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第三幕:なんで名前きいた?

【第一節】


 深夜のカルケドン白灰峡谷。

 谷底から吹き上げる乾燥した冷たい夜風が、関所の廃墟に残された白い瓦礫の隙間を抜けてヒョーヒョーと不気味な音を立てていた。

 馬蜘蛛『鉄岩《ガンコ》』の突撃と、代官が仕掛けた泥炭火薬の爆破工作により、関税徴収所があった手前の石積みエリアは完全に崩落し、奈落へと消え去っている。

 しかし、崖の強固な白灰岩盤を直接くり抜いて造られた関所の奥エリア、そしてそこへと続く「大扉」の前は、崩落を免れて無傷のまま残されていた。

 煤けた松明がパチパチと不穏な火花を散らす大扉の前では、錆びたチェインメイルを纏った灰犬団《グラウ・フンデ》の私兵たちが数人、片手剣や斧を手にするでもなく、油断しきったゆるい様子でたむろしていた。

 吊り橋が落ち、背後の崖を大きく迂回して領主の崩落の調査人がこちら側に到達するまで、物理的にどうしてもあと二時間はかかる。

 教育のまったく行き届いていない私兵の下っ端たちには、監査官が来たら自分たちがどう大変なことになるのかなど、露ほども理解できていなかった。

「おいおい、なんか吊り橋が落ちちまって、朝まで本城に帰れねえな」

「帰ったところで説教と訓練だけだろ。ここで代官様の酒でもくすねて飲んでる方がマシだぜ」

 下っ端の私兵たちは、武器を肩に担ぎ、白い地面をブーツで蹴りながら、緊張感ゼロでヘラヘラと下品な笑い声を交わしていた。

 危機感を募らせているのは、不正二重帳簿の全責任を負わされる代官と、代官から「本城にバレたら俺も貴様らも首が飛ぶぞ」と直接説明を受け、多少なりとも空気を読んでいる隊長のヘンシェルくらいであった。

 その時、外光の届かない漆黒の奈落――一歩踏み外せば谷底へと直撃する垂直の絶壁の縁から、一人の人影が、音もなくスッと姿を現した。

「だ、誰だッ!」

 門番のならず者が、ぎょっとして錆びた片手剣を抜いて構える。

 松明の赤い光に照らし出されたのは、あまりにも凄惨なほどに満身創痍の、しかし奇妙なほどに美しい少女の姿だった。

 クララ・ウララ。

 かつては一着で平民の年収が容易く吹き飛ぶ極上の黒い銀面皮鎧を誇っていた高級ドレス商の娘。だが今やその皮鎧はドロドロに焼け焦げて脱ぎ捨てられ、煤けた下着(インナー)の上から、応急的にトニアの予備の赤いマントを羽織っただけの痛々しい姿であった。

 背中やデコルテには、強制硬化させた透明な『生体表皮再生ワックス』の高分子生体膜が不気味に黒光りしており、その下には赤黒くただれた生石灰の熱傷跡が透けて見えている。

 背中をまるめ、顔はうつむいているので表情はよく見えないが、何かから身を守ろうとするかのように両腕を前に交差させ、足取りは怯えを含んで一歩一歩をこわごわと差し出すような歩き方だ。

「お、おい……、昼間の婚活騎士団のお嬢様じゃねえか!」

「なぜ生きている!? 谷底へ落とされたはずだぞ!」

 ならず者たちが、驚愕と不気味さに引きつった顔でじりじりと武器を構える。

 一方ウララの方は、男達が何気なく口にした言葉に反応して、二秒ほど真顔になった。

(婚活?!)

 軍務に従事する者として、任務遂行の妨げになるような事は当然ご法度なので、口に出した事はないが、正直言うと今回の任務は「バカみたい……」とは思っていた。

 しかし自分たちの任務が婚活だったという認識はなかった。そして……残念ながらそれを否定する材料は一つもなかったのである。

(ふむ。まあ、婚活ですね)

 ウララは深く納得すると、すぐに任務遂行に復帰した。表情筋をコントロールし、演技を再開する。

 ビクリと顔を上げた彼女の表情は、恐怖に引きつっていた。そして慌てて数歩下がると、その白い膝を泥と灰まみれの土間に屈させ、泥濘に額を擦り付けるようにして、深く平伏した。

