第1話 大穴の誘い
身代金は、万馬券だった。
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第1章 大穴の誘い
新橋の路地裏。
焼き鳥の煙と安酒の匂いが染みついた大衆居酒屋の片隅で、山崎は一人、生ビールを煽っていた。
新橋の路地裏。
焼き鳥の煙と安酒の匂いが染みついた大衆居酒屋の片隅で、山崎は一人、生ビールをあおっていた。
三杯目。
普段なら二杯目を飲み終えた時点で一番安い焼酎へ切り替える男が、今日は値段すら気にしていない。
「……いやぁ」
空になったジョッキを置く。
一人で笑う。
また笑う。
気味の悪い笑みだった。
テーブルの下では、山崎の膝の上に茶封筒が載っている。
何度も封を押さえ、何度も叩き、まるで宝物でも抱えているようだった。
「あるんだなぁ……こんな話」
「アイツは何て言うかなぁ…」
誰に聞かせるでもなく呟く。
笑いが止まらない。
「何が?」
「うわっ!」
突然かけられた声に、山崎は肩を大きく跳ねさせた。
「お前、いつからいたんだよ」
「今だよ」
「声かけろよ」
「かけた」
藤井は呆れたように椅子を引く。
「三回」
「……嘘だろ」
「本当だよ。気持ち悪い顔で一人ニヤニヤしてるから、帰ろうかと思った」
藤井は五十二歳。
二十七年間勤めた会社を、数日前にリストラされたばかりだった。
スーツ姿のままだが、緩んだネクタイと目の下の濃い隈が、肩書きを失った現実を物語っている。
「本当に奢るんだろうな」
メニューを開きながら藤井が言う。
「奢る奢る」
「後から割り勘とか言うなよ」
「言わないって」
「前にも言った」
「あれは事情があってさ」
「財布忘れただけだろ」
「だから、それが事情なんだよ」
「……帰ろうかな」
「待てって」
その時だった。
向かいの椅子が静かに引かれる。
「時間通りだ」
木村だった。
古びたコートに無精髭。
痩せた身体を椅子へ沈めると、注文もせず静かに腰を下ろした。
「遅いよ、木村」
「時間通りだ」
「普通こういうのは五分前に──」
「何を見つけた」
山崎の言葉が止まる。
藤井が二人を見比べた。
「……何?」
木村の視線は山崎ではなく、その膝の上の茶封筒へ向いていた。
「さっきから、それを抱えている」
「いや……」
「トイレにも持って行った」
山崎は何も言わない。
「金じゃない」
木村が言った。
「金なら、お前はもっと嬉しそうな顔をする」
「……」
「誰かの秘密か」
山崎の口元がゆっくり緩む。
「お前さぁ」
身を乗り出す。
「そういうところ、本当に気持ち悪いよな」
「お前に言われたくない」
「褒めてるんだよ」
「そうか」
「否定しろよ」
「早く話せ」
藤井が眉間を押さえた。
「俺、帰っていい?」
「ダメ」
「なんでだよ」
「お前にも関係ある」
「絶対ない」
「ある」
「嫌な予感しかしない」
山崎は急に真顔になった。
「藤井」
「何だよ」
「今、貯金いくらある?」
「帰る」
藤井は立ち上がる。
「待て待て待て!」
「飲みに来て、いきなり貯金額を聞く奴があるか!」
「違うんだって!」
「何が違う!」
「人生の話!」
「もっと嫌だ!」
山崎は慌てて藤井の袖を掴んだ。
「三百万くらいあるだろ」
藤井の動きが止まる。
「……何で知ってる」
「退職金」
藤井はゆっくり山崎を見た。
「お前」
一拍置いて言う。
「殺すぞ」
「だから最後まで聞けって!」
山崎は藤井を無理やり座らせた。
木村は何も言わず、運ばれてきたビールを一口飲む。
「木村、お前も止めろよ」
「話を聞いてからでいい」
「お前までそっち側か」
「まだどっち側でもない」
「その言い方が一番怖いんだよ」
山崎は膝の上の茶封筒をゆっくりとテーブルへ置いた。
「じゃあ」
一拍置く。
「始めるぞ」
封を開き、中から一枚の紙を取り出す。
選挙ポスターだった。
