002 リーベ、戦場に立つ
リーベちゃんが逃げた方とは逆へ跳ぶと、直径30センチ程のくちばしが真横を過る。
着地すると、傾斜のせいで危うく転倒しかけた。
もしここで転倒したら、そのままゴロゴロと長い坂を転げ落ち、目が回ったところを襲われる羽目になるだろう。足場の悪さに歯噛みしつつも気を引き締める。
「くっ……」
「カーッ!」
そのくちばしは先端が鋭く、全体が光沢を帯びていて、西日を受けてギラリと鋭く煌めいた。その物々しさたるや、まるで黒鉄の槍のようだ。その一方でつぶらな瞳をしており、その落差に、子供が蝶の翅を毟って遊ぶような残酷さを想起させられる。
「…………」
ぼくはチラリと胴体を観る。
カラスの脚の付け根を覆う紺色の羽毛には乾いた泥が大量に付着していて、樹上性のカラスとは根本的に異なる生物である事が窺える。その特徴から類推するに、この魔物の正体は――
「……ヘラクレーエ…………!」
「クアッ!」
短く鳴いたかと思えば、またくちばしを伸ばしてくる。
くちばしは真っ黒な上、微妙に湾曲しているせいで距離感が掴みにくい。だがそれでも、経験と勘とで対処するしかない。
「っ!」
右足で踏み込み、攻撃線上から外れる。するとくちばしが左腕の袖を撫でる。それでも臆さず、体を90度左に向け、そのまま刺突の態勢に入る。狙うは左眼。視力を奪って有利を取るのだ。
「ふっ!」
刺突を繰り出すと切っ先が眼球を貫く。
ぷちゅりという気色悪い感触に本能的な不快感を催す中、ヘラクレーエは絶叫を轟かせる。
「クアアアアアアアッ!」
傷口から鮮血が滲むと同時に魔物は盛大に仰け反った。
ぼくは反撃を警戒して飛び退いたが、運悪く踵で小石を踏んづけてしまった。
「うわ!」
直後、視界がぐるりと回った――
――☆――☆――
坂を駆け下りたわたしだが、魔物の絶叫を聞いて振り返るとフロイデさんが坂を転げ落ちているのが見えた。
「フロイデさん!」
魔法で助けなきゃ!
慌てて駆け出そうとするも、恐怖で脚が動かなかった。
『ぼくが引き付けてるから、ヴァールたちを呼んできて……!』
彼はそう言っていた。魔物絡みの事件において、冒険者の指示は絶対だ。そう思って踵を返そうとした時、わたしの自制心が――良心が呼び掛けてくる。
それでいいの?
そう自問したとき、わたしは自分が理屈ではなく、単に怖いから引き返したくないのだと気付いた。わたしは民間人で、そう思ってしまうのは当然であり『卑怯』と批難されるようなことではないだろう。
そう理解しつつも、もし自分が逃げたら、フロイデさんはどうなるのかと不安になった。
冒険者たちがどうにかしてくれると妄信して逃げたら、いったい誰がフロイデさんを護るのか。今、彼を救える人間がいるとすれば、それは街の何処で何をしているか知れない冒険者ではない。
今ここにいて、魔法が使えるわたしだけだ。
「っ!」
世界を蹴り飛ばすつもりで駆け出した。
幸いにして展望台からはさほど離れておらず、すぐに駆けつけられた。
肩で息をしながら状況を確認すると、フロイデさんは坂の下で起き上がろうとしていた。しかし平衡感覚を失くしたよう、酩酊したかのようににふらついている。
一方、カラスは彼にトドメを刺そうとピョンピョン移動している。
それを見たわたしは急いで腰ホルダーからワンド(短い魔法杖)を引き抜き、魔法を放つ。
「ええいっ!」
放ったのはこぶし大の小さな火球だった。
こんなちっぽけな魔法では討伐できないことなど百も承知であったが、それでも魔物の気を引ければ十分だ。しかし、狙いが甘く、初撃は足下に着弾した。
だったら数だ!