「み、皆様には、た、大変申し訳なく……このような騒ぎを起こしてしまい、なんとお詫びしていいやら……」

 かすれた、喉の奥をひくつかせるような声だった。その細い肩はカタカタと震え、ならず者たちがよく見慣れたもの───暴力をおそれる弱者のそれだ。

「女だてらに、き、騎士だなんだともてはやされ……馬蜘蛛なんぞに乗って、調子に乗っておりました……! は、反省しておりますので、その……」

 それを呆けて見ていた兵士の一人が、嗜虐心を掻き立てられた表情をして近付いてきた。

「おいこら、ふざけんなよ。謝ってすむようなことかコラ」

 ブーツの足を上げて、土下座した女の頭の上に置く。

「てめぇらのせいで、こっちは何人か死んでんだよ。どう責任とるつもりだ? あ?」

「ひっ、い、痛いです。申し訳、申し訳ありません」

 ウララは必死の声で謝罪を繰り返す。

「なんでも、どのような償いでもさせていただきますので、ご、ご勘弁ください……」

「はあん、どんな事でもなあ。お前ちょっとツラみせろ」

 男の声に、欲情の色が混じる。男の足が、ウララの頭の上からどけられた。

 ウララはゆっくりと顔を上げ 「え、えへへ…」 上目遣いで媚を含んだ笑みを浮かべる。

 その様子に、他の兵士たちも寄ってきた。

「ふん。悪くねえツラだ。胸はねえが、それじゃあさっそく」

 とズボンの紐を緩めようとする男に、ウララは慌てて言い募る。

「あ、あの、その前に、お代官様にも、謝罪させてくださいませ」

「あ、何言ってんだ? てめぇどのツラ下げてお代官様にお目通りがかなうと───」

「そ、それでは筋が通りません。事を終えてしまったあとでは、あなた様も、困ったお立場に───ご、後生でございます。お代官様にお取次ぎくださいませ」

 それを聞いて、別の兵士がその男の肩に手をかけた。

「おい。そこは確かに、その女の言う通りだ。これだけの女を、お代官様より先に手をつけたなんて知れたら、お前……この先もやっていきたいんなら、後先ってものを考えねえと。てめぇもわかんだろ?」

「ちっ……お代官様を呼んでくる。てめぇらこそ勝手にそのクソ女に手ぇだすんじゃねえぞ」

 男は周囲の仲間を一渡り見渡して、奥の建物に入っていった。

 残されたならず者たちは、ドレスを失いインナーの上にマントを羽織っただけの、ウララのあまりにも悲惨な姿を見下ろし、やがて、その下卑た表情に品定めをするような、醜い笑みを浮かべ始めた。

