第14話 手紙
議員会館を後にした設楽は、その足で大河原邸へ向かった。
インターホンを押す。
しばらくして、駆が玄関から顔を出した。
「設楽さん!」
その笑顔に、設楽は胸が締め付けられた。
「こんばんは、駆様。」
駆は嬉しそうに門を開ける。
「入って。」
「お父さん、まだ帰ってないよ。」
「そうですか。」
「今日は、駆様に会いに来ました。」
二人は居間で向かい合って座った。
学校の話。
友達の話。
好きな野球選手の話。
事件の話は、一度もしなかった。
設楽は、その何気ない時間を噛み締めるように過ごした。
やがて時計を見る。
「そろそろ失礼します。」
玄関で靴を履く。
「設楽さん。」
設楽は振り返る。
駆は少し不安そうな表情で設楽を見つめていた。
「……何かあった?」
設楽は一瞬だけ言葉を失う。
すぐに笑顔を作った。
「いいえ。」
「何もありませんよ。」
駆は黙ったまま設楽を見つめる。
やがて小さく頷くと、自分の部屋へ駆けていった。
「駆様?」
しばらくして戻ってきた駆は、一通の封筒を差し出した。
「これ。」
設楽は首を傾げる。
「これは?」
「三番が。」
設楽の表情が止まる。
「設楽さんが無理してそうだったら、渡してくれって。」
静かな沈黙が流れた。
設楽は震える手で封筒を受け取る。
表には、自分の名前だけが書かれていた。
設楽はしばらくその文字を見つめる。
「……木村さん。」
小さく呟き、封筒を胸ポケットへしまった。
「ありがとう、駆様。」
「また来る?」
設楽は駆の顔を見つめる。
優しく微笑み、ゆっくり頷いた。
「ええ。」
「必ず。」
設楽は深く一礼し、玄関を後にした。
門を出たところで一度だけ振り返る。
玄関先では、駆がいつまでも手を振っていた。
設楽も静かに手を上げる。
「……申し訳ありません、駆様。」
その言葉は、誰にも届かなかった。
設楽は胸ポケットの封筒にそっと触れ、静かに夜の街へ歩き出した。
*
設楽は自宅へ戻った。
玄関を開ける。
二十五年。
仕事だけを優先して生きてきた部屋だった。
スーツ。
本棚。
書類。
思い出らしい思い出は、ほとんど残っていない。
静かに段ボールを広げる。
必要な物だけを詰めていく。
アルバム。
万年筆。
数冊の本。
後は全て処分することにした。
作業を終えると、机へ向かう。
白い便箋を取り出す。
ゆっくりと万年筆を走らせた。
『全ての責任は私にあります。』
『関係者の皆様に多大なるご迷惑をお掛けしましたことを深くお詫び申し上げます。』
『設楽』
便箋を封筒へ入れる。
机の上へ静かに置いた。
設楽は最後に部屋を見回す。
「これで終わりだ。」
電気を消し、部屋を後にした。
*
深夜。
設楽の車は、自殺の名所として知られる崖へ止まった。
エンジンを切る。
静寂だけが辺りを包んでいる。
車を降りる。
崖の手前まで歩き、靴を脱いだ。
ポケットから煙草を取り出す。
火をつける。
ゆっくり煙を吐き出した。
「先生……。」
最後に思い浮かんだのは、大河原の顔だった。
煙草を吸い終え、吸い殻を携帯灰皿へしまう。
コートのポケットへ手を入れる。
指先が封筒に触れた。
駆から受け取ったものだった。
表には、ただ一行。
『設楽さんへ』
静かに封を切る。
『この手紙を読んでいるということは、私の予想どおりになったのでしょう。』
設楽は息を止めた。
『大河原議員は、貴方を切り捨てました。』
『ですが、それは貴方が責任を負うべき事件ではありません。』
『貴方が死ぬ理由もありません。』
設楽は目を閉じた。
『もし逃げる覚悟があるなら、潜伏先を用意しています。』
『住所は同封しました。』
『誰にも知られず生活できるよう、当面の資金も置いてあります。』
『もし私が捕まれば、駆は本当に一人になります。』
『設楽さんが捕まれば、駆も施設へ入ることになるでしょう。』
『せめて、駆が高校を卒業するまでは支えてあげてください。』
『その先は、貴方の判断に任せます。』
設楽は手紙を閉じた。
長い沈黙。
崖の下から風が吹き上がる。
「……木村さん。」
苦く笑う。
「最後まで、敵いませんね。」
足元の靴を見る。
ゆっくりと拾い上げ、履き直した。
車へ戻る。
財布や時計などの私物を車内へ残す。
遺書は助手席へ置いたままにした。
最後に車を見つめる。
「これで、私は死んだことになる。」
設楽は踵を返す。
歩き出す。
向かう先は崖ではない。
最寄り駅だった。
*
設楽は、木村から渡された住所へ辿り着いた。
地方都市の外れ。
人通りも少なく、駅前を離れると街灯もまばらになる。
夜になれば、人の気配はほとんど消える。
古びた二階建てアパート。
