番」


 自分を指す。


「俺が三番」


「……分かった」


 藤井が答える。


 山崎も。


「……ああ」


 その時。


 駆が言った。


「じゃあ僕は?」


 三人が。


 少年を見る。


「僕だけ名前で呼ぶの?」


 誰も答えない。


「不公平じゃない?」


 木村が。


 ほんの少し。


 眉を動かした。


 駆は。


 楽しそうに言った。


「四番でいいよ」


 藤井の顔が引き攣る。


「……お前」


 駆は。


 目隠しされたまま笑った。


「今日から僕も仲間なんでしょ?」


「違う」


 藤井が即答した。


「お前は人質だ」


「そうかな」


「そうだよ!」


「じゃあ」


 駆が言った。


「教えてあげない」


「何を」


 木村が訊く。


 駆は。


 少し間を置いた。


「パパの弱点」


 空気が変わった。


 木村が。


 少年の前へ座り直す。


「話せ」


「その前に」


「何だ」


「一つ教えて」


「……」


「僕を使って」


 駆が訊いた。


「パパに馬番を言わせるつもりだったの?」


「ああ」


「どうやって」


「息子の命が惜しければ教えろ」


 駆は。


 数秒黙った。


 そして。


 笑った。


「それじゃ無理だよ」


 山崎が身を乗り出す。


「何でだよ!」


「パパ」


 一拍。


「僕を捨てるから」


 藤井が。


 何も言えなくなる。


 木村だけが。


 少年を見ていた。


「実の息子だぞ」


「だから?」


 その一言に。


 木村の目が細くなった。


「詳しく話せ」


「パパはね」


 駆が言う。


「自分が一番大事なの」


「……」


「僕が死ぬのは困る」


「なら――」


「でも」


 駆が遮る。


「自分が全部失うよりは」


 一拍。


「僕が死ぬ方を選ぶ」


 藤井が。


 思わず目を逸らした。


 山崎も。


 さっきまでの勢いを失っている。


 木村だけが訊いた。


「なら」


「……」


「何を失うことを一番恐れている」


 駆は。


 すぐには答えなかった。


「パパが怖がってる人たち」


「誰だ」


「知らない」


「嘘だ」


「名前は知らない」


 駆は言った。


「でも」


「……」


「怖い人たちと電話した後だけ」


 少し間。


「パパ、僕に優しくなるんだ」


 木村が黙る。


「普段は?」


「僕を見ない」


「電話の後は?」


「僕を見る」


「なぜだと思う」


「怖いんじゃない?」


「何が」


「全部なくなるのが」


 木村の頭の中で。


 何かが繋がった。


「……双葉会」


 山崎が呟いた。


 木村が見る。


「大河原が一番恐れているのは」


 山崎は声を落とす。


「警察でも選挙でもない」


「自分が裏切ったと」


 木村が続ける。


「双葉会に疑われること」


 藤井が二人を見る。


「待て」


 嫌な予感。


「お前ら、何考えてる」


 木村は答えない。


 テーブルへ向かう。


 ノートパソコンを開く。


『タタタ、タン』


 キーを叩く。


『タタタタ、タン』


 駆が。


 その音に顔を向ける。


「何してるの?」


「書き直してる」


「何を?」


「筋書きだ」


 木村の指が動く。


「息子の命では動かない」


 キーを叩く。


「なら」


 さらに。


「自分の命を賭けさせる」


 藤井が。


 木村の後ろから画面を見る。


「……おい」


 山崎も。


 黙った。


 木村が作ったのは。


 単なる身代金要求ではなかった。


 大河原が八百長に関与していることを示す資料。


 その一部を。


 大河原と敵対する勢力へ渡す。


 そう思わせる。


 もし情報が外へ出れば。


 双葉会は。


 誰が漏らしたのかを疑う。


 最初に疑われるのは。


 大河原。


「これを」


 木村が言った。


「大河原に見せる」


 藤井の顔が青ざめる。


「息子を殺すぞ、じゃない」


「……」


「秘密を外へ出すぞ」


 山崎が。


 ゆっくり笑った。


「そうか」


「大河原は選ばされる」


 木村が言う。


「馬番を吐くか」


 一拍。


「自分が双葉会に裏切り者だと思われるか」


 部屋の隅から。


 駆の声。


「それなら」


 全員が見る。


「パパは喋るよ」


 木村が訊く。


「確実か」


「ううん」


「……」


「でも」


 駆が笑った。


「さっきのより、ずっと怖がる」


 木村は。


 画面を見る。


 文章を直す。


 また。


 キーを叩く。


『タタタ、タン』


『タタタタ、タン』


 駆が。


 その音を聞いている。


「おじさん」


「何だ」


「変な打ち方するね」


 木村の指が。


 一瞬止まる。


「癖だ」


「覚えた」


「……」


「タタタ、タン」


 駆が真似する。


「タタタタ、タン」


 木村は。


 何も答えなかった。


 再び。


 キーを叩く。


 やがて。


 一通の文章が完成した。


 木村は画面を見つめたまま、静かに読み上げた。


「――息子は預かった」


 藤井と山崎が黙って聞く。


「金は要求しない。要求は一つ。次の天皇賞(秋)、お前が知っている情報を渡せ」


 木村の声だけが。


 暗い部屋に響く。


「拒否すれば、こちらが持つ資料は、お前が最も渡されたくない相手へ渡る」


 読み終える。


 沈黙。


 木村は。


 目隠しされた駆へ顔を向けた。


「四番」


「何?」


「今の脅しなら」


 一拍。


「お前の父親は動くか」


 駆は。


 少し考えた。


「……うん」


「確実か?」


「分からない」


 駆の口元が。


 わずかに笑った。


「でも」


「……」


「パパは絶対に怖がるよ」


「なぜだ」


「だって」


 一拍。


「僕が死ぬより」


 駆は。


 何でもないことのように言った。


「自分が殺される方が怖い人だから」


 誰も。


 何も言わなかった。


 藤井は。


 目隠しされた少年を見た。


 まだ小学五年生。


 自分の父親を。


 そういう人間だと知っている。


 木村は。


 再び画面へ目を戻した。


 送信ボタンの上に。


 指を置く。


「じゃあ」


 一拍。


「始めるか」


 クリック。


 ――送信。


     *


 同時刻。


 都内。


 大河原隆一のスマートフォンが。


 短く震えた。


 大河原は。


 画面を見る。


 最初の一行。


 ――息子は預かった。


 眉一つ。


 動かさなかった。


 そのまま。


 続きを読む。


 金は要求しない。


 要求は一つ。


 次の天皇賞(秋)。


 お前が知っている情報を渡せ。


 大河原の目が。


 止まった。


 さらに。


 続きを読む。


 拒否すれば。


 こちらが持つ資料は。


 お前が最も渡されたくない相手へ渡る。


「……誰だ」


 声が。


 掠れた。


 スマートフォンを持つ指が。


 震え始める。


 息子が誘拐されたと知った時でさえ。


 取り乱さなかった男が。


 そのメールを読んだ瞬間。


 初めて。


 震えた。

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