「当たれ! 当たれ! 当たれぇっ!」
距離を縮めながら乱発すると、2発が大きな胴体に当たった。
「クアッ⁉」
不意の高熱に短い悲鳴を上げたカラスはビクリと仰け反った後、恨みがましい視線をわたしに向けてくる。その時、大きなくちばしに西日が反射し、彼女はまるでナイフを突きつけられているような恐怖を感じた。
「ひっ――」
「カアアアアア!」
ピョンと一度の跳躍で詰めてきて、そのままくちばしを――
「うわっ!」
思わず仰け反ると彼女はフロイデさんと同様にして坂を転げ落ちた。だが、そのお陰で回避に成功する。
一方、攻撃を外した魔物は敵を見失い、キョロキョロと辺りを見回している。
「……どうしたんだろう?」
不思議に思っていると平衡感覚を取り戻したフロイデさんが駆け寄って来る。
「どうして、戻って来たの?」
「その……心配で……」
彼は口を開き掛けるが、言葉を呑み込んだ。それから気持ちを切り替えるように小さく溜め息をつくと言う。
「ありがと。あとはぼく1人で大丈、夫」
彼はそう言うが、わたしは戦意を燃やしていた。
「あの、わたし、魔法が使えます!」
フロイデさんはその言葉に逡巡し、目を瞑り、頷いた。
「…………魔法を使うときは、何を使うか叫んで」
「……はい!」
こうして戦場に立つと不思議と胸が高鳴った。
それが勇気ではなく、もっと単純な昂揚であることに気付く。それはお父さんがしてきたことの、その一端を体験できることに対するものであり、わたしは自分の浅はかさに自嘲した。しかし、それでフロイデさんとこの街を守れるなら、それでいいと割り切った。
ワンドを握り絞め、フロイデさんの斜め後方に陣取る。
辺りには坂も何もなく、動きやすい。戦うには良い環境だ。
「ふう……」
呼吸を整えている間に、カラスはわたしたちを再発見していた。
「カッカックアアアアア!」
魔物は鳴き声を発した直後、正面に立つ剣士を目掛けて飛び掛かる。
対するフロイデさんは勇敢にも脚の下をくぐり抜けて背後へ回り、剣を構える。整然とした構えはそのまま攻撃へと派生、紺色の体を赤く塗り変えた。
「クアアア!」
不利を悟ったのかカラスは翼を広げて風を捕らえようとする。そんなとき、フロイデさんが叫んだ。
「リーベちゃん……!」
「はい! ファイア!」
頭部を狙った火球は運良く負傷していた目に命中した。それは筆舌に尽くしがたい痛みをもたらしたようで、全身をびくりと痙攣させて地に墜ちる。
「にゃあああああッ!」
透かさず駆けつけたフロイデさんが、起き上がり掛けたカラスの翼を斬り落とす。
いきなり心臓を狙わず、手足を捕って有利を捕るのが冒険者の基本的な戦い方だった。フロイデさんはその点において模範的だった。
「カーッ⁉」
バサリと翼が落ちたその時、カラスは静止した。
翼のない鳥は、もはや鳥ではない。頭の良いカラスは、自らのアイデンティティの喪失を悟ったように放心した。そんな中、フロイデさんが心臓を貫ぬいた。
魔物の赤黒い血液が街路を浸していくのを呆然と見つめていた。
するとふと、周囲が騒がしいのに気付く。
振り向くとそこには観衆が集まっており、彼らは恐怖や畏怖と、なにより大きな好奇心を湛えた瞳をカラスの亡骸に向けている。
「あの坊主がやったのか?」
「剣持ってるし、そうだろうな」
「知ってるか? アイツ、ヴァールさんの弟子なんだってな」
そんな会話がひそひそと響く中、その何倍もの大音量がうわさ話を蹴散らす。
「リーベ!」
お父さんが観衆をかき分けながらやって来た。
「魔物が出たって聞いたが、まさかお前が襲われてたなんて……」
そんなことを口にしつつ、熱心に娘の体を点検している。
「もう、お父さんたら……心配しすぎだよ…………」
「しすぎも何もあるか! お前は俺の娘なんだぞ!」
「……ご、ごめんなさ――」
言い掛けた時、お父さんの大きな腕がわたしを抱き込んだ。
するとその温もりに緊張の糸がぷつりと千切れ、涙が溢れてくる。
「お父さん……うう…………」
お父さんはわたしを開放するとフロイデさんに目を向ける。
「お前には礼を言わねえとな、フロイデ」
「……う、ううん。ぼくの方こそ、助かった…………ありがと、リーベちゃん」
その言葉にわたしは恩人を見やる。しかし、拭った側から涙が滲んできて、彼の顔がよく見えなかった。
「い、いえ。こちらこそ……ありがとうございます。フロイデさんって、強いんですね」
再び指先で涙を拭うと、鮮明になった視界の中でフロイデさんが顔を赤くしていた。
「そ、そんなこと、ないよ……」
照れ屋な彼はスカーフと前髪を掴む例の仕草を見せる。
その一方でお父さんが首を傾げる。
「ん? 助かったって……もしやリーベ! お前が戦ったんじゃ――」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっっ!」