「おいおい、見ろよ。昼間はあんなにお高くとまってやがったお嬢様騎士様が、下着一枚で泥まみれになって俺たちの足元に這いつくばってやがるぜ」

 一人の男が、汚れた革ブーツの先で、ウララの肩を小突くように押しやった。

「おい、もっと近くで顔を見せろよ。俺たちの慰みものになりにきたのか、あァ?」

 ウララのマントの襟元に下品な手が伸び、むごたらしく小突き回される。

「えへへ、へへ、あ、あの、か、堪忍してください。……はい、お代官様にお目通りかないましたら、へへ、あとは、皆様のお気の済むように、いかようにも」

 男の一人が戯れに腕を振り上げて殴る振りをすると

「ひぃいっ」

 ウララは頭を抱えて身を守り、ごめんなさいごめんなさいと意味もなく謝り続ける。

「おらよっ!」

 腕を振り上げた男は、辛抱たまらなくなって、そのままウララの側頭部を殴りつけた。

「うひぃぃっ!」

 ウララは情けない悲鳴を上げて横ざまに倒れたが、すぐに土下座の姿に戻り

「か、堪忍ください。後生でございます。堪忍くださいませ……」

 泣きながら謝罪を繰り返すのだった。

「ひ、ひっひっひひひ! け、傑作だぜ! あのガルプの騎士団の極上女が、命惜しさに泣いてやがるぜ! なあ!」

 男は同意を求めて、周囲の仲間たちに目を向けたが、周囲の男たちはその男から距離をとるように、一歩引いていた。

「あーあ、ホントに殴っちまいやがった」

「知らねえぞ、代官様の見分もすまねえのに、勝手に殴ったりして」

「止めようとしたけど、間に合わなかったからなあ。俺は止めようとしたけど、間に合わなかったら仕方ねえよなあ」

「俺も、俺も止めようとしたぜ。間に合わなかったけど」

「ちょっ、おい! おい、待てよてめえら。それはちょっと、汚えんじゃねえの?!」

 殴った男がオロオロとして慌てだす。

「いやでも、間に合わなかったら、仕方ねえし、こいつが勝手にやったことだし。なあ?」

「いや。いやいやいやいや、ちょっ、ちょっと待って? いっぺん落ち着こ?」

 ならず者たちの騒ぐ声が岩室に木霊する中、奥の重い石の扉が開き、脂汗をダラダラと流し、目を血走らせた代官が姿を現した。

「なんだなんだ、門が歪んで開かねえって時に騒がしい――おい、なんだその女は――」

 言いかけた代官は、大扉の前で泥濘に平伏し、部下たちに嬲られながら、自分を見上げて媚びるように卑屈に笑っている女の顔を凝視した。

 最初はそれが、誰か分からなかった。

 次にはそれが、ついさっき見た小娘どもの一人だと気付いたが、気付きながらもそれが同一人物には見えず、認識と認知の差異に代官の思考は数秒間フリーズした。

「……おい、まさか、そいつ……」

 昼間、あれほど尊大で、能面のように冷酷無比だったガルプ王国の特使。

 それが今、見る影もなくボロボロになり、泥まみれで這いつくばっている。


【第二節】


 代官の細い目が、信じられないものを見るように見開かれ、やがて、その顔にじわりと醜悪な愉悦の笑みが広がっていった。

「……ほう。誰かと思えば、昼間の、あの生意気なガルプ王国貴族のお嬢様じゃねえか。谷底の生石灰の海で溶けて死んだと思っていたが、這い上がってきたのか」

 ウララは、額を冷たい泥に擦り付け、潤んだ瞳で涙ながらに語りかけた。

「……はい。仲間の二人は、生石灰の地獄の底で、のたうち回りながら溶けて、無惨な肉塊になりました……。当方だけが、愛獣の糸に必死にしがみつき、命からがら這い上がってきたのです……。代官様、どうか、当方のこの哀れな命を、どうかお救いくださいませ……。」

 その声は完璧に掠れ、絶望に満ちていた。

 平時なら声もかけられないような高貴な麗人が、今は必死になって自分に媚び、卑屈に膝をついて平伏しているのだ。

 代官の脳内に、男としての、そして小悪党としての最上級の征服欲が、麻薬のように染み渡っていく。その麻薬はあまりにも心地よく、あまりにも甘美で───まるで毒のようだった。この甘美な毒の前には、警戒心など、あっけなく溶け崩れる。

「ほう。それで、お前は一人で何をしに来た? 命乞いか?」

「はい……おっしゃる通りでございます。代官様、あのような無駄な婚姻任務など、最初から馬鹿らしく思っておりました……。代官様。どうか当方を、プラティア亡命の『商売の右腕』として、あるいは私的な側女としてでも結構ですので、お側に置いてはいただけないでしょうか。当家はガルプ王国でも特に貿易関係に携わる世家でございます。当家の商流と、当方の頭脳を以てすれば、代官様が今回失った触媒の穴埋めなど、プラティアで容易に調達して差し上げられますわ……。あの書類も、プラティアの薬事院に現物を渡す際、当方が立ち会えば、さらなる特権を交渉して見せます……」

 任務についてはちょっとだけ本音が漏れてしまうウララだった。

「ハ、ハハハ……! 素晴らしい! さすがは商人の娘、話が早くて助かるぜ!」

 代官は喉を鳴らして笑い、ウララの両肩を掴んで乱暴に引き起こした。

「いいだろう! 触媒を失った大赤字の補填に、お前のような極上の女が手に入るなら、お釣りが来すぎるくらいだ! おい、中へ入れろ! この女を俺の亡命の旅路に同行させてやる!」