爽やかな笑顔を浮かべる男。
その下には、大きく書かれた標語。
『クリーンな政治を、次の世代へ』
名前は、大河原隆一。
四期目を目指す衆議院議員だった。
木村がポスターを見つめる。
「胡散臭いな」
「ポスターだけで決めるなよ」
「お前が持ってきたんだろ」
「あ、そうだった」
藤井が苛立ったように手を振る。
「いいから早く本題を話せ」
山崎は笑みを消した。
人差し指で、大河原の写真を軽く叩く。
「こいつ」
声を落とす。
「ヤクザと繋がってる」
藤井は思わず周囲を見回した。
「……おい、声」
「小さいだろ」
「もっと小さくしろ」
「それじゃ聞こえないだろ」
「俺たちだけ聞こえればいいんだよ!」
木村が静かに口を開く。
「どこだ」
「双葉会」
その名を聞いた瞬間、藤井の表情が強張った。
指定暴力団。
ニュースで何度も耳にした名前だった。
「主なシノギの一つが裏カジノ」
山崎は資料を一枚ずつ並べていく。
「大河原が警察や行政に顔を利かせて、その営業を裏から守ってるって噂がある」
「噂だろ」
木村が言う。
「そう」
「証拠は」
「ない」
「なら終わりだ」
「だから待てって!」
山崎は新しい資料を広げた。
「俺も最初はそう思った」
テーブルに三枚の紙を並べる。
「これが大河原の過去三回の選挙日程」
続いて競馬の払戻データ。
「こっちは天皇賞(秋)の結果」
藤井が眉をひそめる。
「競馬?」
「まあ見ろって」
山崎は資料の上を指でなぞった。
「二回目の選挙」
トン。
「その直前の天皇賞」
トン。
「とんでもない大穴が来てる」
さらに次の資料へ。
「三回目の選挙」
トン。
「その直前も大穴」
藤井は腕を組んだ。
「偶然じゃないのか」
「俺もそう思った」
山崎は嬉しそうに頷く。
「だから調べた」
さらに一枚。
政治献金の一覧だった。
個人名と金額がびっしり並んでいる。
「大穴が出た直後」
日付を指差す。
「大河原の政治団体への個人献金が急に増えてる」
木村は資料を手に取り、黙って目を通した。
「この名前は」
「何人か調べた」
「どうやって」
「住所、勤務先、登記。追える範囲だけ」
「結果は」
山崎は少し身を乗り出した。
「何人かが双葉会のフロント企業と繋がった」
藤井の動きが止まる。
木村は資料から目を離さない。
「仮説は」
「待ってました」
山崎はニヤリと笑った。
「双葉会がレースを仕込む」
一拍。
「大河原は裏カジノを守る」
「見返りに」
木村が続ける。
「レース情報を得る」
「そう」
「利益を政治資金へ流す」
「そう!」
山崎は思わずテーブルを叩きかけ、
藤井に睨まれ、
慌てて手を引っ込めた。
「……そう」
木村は静かに言う。
「だが証拠にはならない」
「分かってる」
「偶然でも説明できる」
「それも分かってる」
「なら」
木村が顔を上げる。
「これをどうする」
山崎は一枚の競馬新聞を取り出した。
大きく書かれた見出し。
――天皇賞(秋)。
「来月」
新聞を指で叩く。
「また天皇賞がある」
続いて、もう一枚。
大河原の選挙日程。
「そして」
トン。
「また選挙がある」
藤井は嫌な予感しかしなかった。
「……まさか」
「四回目だ」
山崎は静かに笑う。
「もし俺の仮説が正しいなら」
競馬新聞を指差す。
「また大穴が来る」
「だから?」
「乗る」
「何に」
「八百長に」
藤井は数秒黙ったままだった。
「……誰が」
「俺たち」
「何で」
「人生を変えるため」
藤井は立ち上がった。
「帰る」
「待てって!」
「待つか!」
「大穴が分かれば億だぞ!」
「どうやって分かる!」
「聞く」
「誰に!」
「大河原」
「どうやって!」
山崎は答えなかった。
茶封筒の底へゆっくり手を入れる。
残っていた一枚の写真を指先でつまみ上げた。
何も言わず、テーブルの中央へ置く。
藤井の表情が消えた。
