泥に塗れようとも、鋼鉄の輝きは消えず
『修羅道場』が居を構え、陣春人たちの活動の中心地となっている活気溢れる街、アルディア。だが、その華やかな表通りから外れた街の片隅には、光の届かない深い影――貧民街が広がっていた。
悪臭と煤煙が立ち込める路地裏。そこが、ハンス・シュミットという名のドワーフの中年男性の生きる世界のすべてだった。
ドワーフといえば、誰もが「高名な鍛冶師」や「一級の工匠」を思い浮かべる。しかし、ハンスにはその血の才能が欠落していた。貧民街に生まれ育ったがゆえに読み書きの学もなく、彼に残されたのはドワーフ特有の、ずんぐりとした頑強な肉体だけだった。たまに貧民街の外から舞い込む日雇いの荷運びなどの仕事にありつけることはあっても、それだけで日々の糊口をしのぐことは到底できない。
そこで、生きるためにハンスが選んだのは、『殴られ屋』というあまりにも過酷な商売だった。
「オラァ! もっと踏ん張れよ、この鍛冶も碌に出来ない泥塗れのドワーフが!」
鈍い肉声とともに、薄汚れた男の拳がハンスの顔面に叩き込まれる。ハンスは頭を揺らしながらも、じっとその衝撃を持ち前の肉体で受け止めていた。
「オラオラ! こっちは金払ってんだ、これくらいでへばってんじゃねえぞ!」
殴られ屋としての主な顧客は、この貧民街を縄張りにしている柄の悪い荒くれ者たちだ。酒やギャンブルで負けた腹いせ、あるいはただの鬱憤晴らし。彼らが二束三文の銅貨をハンスの足元に投げ捨て、気の済むまで拳や蹴りを叩き込む。
「あのドワーフ、また殴られてる……」
「よしなさい、下手に関わると私たちまで殴られるよ」
しかし、ハンスがその暴力の受け皿となることで、結果的に貧民街に住む老人や子供といった他の弱者たちが、荒くれ者たちに絡まれることはなくなっていた。
それゆえに、貧民街の住人たちからのハンスへの扱いは複雑だった。
荒くれ者たちからの、言葉にするのも汚らわしい侮蔑と嘲笑が半分。
そしてもう半分は、彼のおかげで平穏を保てている弱者たちからの、心からの感謝と、哀れみの混じった憐憫だった。
「ふん、今日はこれくらいにしてやる。頑丈だけが取り柄の人形め。おい、もう行くぞ」
「ああ、また明日も使ってやるから、精々楽しみにしてな」
荒くれ者たちが唾を吐き捨てて去っていく。
ハンスは泥まみれの地面に這いつくばり、散らばった数枚の銅貨を、震える手で一本一本拾い集めた。殴られ屋の仕事が終わり、一人うなだれる彼の背中は、ドワーフのそれとは思えないほど小さく、寂しげに見えた。
「ふむ、成程な……」
その様子を、遠目からじっと見つめている男がいた。
妖精のポルから、貧民街の殴られ屋の噂を聞きつけて足を運んでいた道場主、陣春人である。
「……おい」
不意に頭上から降ってきた重低音に、ハンスは顔を上げた。
見上げれば、自身とは比較にならない程の巨躯。漆黒の短髪に、一分の隙もない鋼の肉体を道着に包んだ男が立っていた。その眼光の鋭さに、ハンスは本能的に身を固くする。
「あんたが、殴られ屋のハンスだな」
「……ああ、そうだ。見ての通り、もう今日の営業は終わりだ。用があるなら、また明日にしてくれ……」
俯き加減に答えるハンスに対し、春人は懐からずっしりとした革袋を取り出した。中から覗くのは、貧民街ではまずお目にかかれない輝きの銀貨だ。
「通常の三倍の報酬を払う。……私と殴り合え」
「何……?」
「もし私を倒すことができたら、さらに倍払ってやる。どうだ?」
ハンスは目を丸くした。三倍、いや上手くいけば六倍。それだけあれば、しばらくは飯に困らない。だが、目の前の男から放たれる威圧感は尋常ではなかった。乗り気にはなれなかったが、明日のパンを買うための報酬の魅力には勝てず、ハンスはのろのろと立ち上がった。
「……分かったよ。ただし、怪我しても恨みっこなしだぜ」
ハンスは短く息を吐き、ドワーフ特有の太い腕を構えた。
そして、目の前の大男に向かって渾身の拳を突き出す。日頃、荒くれ者たちに殴られながらも、彼らの動きを見て自然と身についたハンスなりの重い一撃だった。
――ゴンッ!