 ウララは、代官に腕を引かれながら、主人の機嫌を伺って尻尾をふる奴隷の女のように、ほのかに頬まで染め、追従の笑みを浮かべて、関所の建物内部へと足を踏み入れた。

 その背後で、ウララを殴った兵士は青い顔になり、仲間から小突かれていた。

 その時、奥の通路から、ヘンシェルが叫び声を上げて走ってきた。

「代官様! 門が、公式鉄門が開きました! やっとこじ開けましたぜ!」

「おお! ついに開いたか!」ゴルツが有頂天になって叫ぶ。

 ゴルツが関所部分を崩落させた後、裏トンネルを抜けて亡命しようとした所で直面した「思わぬ事態」とはこれであった。崩落の衝撃で鉄門のフレームが歪み、開かなくなっていたのである。

 しかし、その鉄門がようやく開いたという。ゴルツにしてみれば絶好のタイミングだ。

「よし、ぐずぐずするな! あのお嬢ちゃんも連れて、今すぐ縦坑に潜るぞ! いや、ツルハシだ。お前らはツルハシとって後から追ってこい!」

 ウララは、何が起こっているか分からないけどご主人様がご機嫌ならなんでもいい、みたいな犬のような顔で微笑みを浮かべていた。

 ウララが内心で何を思っているかは、その完璧にコントロールされた卑屈な笑みからは、微塵も読み取ることができない。 彼女は、代官の腕に頼りなげに寄り添い、暗い地下トンネルへと引きずり込まれていった。

 鉄門を潜り抜けた先――暗がりを抜けたウララの視界に、圧倒的な大空間が躍り出た。

 白灰の巨岩峰を垂直に深々とくり抜いた、直径十メートルを超える吹き抜けの大縦坑。足元からは外周三十五メートルにおよぶ極厚岩盤の大階段が、漆黒の奈落へと向かって無骨かつ優美に螺旋を描いて下り伸びている。

 一歩、その石造りの大階段へと足を踏み入れると、地上の熱気とは対極にあるひんやりとした冷気が、薄いインナー一枚の素肌を刺した。巨大な円筒空間が生み出す微小な気圧差が耳の奥をツンと圧迫し、中央の広大な吹き抜けからは、谷底の冷たい地下風が重低音の反響となって吹き上がってくる。

 暗い大空間を進みながら、ウララは、耳に届く情報を高速で整理していく。

(公式鉄門をやっとこじ開けた、とか言ってましたね……この状況で必死になってこじ開けないといけない鉄門。そんなもの、逃亡用の通路につながる門以外、ありえない。それが開かなくなっていたという事は、先の関門崩落で門のフレームが歪んだか。さもあらん。あんな事をすれば、建物に歪みが生じるのは自明の理。まるで犬のような頭の薄さですね。公式という以上は、この門に続く通路自体は、別に隠し通路というようなものではない───領主も把握している正式な通路なのでしょう。それを必死にこじ開けようとしていたのですから、隠し通路はその先にある、という事です。本来ならさっさと逃亡を始める所を、こんな事で足止めを食らっていたとは、まことに都合がよろしい。この者たちの頭の薄さに感謝という所でしょうか──)

 ウララの網膜が、代官の胸元に、『銀の小筒』が収められているのを捉えた。『特命委任執行書』はその小筒の中だ。その一方で、ウララの内耳は、大きな衝撃が発生する直前に生じる細かい圧力波が、彼女の三半規管にお馴染みの揺さぶりをかけてくるのを感じていた。

 それは遥か後方――先ほどまで彼女が立っていた大扉の方向、そして執務室の窓ガラスのあたり。

 耳を劈《つんざ》くような凄まじい物理衝撃音が、地下のトンネル内へと響き渡った。


【第三節】


 ドォォン!!

「な、なんだァッ!? 後方で何が起きた!?」

 代官が、ぎょっとして立ち止まり、振り返った。

 その頃、崩落を免れた関所の岩室広間には、凄まじい石粉の煙と瓦礫を巻き散らしながら、崖にへばりついて残っていた二階の代官執務室の窓ガラスをブチ破って、ワックスコーティングによって不気味に黒光りする、二頭の悍ましい巨大な異形が突入していた。

『鉄岩《ガンコ》』と『検体百四号《アイン》』。

 その長く強靭な八本の吸着肢をフル駆動させ、絶壁を這い上がってきた生体兵器が、牙を剥いて咆哮する。

 そして、ガンコのパイプフレーム高架鞍の上には、極限の昏睡から目覚め、闘気とアドレナリンを120%に引き上げた小柄な武神――ソニア・トニアが、ステアリングレバーを両手でガチリと握りしめ、身の丈を超える無骨な大戦斧を掲げて跨がっていた!

