第10話 崩壊
午後四時。
最後の払戻窓口のシャッターが、ゆっくりと降り始めた。
ガラガラガラ――。
場内放送が流れる。
『本日の払戻業務は終了いたしました。ご利用ありがとうございました。』
黒田は、その音を無言で聞いていた。
「……報告。」
無線が鳴る。
『東側、該当者なし。』
『二階払戻所、異常なし。』
『西側も空振りです。』
『こちら北口、全員シロです。』
一人。
また一人。
報告だけが積み重なる。
黒田は静かに目を閉じた。
「……全員、引き上げろ。」
『了解。』
『了解。』
無線が静まる。
車内に重い沈黙が落ちた。
黒田はフロントガラスの向こうを見つめる。
換金を終えた客たちが帰っていく。
笑う者。
肩を落とす者。
レースを振り返る者。
その全員が、黒田には怪しく見えた。
「……場外を流すぞ。」
黒いワゴンがゆっくりと走り出す。
一方、その頃。
山崎のスマートフォンが震えた。
最後の換金完了メールだった。
山崎は画面を見つめ、大きく息を吐く。
「……終わった。」
肩の力が抜ける。
張り詰めていた緊張が、一気にほどけた。
すぐに藤井へ電話を掛ける。
「もしもし!」
『終わったか?』
「ああ! 全部終わった!」
思わず笑みがこぼれる。
「信じられねぇ……全部当たった!」
『ああ。計画通りだ。』
その一言だった。
黒田の耳が止まる。
周囲から聞こえてくる競馬談義とは、明らかに空気が違った。
黒田はゆっくりと視線を巡らせる。
人混みの中。
電話をしている山崎を捉えた。
黒田は勢いよくドアを開ける。
車を飛び降りた。
真っ直ぐ山崎へ向かって歩き出す。
山崎はふと顔を上げた。
目が合う。
十数メートル先。
黒田が歩いてくる。
山崎の笑みが消えた。
(……あっ)
す
「やばいやばい!」
藤井『山崎…どうした?』
山崎は慌てて通話を切りポケットにしまう。
黒田は歩みを止めない。
一定の歩幅で。
真っ直ぐ山崎だけを見据えている。
「た、助けてくれ!」
山崎の叫び声に、一人の青年が足を止めた。
「どうしました?」
駆け寄ろうとした、その時だった。
青年は黒田を見た。
一瞬だけ目が合う。
青年の表情が強張る。
何も言わない。
静かに道を譲り、人混みの中へ消えていった。
「待ってくれ!」
山崎は周囲を見回す。
誰でもいい。
助けてくれ。
目が合う。
だが。
一人。
また一人と視線を逸らしていく。
足早に立ち去る者。
見て見ぬふりをする者。
誰一人として、黒田の前へ立とうとはしなかった。
黒田だけが歩いてくる。
その目を見た瞬間。
山崎は悟った。
怒りではない。
憎しみでもない。
そこにあったのは。
覚悟だった。
(……この人は、俺を逃がさない。)
本能がそう告げる。
逃げなければ。
そう思うのに、足が動かない。
黒田は山崎の胸ぐらを掴んだ。
目を逸らさない。
背後へ小さく顎をしゃくる。
「攫え。」
待機していた組員たちが、一斉に山崎へ飛びかかった。
その瞬間だった。
山崎の身体が宙へ浮いた。
「え……?」
視界が一気に高くなる。
何が起きたのか理解できない。
気付けば、大きな男の肩へ担ぎ上げられていた。
山崎も決して小柄ではない。
だが、その男はさらに一回り大きかった。
「離せ! 離せ!」
山崎は必死にもがく。
男の身体は微動だにしない。
耳元で、低い声だけが落ちた。
「……諦めろ。」
黒いワゴンのスライドドアが開く。
男は山崎を荷物のように車内へ放り込んだ。
「ぐっ!」
受け身も取れず、山崎の身体が床を転がる。
すぐに両脇を押さえ込まれる。
ドアが閉まる。
他の男たちも何事もなかったかのように、それぞれの車へ乗り込んでいく。
誰一人として慌てる者はいない。
無駄のない、淀みない動きだった。
黒田も後方で待機していた別の車へ静かに乗り込む。
ドアが閉まる。
車列がゆっくりと動き出した。
一台。
また一台。
競馬場を後にしていく。
周囲の客たちは、一瞬だけ足を止めた。
だが、それだけだった。
誰も追い掛けようとはしない。
誰も声を上げようとはしない。
勝った者は配当を語り。
負けた者は次のレースを悔やむ。
人の流れは何事もなかったかのように元へ戻っていった。
その喧騒の中から。
山崎だけが消えていた。
黒いワゴンは無言のまま走り続けていた。
山崎は身体を起こそうとする。
だが、左右に座る男たちが微動だにしない。
逃げられない。
その事実だけが、胸を締めつけた。
「どこへ連れていく……。」
返事はない。
「金なら払う。」
誰も反応しない。
「頼む……話を聞いてくれ。」
沈黙。
エンジン音だけが車内へ響く。
山崎は一人ひとりの顔を見る。
誰も自分を見ていない。
窓の外だけを見つめている。
まるで山崎など最初から存在しないかのようだった。
(何なんだよ……。)
(何で俺なんだ。)
頭の中で考えが渦を巻く。
換金は終わった。
計画も成功した。
なのに。
何故、自分だけが車の中にいる。
心臓の鼓動だけが速くなっていく。
その頃。
藤井は山崎へ何度も電話を掛けていた。
呼び出し音だけが虚しく続く。
「出ろ……。」
もう一度。
もう一度。
繋がらない。
「おい、出ろよ……。」
スマートフォンを握る手に力が入る。
嫌な汗が背中を伝った。
震える指で、木村へ電話を掛ける。
『どうした。』
「山崎と連絡が取れない。」
木村はすぐには答えなかった。
数秒の沈黙。
『……何かあったな。』
「どうする。」
『藤井。』
「……。」
『お前も今すぐそこを離れろ。』
「は?」
『今すぐだ。』
「山崎はどうすんだよ!」
藤井は思わず怒鳴った。
「見捨てんのか!」
木村の声は変わらない。
『無事なら山崎から連絡が来る。』
『来ないなら、来られない理由がある。』
藤井は息を呑む。
『考えるな。』
『そうなんだと思え。』
「でも……。」
『迷う時間が一番危険だ。』
『動け。』
通話は切れた。
藤井はその場に立ち尽くす。
助けたい。
だが、どこへ行けばいいのか分からない。
山崎は消えた。
そして、木村だけはもう次の一手を考え始めていた。