肉と肉がぶつかる鈍い音が響く。ハンスの拳は、確かに春人の胸板を捉えていた。
しかし。
「――っ!?」
ハンスの顔が驚愕に染まる。手応えがない。まるで、強固な鉄壁を素手で殴ったかのような感覚。春人は眉一つ動かさず、微動だにしていなかった。ハンスの打撃は、春人に対して文字通り『全く効いていない』のだ。
「次は、私の番だな」
春人の静かな声が響いた直後、ハンスの視界から男の姿が消えた。
直後、腹部に強烈な衝撃が走る。
「が、はっ……!」
何が起きたのか分からなかった。春人の容赦のない、だが正確に手加減された一撃。それだけでハンスの体は宙を浮き、地面へと激しく叩きつけられた。一撃でのダウン。呼吸が上手くできず、ハンスは這いつくばったまま悶絶する。
春人は見下ろしたまま、静かに口を開いた。
「お前の打たれ強さは本物だ。あの荒くれ者どもの暴力を受け流し、今の俺の一撃でも骨が砕けていない。……だが、お前には決定的なものが欠けている」
「げほっ、ごほっ……なんだよ、それ……」
「『殴り勝とう』とする気概だ。お前の拳には、相手を倒してやろうという意志が全く乗っていない」
「っ!? 勝つ……」
その言葉は、ハンスの胸の奥深くに突き刺さった。
勝つ。殴り勝つ。そんなこと、とうの昔に忘れていた。自分はドワーフであれば、誰もが生まれながらに持っている筈の才能が無い落ちこぼれで、殴られることでしか価値を証明できない存在なのだと、自分自身に言い聞かせてきたはずだった。
しかし、春人の指摘によって、ハンスの胸の内に長年燻っていた『勝利への渇望』に、小さな、本当に小さな火が灯りかける。
だが、ハンスはすぐに首を振った。深い諦観が、その火を消そうとする。
「……無理だ。あんたみたいな化け物に、オレが勝てるわけがない。オレは鍛冶の才能もない、学もない、ただの貧民街の泥に塗れたドワーフだ。殴られるのがお似合いなんだよ……」
自嘲気味に呟くハンス。
その時、春人はドサリとハンスの前に片膝を突き、目線を合わせた。その瞳には、憐れみなど一切なく、ただ純粋な熱量だけが宿っていた。
「才能だの、生まれだの、そんなものは関係無い。お前は毎日、他人の悪意と暴力をその身に受け止め続けてきた。それはな、並の鍛錬じゃ絶対に手に入らない、お前だけの最高の『土台』だ。お前には、誰よりも強くなれる素質と可能性がある」
春人は熱心に、ハンス自身すら気づいていなかった肉体の価値を説いた。叩かれ、鍛え上げられた鉄のような肉体。それがどれほど素晴らしい可能性を秘めているかを。
真っ直ぐな言葉が、ハンスの冷え切った心に染み渡っていく。
(オレに……可能性がある……?)
ハンスの瞳に、次第に微かな希望の光が見出し始められる。
「ハンス」
春人は力強くハンスの手を握り締めた。男の大きな手の温もりが、ハンスの震える拳に伝わる。
「まだお前の胸の奥には、負けたままで終わりたくないという渇望が残っているはずだ。他人の鬱憤晴らしの人形で終わるな。己の心に従え。強くなりたいなら、私がいくらでも叩き上げてやる!」
春人の魂の発破が、ハンスの心を縛っていた諦めの鎖を完全に断ち切った。
今度こそ、ハンスの胸の内に、消えることのない猛烈な火が灯る。
「……ああ、畜生。強くなりたい。オレだって、誰かを殴り倒して、勝ってみたい……!」
ハンスは涙で歪む顔を上げ、春人の手を全力で握り返した。
「オレを、あんたの弟子にしてくれ! 頼む、師匠!」
貧民街の片隅で、一人の泥塗れのドワーフが、修羅の門を叩いた瞬間だった。