「害虫どもめ、我儕(わなみ)をコケにした報い、今すぐ受けてもらうぞ!」

 執務室の吹き抜けから一階を見下ろすと、そこには、奥の公式鉄門を突破して安堵していたヘンシェルや、武器を手にした灰犬団の残党たちが、驚愕のあまり顔を引きつらせて見上げる姿があった。

「あ、あのガキ!? それに、あの馬蜘蛛ども……! なぜ生きている! 傷ひとつねえぞ!?」

 ヘンシェルが、驚愕のあまり後ずさり、悲鳴を上げた。

「上だ! 二階の窓から入ってきやがった! 灰犬団の残党ども(てめえら)、迎撃しろ! 生石灰ブロワー(送風機)を真上へ向けろ、吹かせ、吹かせェ!」

 ヘンシェルの必死の指示により、一階の隅に設置された、泥炭を動力源とする蛇腹式の大型送風機が、ギギギと重い音を立てて急速駆動を始めた。

 極太のノズルが、二階の執務室にいるトニアたちに向けて直角に跳ね上げられ、関税徴収所の床に散乱していたあの「超高純度生石灰(酸化カルシウム)の白灰粉」が、目も開けられないほどの猛烈な白い噴水となって、真上へと全力噴射された!

「ハハハ! 溶けちまえ! 天井から降り注ぐ熱に焼かれてのたうち回れッ!」

 吹き上がる白い地獄の煙霧。二階の代官執務室は一瞬にして、視界を完全に遮る真っ白な生石灰の煙に包み込まれた。一階で見上げる敵は、再び馬蜘蛛たちが熱化学熱傷で狂い暴れるのを確信し、下卑た歓声を上げた。

 しかし。

「無駄な抵抗(物理的・化学的介入)です」

 その真っ白な死の灰煙の奥から、マニラのまったく抑揚のない、論文を朗読するような無機質な声が、何事もなかったかのように静かに響いた。

「高撥水性生体ワックス被膜の事前塗布により、生体表面における液相水分(分泌汗液)との接触界面は完全に遮断されています。表面自由エネルギーの著しい低減に伴う生石灰粒子の速やかな滑落・脱落が誘発され、水和発熱反応の開始条件は根本から排除(無力化)されているためです。本装備による熱化学的防御のハザード比は統計学的にゼロと判定されます」

 二階の煙の奥では、馬蜘蛛たちの外骨格からも、関節部からも、生石灰の白い粉末が熱を出す前にサラサラと滑り落ち、すべて床へと零れ落ちていく。

「うおお、なんか白い煙が下からモクモク上がってきたぞ! でも、ちっとも熱くも痒くもないのう!」

 トニアが、獰猛な八重歯を剥いて大笑いした。

「当然です。ワックス被膜の界面動態により、水和発熱のハザード比はゼロと算定されます。……しかしながら、視界(ビジュアル・フィールド)の著しい遮蔽は、戦闘行動における索敵アルゴリズムに軽微な遅延(バグ)を発生させ、極めて不快です」

 マニラがペールブルーの瞳を細めて呟く。

「そうか! 目障りで不快か! よし、我儕(わなみ)がこの鬱陶しい粉を吹き飛ばしてやるわ!」

 マニラの言葉でトニアが唯一分かったのは「不快」だけだった。目障りというのはトニアの感想で、勝手に追加したものだ。

 相変わらずステップの固定を無視して騎乗しているトニアは、己の並外れた脚力だけでガンコのサドルを挟み込み、身の丈を超える重厚な大戦斧を、まるでヘリコプターのプロペラのごとき超々高速で頭上で水平回転させ、局所的な強烈無比の人工突風(ハリケーン)を巻き起こした。

 ここまでの回転になると、もはや手の動きなど見えない。まるで手の上で大戦斧が勝手に回っているようだ。技術の極地というにしても人知を超えている。

 ビュオオオオオオオオッ!!

