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最強の格闘家春人、異世界へ

 陣春人(じんはると)は生まれながらにして、人の世の理から外れた存在だった。

 生まれた直後に己を抱きかかえる母親の手の骨を握り潰しかけ、立ち上がり歩ける様になると、頭突きでコンクリートの壁にヒビを入れ、十歳を迎える頃には、自分が力を意図的に制御しなければ、容易に周囲の同年代の子供や大人でさえも壊してしまう事実に気づいていた。

 春人の肉体は骨密度、筋肉の量と質、神経伝達速度など、そのすべてが人類という種の限界値を遥かに超越した「生まれながらの超人体質」だと周囲の人々は結論付けた。

 しかし、春人はその異常な力を暴力の衝動に任せて振るう事はなかった。

 彼は己の規格外の肉体を制御するため、ありとあらゆる格闘技を学び、貪欲にそれらの技術を吸収していった。現代日本という平穏な社会において、力を隠し、常人達と調和して生きるための手段として「武の道」が最適解だったからだ。

 やがて彼は小さな街で格闘技の道場を開き、実直に多くの門下生を育てる街でも評判の男となった。

 私生活では、人並みの幸福に恵まれた時期もあった。

 夏芽(なつめ)という、細身で物静かな、しかし誰よりも春人の心を理解してくれる最愛の妻と巡り会えた。そして、二人の間には一人息子の冬彦(ふゆひこ)という新しい命も授かった。

 だが、幸福に包まれた日々は唐突に終わりを告げる。数年前、夏芽は原因不明の拒食症を患い、まるで自ら命を削るかのようにして息を引き取った。原因は最後まで不明のままだった。

 最愛の妻を亡くした喪失感を胸に抱えながらも、春人に残された高校生の冬彦は卒業を間近に控え、大学進学後は一人暮らしを始めることになっている。ほんの数年前まではまだまだ子供だと思っていた息子も、一人前と呼べるまでに成長したのだと痛感させられている。

 そして春人は、今日も道場で静かに鍛錬を続けていた。そんなある日のことである。

 日課である道場の雑巾がけを終え、春人が汗を拭ったその瞬間、世界の色彩が反転した。

 「――お初にお目にかかります、人の世の理を超越せし者よ」

 鈴を転がすような、しかし同時に鼓膜を狂わせるような残響を伴った声。

 気づけば、道場の天井と床は消失し、果てしない純白の世界が広がっていた。春人の目の前に浮かんでいたのは、まばゆい光をまとい、慈愛と尊大さを含んだ微笑を浮かべる、絶世の美女。

この世の者ではないまさに「女神」だった。

 「私は異世界を統べる女神。陣春人、あなたを我が領域へと召喚しました。今、あちらの世界は忌まわしき魔王の手によって破滅の危機に瀕しています。どうか世界の危機を救うために、『勇者』としてご助力を――」

 神々しい光を放ちながら、女神は尊大に語りかける。普通の人間であれば、その神聖さに平伏するか、あるいは夢のような抜擢の機会に歓喜するだろう。

 だが、春人は眉ひとつ動かさず、ただ自身の長年着込んだ道着の帯を締め直した。

 「……いいだろう」

 「おや、話が早くて助かります。拒絶されるかとも思いましたが、さすがは超越者です」

 女神は優雅に微笑む。

 「では、勇者としての旅立ちにふさわしい『加護』を授けましょう。どのようなチートスキルが望みですか? あらゆる魔法を無効化する絶対の盾、万物を一刀両断する聖剣、あるいは一撃で都市を滅ぼす魔法……好きなものを言いなさい」

 女神は誇らしげに両手を広げ、無数の光輝くカードのようなものを空間に浮かび上がらせた。

 しかし、春人はそれらの輝きには見向きもしなかった。

 「いらん」

 「……はい?」

 女神の完璧な笑顔が、一瞬で凍りついた。

 「そんなまやかしの力は必要ない。武器も、魔法も、神の加護とやらも、俺には邪魔なだけだ。この五体と培ってきた技さえあれば、それで十分だ」

 「な、何を言っているのですか!? 異世界の魔物は、あなたのいた世界の野生動物とは次元が違うのですよ!? 強靭な皮膚、凶悪な魔法、巨大な肉体……生身の人間が武器もなしに敵う相手では――」

 「能書きはいい。とっとと送れ。さもなくば――」

 春人は拳を固く握り締めると、目の前に向かって、ただ一歩を踏み出した。

 その瞬間、女神の展開していた空間に一筋の亀裂が入った。

 「待っ、まだ異世界の説明が――! 魔王の能力や、大陸の情勢を――!」

 「必要ない。立ち塞がる敵は全て叩き潰す。 これまで通りに、な」

 女神の制止の声にすら耳を貸さず、春人は次元の裂け目へと歩を進めた。

 チート能力の拒絶し、ただ己の肉体と、これまで積み上げてきた『武』の技術の絶対的な確信だけを抱き、最強の超人は裂け目の中へと消えていく。

 春人を待ち受けるのは、魔物が闊歩し、剣と魔法が支配する異世界。

 そこに、チートスキルを持たない代わりに「人体の限界」を置き去りにした一人の超人が、拳ひとつで殴り込みをかける。

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