知らなかった一面
可愛さんが電話しにいってしまったので反射的に会計を引き受けてしまったけど、いざその場面になると急に困った。任されたとはいえ、勝手に人の財布を開けていいのか。結婚生活の中でも、旦那の財布を預かることは一度もなかった。可愛さんは当たり前のように財布を渡してきたけど、男女の買い物でこれって普通の感覚なのだろうか。もうずっとそういう事から離れていたせいでよく分からなくなっている。いや。いつも〝金欠だから〟と言って私の財布を自分の物のように持っていってしまう人なら過去にいたけど(誰とは言うまい……)こんなシチュエーションはなかったと思う。可愛さんは、恋人でもない私をその程度には信用してくれているのだろうか。
ここへ来てからの支払いは全て可愛さんがスマホ決済で済ませてくれていた。でも今は、スマホは可愛さんが持っていってしまっている。レジには私の前に二人並んでいて、もうすぐ私の番がやってくる。申し訳ない気分で、おそるおそる可愛さんの財布を開いた。
万札多っ。
異次元な財布にただただ冷や汗が出る。パッと見ただけでも、私が普段入れないような金額が余裕で入っていそうだった。クレジットカードも普通のではなく年会費が高そうな、これがプラチナカード? 持ったことないから分からない。可愛さんの財布を壊れ物のように慎重に開いていると、カードの奥に見覚えのある水色の紙がチラッと見えた。
これって……。
マンション清掃を辞めて掃除道具を返却する時、可愛さん経由で会社に返すという事だったので、可愛さん宛に簡単な手紙を書いた。手紙というよりメモ書きに近い粗末な物だったけど、それまでのお礼を伝えたくて、たまたま持っていた空模様の小さな付箋に《これまでたくさん良くして頂き、ありがとうございました。》と書き、道具の入った袋に貼り付けておいた。付箋だけだと粘着が弱いので、セロハンテープで貼り付ける形で。可愛さんの財布の中には、忍ばせるようにその時の付箋が入っていた。テープを丁寧に剥がして付箋の裏に貼り付けてあるのが分かった。
こんなものを、あの会社を辞めた後も捨てずにずっと持っていてくれたんだ。
何とも言えない、驚きと喜びが込み上げてくる。そうこうしているうちに私のレジの番がやってきた。
どうしよ。元はと言えば私が味噌汁を食べまくったせいで鍋を買うことになったわけだし……。自分の財布から出そうか。
そもそも今日は私のモノばかり買ってもらっている。鍋代くらい出さないと申し訳ない気がする。自分の財布を開くと四千円しか入っていなかった。鍋は五千円する。千円足りない……。なんてことだ。そうだった。私はそもそも貯金もなく、直近の会社でも稼げず収支がマイナスになっていたのだった。可愛さんに助けられっぱなしですっかり忘れていた。
そういえば、あの時マイナスになった金額について会社から請求の連絡が来ないけど、どうなったんだろう。社長との話し合いで、可愛さんはそれすら帳消しにしてくれたのだろうか。そんなことできるのか?
いろいろ考えている間に店員が金額を告げてくる。情けないような不甲斐ないような、申し訳ない心持ちで可愛さんの財布から支払いをさせてもらった。
にしても、可愛さんは行動が早い。今日の買い物もそうだけど、鍋を買おうと提案してくれた。お金を使わせてしまうのは申し訳ないとやっぱりまだ思ってしまうけど、そうやって私との時間を良い物にしようと考えて動いてくれるのが、やっぱり嬉しい。
鍋を買ってしばらくしても可愛さんは戻ってこなかったので、店の前の通路のソファーに座って待つことにした。平日の昼間にこうしてのんびり買い物をしていられるなんて最高だ。客も少なく、人混みが苦手な身からしたら出歩きやすい。それに、今は不思議と男女の二人組がいても気にならなかった。すこし前まではとてもみじめな気持ちになっていたのに。
そして。この状況を改めて深く体感した。今の私だから、可愛さんの存在を大きく感じられるのかもしれない。昔の私で可愛さんに出会っていても、そのありがたみが分からなかったと思う。歪んだ自信で立っていた過去の私は、可愛さんの優しさも好意もないがしろにしていたかもしれない。今だから。色んな人と色んな関係になったからこその、今の気持ち。感情の帰結。
少しして可愛さんが戻ってきた。心なしか少し憂いたような顔をしていたけど、私と目を合わせるなり眩しいほどの笑顔を見せた。こっちまでつられて笑ってしまう。
「すみません、一人にさせちゃって」
「それは別にいいけど、何かあった?」