 轟音と共に二階で発生した強烈なダウンドラフト(押し下げる烈風)により、一階から真上に向けて吹き上げられていた生石灰の白灰粉は、一瞬で百八十度向きを変え、猛烈な逆流となって一階の岩室広間へと激しく叩き落とされた。

 吹き抜ける白い逆風。 一階でノズルを抱えて真上を見上げていた私兵たちは、まさにその無防備な顔面へと、強烈な生石灰粉のシャワーを直撃させられた。

「ぶへぇっ!? ゲホッ、ゲホッ! お、おい、粉が、粉が戻ってきてるぞ!?」

「ぎゃああああ! 目があああ! 目が痛えええええ!!」

「うわあああ! 降ってきたああああ! 逃げろ、溶ける、溶けるゥーー!」

 自らが真上に向けて全力噴射した超高純度生石灰を、自分たちの頭上から豪快に浴びるという、この上なくおバカな自爆阿鼻叫喚パニックがそこに完成した。水分を吸って急激に発熱を始めた白灰の中で、ならず者たちはパニックになり、互いにぶつかり合ってのたうち回って自滅していく。

 二階の手すりから一階のその大惨事を見下ろしたトニアは、大戦斧を肩に担ぎ直して快活に笑い声をあげた。

「フハハハ! ざまをみよ。自業自得じゃ! 悪党どもが勝手におバカに自滅していくのは傑作じゃのお!」

 トニアはサドルから跳躍し、二階の手すりから一階の広間へと、大戦斧を振りかざしてダイナミックに飛び降りた。

「よし、トドメじゃ!」

「お、おい! 上から降ってきやが――ッ!?」

 恐怖に顔を引きつらせたヘンシェルが、慌てて剣を構えるが、上空から落下するトニアの大戦斧がヘンシェルのチェインメイルごと肉体を粉砕し、壁へと叩きつける。

 マニラもまた、アインの吸着肢を駆使して二階の手すりから垂直の岩壁を素早く滑り降り、一階広間に着地すると、無表情に大型解剖刀《スカルペル・ソード》を引き抜いた。

「これより、物理的排除プロセスを執行します」

 肉厚で極限まで鋭利な刃が、解剖学の知見に基づく精密な刀裁きで、のたうち回る敵の急所へと吸い込まれていく。刃を一滑りさせるだけで気道を塞ぎ、神経束をピンポイントで遮断して敵の自由を奪う。

 残る私兵たちを一瞬にして制圧していった。

 広間が血と瓦礫で静まり返る中、マニラはサドルの上から、血に汚れた床面へとスキャナーのような視線を落とした。

「床面における、対象ウララの動的フットプリント(足跡)および引きずり痕の時系列ベクトルを解析。対象は代官、ならびに随伴サブアクター数名に同行する形で、既に公式避難トンネルの深部へと境界通過していると判定。トニア、即時の追撃シークエンスを開始します」

「うむ! 待っておれ、ウララ! 今すぐ助けに行ってやるからな!」

 トニアはマニラの言葉を一片も理解していなかったが、雰囲気で答えた。鉄岩《ガンコ》の手綱を激しく引き絞り、開き放たれた重厚な公式鉄門の奥――暗黒の地下階段へと、猛スピードで突入していく。


【第四節】


 巨岩峰を垂直に穿つ大縦坑の内部には、ひんやりとした湿気と白灰の匂いが立ち込めていた。

 直径十メートルを超える巨大な円筒状の吹き抜け空間。その無骨な岩壁は、僅かな足音すら重厚な残響音(リバーブ)へと変え、上下数百メートルにわたって不気味に響かせる巨大な音響空間でもあった。

 その外周を取り巻く大螺旋階段を、代官ゴルツと私兵たちは必死の形相で駆け下りていた。ドタドタと極厚の石段を叩く靴音が、巨大な筒の中でカカーン、カカーンと何重にも重なり合って反響する。後方から響く爆発音と絶叫の残響に、ゴルツは額から脂汗を滝のように流していた。