設楽は木村の手紙を取り出した。
『住所は下記のとおりです。
アパートの郵便受けに鍵を入れてあります。
鍵には部屋番号を付けてありますので、そのまま部屋へ入ってください。』
設楽は郵便受けを開けた。
中には一本の鍵。
キーホルダーには、
『203』
と記されていた。
設楽は静かに二階へ上がる。
二〇三号室。
鍵を差し込み、ゆっくり回した。
静かな音を立てて扉が開く。
室内は質素だった。
家具は最低限しか置かれていない。
設楽は部屋へ入り、照明のスイッチを押した。
蛍光灯が静かに灯る。
蛇口をひねる。
水が流れる。
ガスの元栓を開き、コンロへ火を点ける。
青い炎が静かに揺れた。
「……ここまで。」
思わず小さく呟く。
奥の部屋の扉へ歩く。
ドアノブに手を掛ける。
ゆっくり開いた。
その瞬間、設楽は息を呑んだ。
部屋いっぱいに、新品のスーツケースが整然と積み上げられていた。
「これは……。」
その中央の机に、一通の封筒が置かれている。
表には、
『設楽さんへ』
設楽は静かに封を切った。
設楽さんへ
生きることを決めたのですね。
安心しました。
今回の計画には、どうしても一人足りない人間がいました。
長期間この部屋に留まり、人目を避けて生活できること。
余計な人間関係を作らないこと。
口が堅く、決して裏切らないこと。
そう――逃亡者のような人物です。
私には、その役目を任せられる人間は設楽さんしか思い浮かびませんでした。
世間は、そのうち貴方のことを忘れます。
それまでは、この部屋で身を隠しながら、私の手伝いをしてください。
明日から、この部屋へ荷物が届きます。
荷物の中身をスーツケースへ詰め替え、机の引き出しにある送り状を貼り付け、そのまま発送してください。
送り先は、すべて印字済みです。
報酬として、荷物の三分の一を差し上げます。
そして――。
駆は、きっと貴方を訪ねて来るでしょう。
その時は、どうか支えてあげてください。
貴方はもう、大河原議員のために生きる必要はありません。
これからは、駆のために生きてください。
それが、私から貴方への最後のお願いです。
設楽は手紙を閉じる。
ゆっくり机の引き出しを開けた。
送り状が束になって入っている。
宛先は見慣れない外国語。
差出人は空欄だった。
「……木村さん。」
「最後まで敵いませんね。」
*
翌朝。
インターホンが鳴る。
「お届け物です。」
設楽は受領印を押し、段ボールを部屋へ運んだ。
箱を開ける。
中には帯封の付いた現金が、隙間なく詰められていた。
設楽は目を閉じる。
ゆっくり現金を取り出し、スーツケースへ移し替えていく。
蓋を閉める。
送り状を貼る。
発送する。
翌日も。
その翌日も。
荷物は届き続けた。
設楽は何も聞かず。
何も語らず。
ただ黙って送り続けた。
それが木村との約束だった。
*
一方、その頃
大河原への追及は日を追うごとに激しさを増していた。
朝から議員会館には報道陣が詰めかける。
「大河原議員!」
「違法献金疑惑について説明をお願いします!」
「設楽秘書へ全ての責任を押し付けたとの報道がありますが!」
「設楽氏は現在どちらにいるんですか!」
無数のマイクが突き付けられる。
フラッシュが止まらない。
大河原は一度だけ立ち止まった。
「……捜査中の案件です。」
「コメントは差し控えます。」
それだけ言い残し、議員会館へ入っていった。
翌日の新聞。
『大河原議員 疑惑にノーコメント』
『秘書失踪 責任転嫁か』
テレビでは連日、同じ映像が流れ続ける。
「秘書一人で数億円もの資金が動くとは考えにくいですね。」
「説明責任を果たしているとは言えません。」
「設楽氏が姿を消したことで、かえって疑惑は深まっています。」
野党は国会で集中審議を要求した。
「秘書だけに責任を押し付けて済む問題ではありません!」
「国民は納得していません!」
与党内からも距離を置く議員が現れ始める。
後援会は次々と離反。
企業献金も止まった。
支持率は急落する。
大河原は記者会見を開いた。
「私は一切関与しておりません。」
「資金管理は秘書へ一任しておりました。」
だが、その言葉を信じる者は、もうほとんどいなかった。
数日後。
党本部は大河原へ離党を勧告する。
受け入れるしかなかった。
さらに世論は収まらない。
国会では辞職を求める決議案まで提出される。
議員としての職責を果たせない。
そう判断した大河原は、ついに辞職願を提出した。
テレビ速報が流れる。
『大河原議員 辞職』
『違法献金疑惑 事実上の引責辞任』
長年築き上げた政治生命は、その日、静かに幕を閉じた。




