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第89話 聖人像は、かくほほみけりないたづらに

 見上げれば大きな雨粒が、つぶてのように容赦なく顔を叩く。闇夜に一層真っ黒、輪郭も分からぬ低い雲、打ち付ける雨の音。反り返る壁に取りつく冷たい孤独。腰に巻いたロープの先は、城壁のデザイン的にそうされた凹凸の一部に結わえられ、これが命綱となる。緩やかなオーバーハングは城壁の外に面した側は特にそうなっており、均衡と安定のため、内側も同じようにオーバーハングしている。


 外側の反りは当然外敵がよじ登れないようにするためだ。両手でしっかりとロープを握り、履き替えたスパイク付の靴で壁を降りていく。途中でその足が止まった。思ったよりもオーバーハングの角度がついており、想定より早い段階で足が壁につかない宙吊りになる。しかし進むしかないのだ。脚が壁から届かない状況で、腕力だけで降下する。


 見えた。祠があり聖人像が具えられている。今自分の身体は腰のロープ一本で宙吊りの状態だ。手を伸ばしたところで届かない。

「ぜえっ……。ぜえっ……」


 宙吊りの身体を容赦なく風雨が打つ。腰のロープと自分の身体を結ぶブルージックの紐を締め上げ、体を前後に揺らす。

 振り子の要領で壁に接近するのだ。

 ぜえっ、ぜえっぜえっ

 誰かがそう言っている気がする。


 壁には別の誰かが同じように取りついて、同じように荒い息を吐いている。そんな錯覚だ。風雨が激しく、周囲の様子はよく見えない。思った以上にオーバーハングがきつい。振り子の指先があと少し――、届かない。

「ふごぉッ」

 思きって脚を振る。恐怖で硬くなっていた体に鞭を入れる。ここで届かなければ先はない。


 そう思い定めて力を振り絞った。指先が聖人像を掴んだ。いや、掴みかけたのだ。冷たい雨でかじかむ指先は、掴みかけたものを虚しく落下させた。

「うお!?うおおおおッ」

 隠密の行動になのに。慟哭が喉を裂き、堪えきれぬ奔流となって迸る。幸いかな、にわかに雷鳴が轟き、ウィチカートの声をかき消した。


 どれくらい時間が経過しただろうか。雨は一層強くなっている。戻るしかないのだ。目の前が滲むのは雨のせいだけではない。涙のせいだ。腕に力が入らない。それでも数センチ。そしてブルージックを締めて体を支え、また数センチ。長い時間を掛けてそれを何度も繰り返した。


 ズボンが重いのは雨だけは無く尿が濡らしたせいでもあった。何時間たったのだろう。雨の勢いが弱くなってきた気がする。


 ウィチカートは何気なく横を見た。空中に人がいる。浮いている。

「あ、ああ……」

 真っ黒なローブ。目に見えない薄い皮膜に覆われているかのよう。バリアか何かが雨を弾いているように見えた。そのローブの人物、女性のようだが、彼女の身体は雨に濡れていない。

「ウィチカート。なかなか骨のあるところ見せたわね。気に入ったわ」

「ま、魔女様……」

 白い魔女に似ている。いや、しかし別人だ。直感的にそう感じた。


 その魔女の足元から何かが浮いて彼女の手元で止まった。

「そ、それは……」

 聖人像だ。

「ふふ。上まで持って行ってあげる。登ってきなさい。待ってるわ」

 魔女は浮いたままオーバーハングの向こうまで上昇して行き、やがて見ないその先まで登って行った。


「ぜはあ、ぜはあ……」

 死を覚悟した瞬間もあった。だがこうしてちゃんと生還した。城壁の上におかれた聖人像を手に取る。それを懐に入れて両腕で抱きしめる。

 おおお……

 また涙が溢れた。それはもう魂の枯れ行く慟哭ではない。橙色に色づく東の空。ほどなく朝日が顔を出して王城を照らした。一日がまた始まる。


「やるじゃないか。よく聞きなさい。この聖人像はお前に力を与え、そして奪う。登用試験の間は常に身に帯び、試験が終わった後も三日三晩肌身離さず持っていなさい。その三日三晩は試験の時に借りた魔力を返す期間。だからお前の魔力はその間半減する。そして返し終わってから同じ祠に戻すんだ。いいね?」

「はい。そのように致します」

 白い魔女に報告に行き、そして確信した。昨晩の魔女は白い魔女ではない。あれが希望を施す白い魔女と対をなす災厄の存在、黒い魔女だ。


 試験の直後、王城は凄まじい嵐の直撃を受けた。落雷で城壁の一部が落ちたのだ。祠のある場所が崩壊していた。

「あの祠は簡単には砕けない。一度は祠に戻すんだ。返したという証明を明らかにする必要があるからね。それまでは常に肌身はなさず持っているんだよ。でないと借りるだけ借りて恩を返さなかったと見做されるからね」

 そして30年が経過した。試験には合格し、大司祭にまでなったものの、本来の魔力はこの30年、半減したままだ。


 こんな誰が書いたとも、或いは誰がいれたとも分からぬ羊皮紙の内容に従う自分は愚かだろうか。夜明けとともに始めた作業。もう日暮れだ。橋の下、川の流れの付近で掘って祠を探すがいまだに見つからない。


 もしかしたら本当にこの付近にあったのかもしれない。だが川の傍だ。流されたのでは?

 そう思うのだ。依然祠は見つからない。

「なあ、聖人様。あの羊皮紙に書かれていたことは本当なのか?あんた知ってたら教えてくれねえか」

 話しかけても答えることなど無いというのに。

 だがその瞬間。視界の端に光の明滅を見た。


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