事情を問う声はドスの利いた叫びにかき消された。振り返ると、観衆が悲鳴を上げて左右に分かれる。そうして出来上がった人垣の合間をおじさんが猛然と駆け抜けてくる。それからやや遅れてフェアさんもやって来る。
2人は共に武装していたが、お父さんは無防備だった。無防備でも時間稼ぎが出来る技量があるからだろう。
そんな事情はさておき、おじさんは魔物の死骸を見て、弟子を見て、小首を傾げる。
「ああん? どうしてフロイデが……まさかお前がやったんか?」
「ううん。ぼくと、リーベちゃんで」
彼が答えた途端、観衆はざわざわと騒ぎ出した。そんな中、フェアさんが気を利かせて言う。
「……ひとまず、後始末は我々に任せて、おふたりはお戻りください」
フェアさんの言葉におじさんが続く。
「そうだな。さっさと帰って、シェーンを安心させてやれ」
そう言ってグローブを付けた手でわたしの頭を撫でた。
「あー!」
髪の毛を気にしていると、お父さんが言う。
「んじゃ、後は頼んだ――いくぞ」
「う、うん……」
去り際、わたしは魔物の死骸を見つめていたフロイデさんに呼び掛ける。
「フロイデさん、本当にありがとうございました」
黒く滲んだ空の下、魔導師が街灯に明かりを点けて回っている。そうして出来た青白い光の中、わたしたち親子は肩を並べて歩く。
現場を後にして以降、お父さんはむっつりと口を閉ざしていた。わたしはそこに怒りの感情があるのを悟った。しかし、弁明の言葉を発する事もできず、ただ緊張に押し黙るばかりだった。緊張を和らげようとしていると、お父さんがようやく口を開く。
「どうして魔物と戦ったんだ?」
「それは……フロイデさんが危なかったから……」
「だとしても、あの時お前のやるべきは、誰でもいいから冒険者を呼ぶことだ」
元冒険者の言葉は、わたしの胸には確かな重みを持って響いた。だがそれでも、自分の選択が正しいという確信は揺るがなかった。
「で、でも! 本当に危ないところだったんだから!」
「結果論だ。じゃあ聞くが、お前の心配は全くの杞憂で、それどころか、余計な被害を招いたとしても同じ事が言えるか?」
「それは――」
一蹴され、閉口させられた。
どうにか言い返そうと考えを巡らせていると、お父さんは溜め息と共に続ける。
「冒険者の世界じゃ、仲間を見捨てることなんて当たり前だ。命あっての物種なんだからな」
冒険者は死と隣り合わせである以上、合理的な決断が求められる。翻って、見捨てられる覚悟がある人が冒険者になるのだろう。だとすれば自分は、余計なことをしてしまったのかもしれない。
そんな考えに苛まれていると、お父さんが実感の籠もった声を零す。
「……ディアンの爺さんの右腕がないのは、俺を庇ったからだ」
ディアンさんはお父さんの友人で、元冒険者で、画家だった。あの名画【断罪の時】を描いたのも彼だ。
「アイツは冒険者であることを誇りに思っていた……腕をなくしたとき、アイツがどれだけ絶望したことか…………救われておきながら俺は、お前にはそうなって欲しくねえんだ」
「お父さん……」
長い腕がわたしを包み込む。
「……無事で、良かった…………」
「お父さん………………ごめんなさい……」
大きな手が後頭部を撫でる中、わたしの耳に、聞き馴染んだ心地よい声が響いてくる。
「リーベ!」
父の胸板から顔を離し、振り向くとそこにはお母さんがいた。
「ああ……帰って来ないから心配したのよ!」
「ごめんなさい……」
「良いのよ、無事でいてくれればそれで――まあ! こんなボロボロになって」
その言葉にわたしは視線を落とす。
今わたしの来ているライムグリーンのワンピースは擦過でボロボロになり、砂と草で汚れ、見るに堪えない状態になっていた。
「ああ⁉ ……そんな…………」
がっくしと肩を落とすと、お父さんが明るい調子で言う。
「なあに。服なんてまた買えばいい――」
「良くないよ!」
娘の大声に父は目を丸くした。
「……お誕生日プレゼントだったのに…………」
服なんてこの世界にいくらでもあるが、誕生日の――しかも15歳の成人祝い買ってもらった有名な婦人服店の『アンベシル』の服は世界にこの一着しかないのだ。それを思うとわたしは無性に悲しくなってきたのだった。
「くう……! リーベっ!」
お父さんは感極まった様子でわたしの名を呼ぶと共に抱きしめる。
しかしその力は強く、わたし太い腕に締め上げられ、鼻先を分厚い胸板に押しつけられる。その苦痛たるや、もはや抱擁の域にはなかった。
「うぐぐ……ぐ、ぐるじい…………!」
わたしが腕を叩いて訴えるも、中々解放されない。微かに聞こえたお母さんの警告も聞き入れられなかったため、わたしはしばらく苦痛に喘ぐこととなった。