小学五年生。
名門私立小学校の制服。
ランドセルを背負い、どこか退屈そうに前を歩いている。
カメラには気付いていない。
山崎が静かに言う。
「大河原駆」
一拍置く。
「大河原隆一の、一人息子だ」
「……おい」
藤井の声が変わった。
山崎は少年の写真を人差し指で押さえた。
「こいつをさらう」
藤井は固まった。
「……何?」
「誘拐する」
店の喧騒だけが耳に入る。
「それで大河原に――」
「お前」
藤井は勢いよく立ち上がった。
「ふざけんなよ」
「声」
「ふざけんな!」
近くの客が一斉に振り返る。
木村は無言で藤井の袖を軽く引いた。
「座れ」
「聞いたか!?」
「聞いた」
「誘拐だぞ!」
「ああ」
「子供だぞ!」
「分かってる」
「何でそんなに冷静なんだよ!」
「冷静じゃない」
木村は藤井を見た。
「だから続きを聞く」
藤井は木村を見つめたまま、ゆっくりと腰を下ろした。
「……狂ってる」
「そうかもしれない」
山崎は静かに答えた。
「でも最後まで聞いてくれ」
少年の写真。
その隣へ競馬新聞を並べる。
「普通の誘拐犯は金を要求する」
「当たり前だ」
「現金を用意させる」
「……」
「受け渡し場所を指定する」
「……」
「警察が張る」
「……」
「捕まる」
山崎は一人で頷いた。
「だから、そのやり方はしない」
藤井は黙ったまま山崎を見る。
「俺たちが欲しいのは金じゃない」
競馬新聞を指差す。
「情報だ」
一拍。
「息子の命が惜しいなら」
少年の写真を叩く。
「次の天皇賞で来る」
競馬新聞へ指を移す。
「大穴の馬番を教えろ」
沈黙が落ちた。
さっきまで騒がしかった店内が、妙に遠く感じられる。
藤井は山崎を見る。
木村を見る。
そして、もう一度写真へ視線を落とした。
「……お前」
ようやく口を開く。
「本気なのか」
「ああ」
山崎は一度も笑わなかった。
木村は初めて少年の写真を手に取る。
数秒。
黙ったまま見つめる。
「面白い」
藤井が目を見開いた。
「はぁ!?」
「計画じゃない」
木村は写真をテーブルへ戻した。
「要求そのものが面白い」
「要求?」
「身代金が現金じゃない」
一拍。
「馬番だ」
山崎が小さく笑う。
「そういうこと」
「だが」
木村の声は変わらない。
「穴だらけだ」
山崎の笑みが消えた。
「……どこが」
「馬番を聞き出した後」
「うん」
「どう買う」
「普通に馬券を――」
「いくら」
「あるだけ」
「一つの買い目に?」
山崎は黙った。
「不自然な資金が一気に動けば」
木村は競馬新聞を指で押さえた。
「仕掛けた側も気付く」
一拍。
「レースが始まる前に」
山崎を見る。
「俺たちが消される」
藤井は即座に言った。
「ほら見ろ!」
山崎を指差す。
「終わりだ! 解散!」
「待て」
木村が言った。
藤井は思わず振り返る。
「……何でだよ」
「方法はある」
「あるのかよ」
木村は紙ナプキンを一枚引き寄せた。
ボールペンを取り、
さらさらと書き始める。
単勝。
馬連。
三連複。
三連単。
「一点に集中させない」
山崎が身を乗り出した。
「分散か」
「券種も」
さらに書く。
「買い目も」
「なるほど」
「購入場所も分ける」
ペンが止まる。
「三人が別々に動く」
山崎は思わず笑った。
「お前、やっぱ頭いいな」
「ただし」
木村は顔を上げた。
「絶対はない」
「八百長でも?」
「競馬だ」
一拍。
「馬は台本を読まない」
山崎は吹き出した。
「お前さ」
「何だ」
「ちょっと楽しんでるだろ」
「違う」
「絶対楽しんでる」
「先を考えているだけだ」
藤井は二人を交互に見た。
「待ってくれ」
二人が視線を向ける。
「今」
木村を見る。
「先を考えてるって言ったよな」
「ああ」
「やる前提なのか?」
「まだ違う」
「まだって何だよ!」
木村は紙ナプキンに大きく数字を書いた。
900
「軍資金」