「はい。なんかちょっと友達にトラブルがあったみたいで、でも心配ないと思います」
「トラブル?」
可愛さんは言葉に迷うように視線をさまよわせた。
「インスタ発で心当たりない悪口を拡散されたとかで……」
「それはひどい」
「どうしようもない人ってどこにでもいますよね」
「そうだね」
「さ! 気持ち切り替えて、風岡さんの見たかった本屋さん行きましょう」
「大丈夫?」
「はい、もう大丈夫です。あ、それ持ちます」
買った鍋を可愛さんは持ってくれた。
「ありがとう」
「たくさん見て回ったし、疲れてませんか?」
「ちょっとね。本屋寄るくらいはできるけど」
「じゃあ、その後休憩しましょうか」
本屋に向かって歩き出した。可愛さんの様子がさっきまでと少し違うような気がしたけど、SNS上であることないこと言われるのはよくあることらしいし、私が何か言うのも違うか。そういえば、昔バイト先にネット小説を書いている子がいた。その子の小説はずっとランキング上位にいたらしく、その世界を知らない私ですら「すごいなー」と思ったりしたけど、それがきっかけで感想欄などに厳しいコメントや、小説とは関係ない誹謗中傷を書かれたこともあると言っていた。それで結局小説を公開するのをやめたと言っていた。書く人にとって生み出した作品は自分自身でもあるとその子は言っていた。もちろん自分と作品を切り離して考えるタイプの書き手もいるらしいが、その子は「作品を否定されるのは自分を否定されるようなものに思える」と。悪口を書く人はきっとそこまで深く考えずに思いつくままに気持ちを書いて、画面の向こうにいる人の心をへし折るのだなと思うと、考えさせられた。そして、いずれ私は悪口を放つ側の心境にまで追いやられていたのだから、「人を傷つけてはいけない!」というごく当たり前な正論で人を救えるとはとても言えない。そんなこと、分かっていてもやってしまい後悔するのが人間だ。
可愛さんの友達が大きなダメージを受けていないといいけど……。
本屋にはカフェが併設されていて、買った本をカフェに持ち込んで読むこともできるみたいだ。
「久しぶりに来ます、こういうところ」
可愛さんはすっかり気を取り直したように、ワクワクと本屋の中を見回った。新しい本独特の匂いに、心が浮き立つ。
「可愛さんって本とか読む?」
「子供の頃はけっこう読んでましたけど、最近は全然ですねー。こういうところ、懐かしさすら感じます」
「親が本好きだったんだっけ」
「そうなんです。一冊読み聞かせるごとに、印象的なのはどこだったか、どう思ったか、好きな人物や苦手な人物は誰かとか、父さんに毎回訊かれて、よく話し合ってました。昔は島君とかも好きな漫画をよく貸してくれたりしたので、そういうのもちょくちょく読んだりして」
そういう経験が可愛さんの人格の土台になっているのだろうか。だとしたら妙に納得。
「風岡さんはどんな本が好きなんですか?」
「物語とかはあまり読まなくて、詩集とか実用書的なのばかり読んでたよ。心理学の本とか」
「心理学! すごいですね! 好きなんですか?」
「どうなんだろう。気付いたら知らないうちに手に取ってて、読み始めたら止まらなくて。一時はそういう本ばかり熱中して読んでたよ」
自分だけでは解明できない他者の心情を知って、生きやすくなりたかったのかもしれない。自分の中にはびこる空虚感や痛みを癒したかったのかもしれない。
「そうだったんですね。なんか分かる気がします」
「そうかな?」
「はい。風岡さんのこと、またひとつ知れて嬉しいです」
幸せそうに微笑む可愛さんに、照れくさくなった。本そのものより、小声で会話する時間そのものを楽しんでしまっている。もちろん本を探すのも面白かったけど、結局はあれでもないこれでもないと見回って、目につく表紙についてコソコソ感想を言い合う。目的からはだいぶ逸れたけどこれはこれで楽しい本屋の過ごし方だと思った。
店内の一部に、小規模スペースでブルーレイやDVDなどの映像ディスクが収まっていた。私達は何となく見覚えのある映画のパッケージで視線を止めた。
「あ、これ……」
可愛さんが手にしたのは、二十年近く前に流行った悲恋映画のタイトルだった。たしか純愛カップルが死に別れる話だった。当時付き合っていた人に誘われて見に行ったような気がする。その後流れで同じ職場の子とも見に行くことになり、やっぱりイマイチだと感じた。私の苦手なジャンルというのもあるが、結局は嫉む心から敬遠していたという。今も好きな人は好きらしく、こうして目につくところに置かれるほど人気があるようだ。