藤井の表情が固まる。
「……何だこれ」
「九百万」
「それくらい分かる!」
「一人三百万」
藤井は言葉を失った。
退職金。
二十七年間働き続けて、ようやく手にした金額。
その数字が頭を離れなかった。
「……俺の」
藤井の声がかすれる。
「退職金だ」
「だいたい、そのくらいだろ」
山崎はあっさりと言った。
藤井はゆっくりと山崎を見た。
「何で知ってるんだよ」
「さっき聞いただろ」
「聞いたんじゃない」
藤井は首を振る。
「言い当てたんだよ」
「細かいな」
「細かくねえよ!」
山崎は肩をすくめた。
「俺は借りる」
「……は?」
「三百万」
「誰が貸すんだよ、お前に」
「探す」
「今から?」
「ああ」
「返せなかったら?」
山崎は少しだけ笑った。
「その時は」
一拍。
「その時考える」
藤井はしばらく山崎を見つめていた。
怒りとも呆れとも違う。
理解できないものを見る目だった。
「……お前」
「何だよ」
「本当に」
藤井は小さく呟く。
「何も残ってないんだな」
その言葉に、山崎の表情が一瞬だけ止まった。
だが、それもほんの一瞬だった。
すぐに、いつもの飄々とした笑みに戻る。
「だから賭けるんだろ」
山崎は木村へ視線を向けた。
「お前はどうする」
木村は答えなかった。
少年の写真。
競馬新聞。
そして「900」と書かれた紙ナプキン。
三つを順番に見つめる。
「ここ数年」
木村が静かに口を開く。
「一文字も書けない」
藤井は黙って聞いていた。
「何を書いても」
紙ナプキンを指でなぞる。
「先が見える」
山崎を見る。
「主人公が何をして」
藤井を見る。
「どこで失敗して」
最後に少年の写真へ視線を落とす。
「どう終わるか」
店内の喧騒だけが流れる。
「全部分かる」
木村は小さく息を吐いた。
「でも」
一拍。
「これは分からない」
山崎の口元がゆっくりと緩む。
「だろ?」
木村は山崎を見た。
「一つだけ条件がある」
「何だ」
「子供には手を出さない」
山崎の笑みが消える。
「殴らない」
「ああ」
「脅し過ぎない」
「ああ」
「傷一つ付けない」
「ああ」
「終わったら必ず帰す」
「約束する」
木村は数秒、山崎の目を見つめた。
やがて小さく頷く。
「それなら考える」
山崎は安堵したように息を吐いた。
木村は今度は藤井へ視線を向ける。
藤井は両手を強く握り締めていた。
指先が白くなるほど力が入っている。
「俺を見るな」
木村は何も言わない。
「見るなって」
「決めるのは、お前だ」
「分かってるよ!」
藤井は俯いた。
三百万。
退職金。
二十七年間働いて、会社が最後に渡した金。
これを守って仕事を探せば、しばらくは生きていける。
だが、その先はどうなる。
五十を過ぎた男を、今までと同じ条件で雇う会社がどれだけある。
「……九百万」
藤井は呟いた。
山崎を見る。
「本当に」
唾を飲み込む。
「人生、変わるのか」
山崎は少しだけ考えた。
「知らない」
藤井は思わず苦笑した。
「お前な……」
「でも」
山崎は少年の写真を指で軽く叩く。
「今のままなら」
一拍。
「何も変わらない」
藤井は長い間、何も言わなかった。
やがて店員へ手を挙げる。
「……ビール」
「生三つですね」
一瞬だけ迷い、
「ああ」
ほどなくして、三つのジョッキが運ばれてきた。
誰も乾杯はしない。
三人とも黙ったままジョッキを口へ運ぶ。
テーブルの中央には、一枚の写真。
小学五年生。
大河原駆。
まだ誰も、この少年の人生を変える決断を下したとは口にしていない。
それでも。
三人の視線は、誰一人としてその写真から離れなかった。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。
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