「これ、昔見ました」
あのとき私は二十歳だったから、可愛さんは十三歳か。
「これ好きなの?」
「それが…….。悲しい話だったってことしか覚えてなくて。どういう内容でしたっけ?」
「カップルが死別する系」
「あー、そっか、そうでしたね。うわー……」
可愛さんは手にしたパッケージをそっと元に戻し、そこへ目をやらないように体の向きを変えた。
「何でだろ。周りはみんな感動したって言ってたんですけど、昔からそういう系の話は苦手というか、ダメなんですよね……」
「可愛さんも? 実は私も……」
「風岡さんも? そうですよね」
理解者を見つけた特有の安堵感。でも、その心情は私と違っていた。
「せっかく仲良くしている二人を引き離すような話って、ただただつらいんですよね……。胸が苦しくなるし、主人公の悲しみが自分のもののように感じてしまって。感情移入しすぎてしんどくて。幸せなまま終わればいいのに、どうしてそんな残酷なラストなんだろうって。鑑賞後しばらく経ってもモヤモヤは消えないし、人の死イコール感動という図式が昔から疑問で仕方ないんです」
「可愛さんぽい」
「風岡さんはどういうところが苦手なんですか?」
「可愛さんのような高尚なもんじゃないよ。私のはただのひがみ根性」
「ひがみ、ですか?」
「死別は悲しいんだか何だか知らないけど、一度でも好きな人と思いが通じ合って幸せな時間共有できたんだからいいじゃん。とか思ってた」
「なるほど、たしかに! それはその通りですよね!」
新しい着眼点と言わんばかりに可愛さんは目を見開いている。
「同じストーリー観ても、こんなに違うんだよね。人の感想って。百人いたら百通りの回答がある」
「そこが面白いですよね」
「可愛さんはやっぱり、ハッピーエンドが好きなの?」
「はい。途中何かアクシデントがあったとしても、最後は皆笑顔で終わる話がいいです」
「そんなの創作の中だけでしょ。こんなハッピー展開、嘘くさ。とか思っちゃうひねくれ者だったよ、私は」
「だったってことは、今はそうでもないんですか?」
「うーん、まあ、うん。どうだろ」
自分でも意外だけど、可愛さんの感じ方を今は少し理解できそうだ。幸せなカップルを引き裂く話は、フィクションでもやっぱり後味が悪いかもしれない。無意識に今の自分を重ねてしまうからだろうか。
「まあ、観るなら幸せな話の方が気持ちは明るくなるかもね」
「ふふっ」
可愛さんは私の思考を読んだみたいに笑っていた。気恥ずかしくて顔をそらしてしまう。
可愛さんとこうなる前の私は、ずっと世の中の暗い部分しか見えずにどんどんおかしくなっていた。そうならざるを得なかった自分を理解できるし否定もしたくない。だけど、可愛さんといることで見え始めた優しい部分を、もう少しちゃんと感じたいとも思う。
私は本当に運がいい。もし可愛さんがいなかったら、こんな気持ちになることもなかった。奇跡としか言いようがない。そう強く感じた。
「苦手と言えば、戦争物もダメなんですよね……。中学の授業だったかな、勉強になるからって社会の先生が戦争映画の鑑賞会をしたんですけど、気分が悪くなって途中で気を失って倒れてしまって……。クラスで大騒ぎになって」
「そんなことが! 周りの子もビックリしただろうけど、可愛さんにとってよほどショックな内容だったのかな……」
「記憶もあやふやで、悲惨な内容だったってことしか覚えてないんですけど、だからって倒れるなんて男のクセに情けないですよね」
「いやいや、そんなことないよ。感受性が強いのかも」
私も戦争物はあまり得意じゃないから気持ちは分かる。過酷な状況の中でも必死に生き抜こうとする人々の強さや、命の大切さなどを訴える意図もあるのかもしれない。だとしても胸が重たくなってしまう。争いは何も生まないからやってはいけないという警鐘でもあるのだろうか。
「あのさ、可愛さんが悲しい話苦手なの、前世のせいかな」
ふと思った。私達は似たような夢を見ていた。その内容からして、私達は前世で夫婦だったのかもしれない。そのうえ死に別れていたのかもしれない。
「そうかもしれません。そういえば、中学の時も、倒れた時に夢と似たような光景がフラッシュバックしたんですよね」
「それってもう、確実かも」
それに、可愛さんと再会してからたびたび聞こえる心の声。自分のものではないのに自分のものだと確信してしまいそうな叫び。あれは魂の記憶で、それが語りかけてきている、のか。