「さっきの爆音、クソ女どもの残党か、それとも追っ手が嗅ぎつけたのかもしれん。抜け穴へ入ったら、後の階段は泥炭火薬で爆破して落としとけ!」

「え? 火薬なんて持ってきてねえですけど」

 当然であろう。火薬を常に携帯している人なんて、兵士でもなかなかいない。

「馬鹿野郎! 今自分がどこに向かってんのかも分かってねえのか。火薬なんぞ物置にいくらでも置いてあるだろうが」

 外周三十五メートルを超える大階段を駆け下りる途中、幾つか存在する踊り場の一つ――「中層の物置エリア」。

 そこは、さらなる地下深々へと下り伸びる軍用大階段の脇にある、古い泥炭樽が乱雑に積み上げられただけの、行き止まりの薄暗い凹みであった。

 代官ゴルツは血走った目で物置の奥を指差し、乱雑に積み上げられた泥炭樽を蹴り飛ばした。

「ここだ! この三本傷の刻まれた壁を叩け!」

「えっと、先に階段に火薬を仕掛けるんすよね」

「バカか! 先に壁だ。ここが塞がったままで火薬に火なんかつけられるか!考えてモノを喋れ!」

 怒鳴られて口を尖らせた私兵(おっさん)たちがツルハシを振り下ろす。

 ウララはすぐに、そのツルハシの打撃音がおかしい事に気付いた。

 白灰岩盤の硬い拒絶音(カアン!)とは異なる、「ボスッ、サクッ」という鈍い打撃音。

 白灰の粉と粘土がポロポロと崩れ落ち、下から黒ずんだレンガの目地が剥き出しになる。

「硬くねえぞ! 粘土とレンガだ!」

 私兵たちが狂ったようにツルハシを打ち込むたび、乾燥した粘土が砂となって崩れ、レンガがゴトゴトと奥の開口部へと落ち込んでいった。

 その傍らで、非の打ち所のない卑屈な笑顔を浮かべたウララは、代官の腕に弱々しく寄り添っていた。そうしながら、視界に映る情報を、ウララの脳が次々に処理していく。

(なるほど。このレンガを壊した先が隠し通路ですか。レンガと粘土で塗り固めて、岩壁と同化するようにカモフラージュしていたのですね。この方向は―――西側の国境砦の死角である枯れ谷の岩棚でしょうか。隠し通路も把握しましたし、この薄らバカどもは私兵本隊と分断されてますし―――よい頃合いです)

「代官様! 壊れました! 抜け穴が通りましたぜ!」

 古い泥炭樽の背後のレンガ壁が崩れ落ち、大縦孔の空気よりは幾分ぬるく感じられる外気が流れ込んできた。

「よし! 行くぞ!」

 代官がウララの腕を引いて、その破壊された大穴へと飛び込もうとする。

 ウララは、その手をするりと抜いて、代官の隣にいた私兵の腰から勝手に無許可で片手剣を抜き取ると、その兵士の喉笛を、音もなく一突きにして貫いた。

「ガハッ……!」

 私兵が血を吐いて倒れる。もう一人の私兵が驚愕して武器を構えるより早く、ウララは赤マントを翻し、インナー一枚の凄惨な姿のまま一歩踏み込む。次の瞬間にはその私兵の心臓に片手剣を突き立てていた。

 暗闇の中、一瞬にして二人の護衛が血の海に沈んだ。

「ひ、ひぃぃぃッ!? お前、お前ぇぇッ!」

 代官が、腰を抜かしたように後ずさり、尻餅をついた。

 目の前に立つ少女は、先ほどまで自分の足元で涙を流し、媚びて笑っていたあの弱々しいお嬢様では決してなかった。白灰の汚れと血沫をその身に浴び、感情を極限まで削ぎ落とした、死神そのものの能面がそこにあった。

「機密の保持、および『特命委任執行書』の回収を執行します」

 裸足でインナーの上に赤マント一枚羽織っただけのウララが、静かに片手剣を構えて一歩、踏み出す。

 しかし、追い詰められた代官は、その向こうに広がる枯れ谷の岩棚に走り出た。走った逃げたとて、片側が底の見えない谷底の断崖絶壁で、道は狭隘な悪路だ。逃げ切れるものではない。ウララは特に急ぐでもなく、慎重に丁寧に、後を追いかける。

 代官は普通に走っているつもりだが、厳しい訓練で正しい姿勢を叩き込まれているウララから見ると、走って逃げる代官の後ろ姿は、ふらふらとおぼつかなく見えた。おそらく、片側が谷底という視界情報に影響されて、無意識の内に身体が反対方向に傾いてしまうのだろう。それで、何度か姿勢を崩してヒヤリとしたのに懲りたのか、代官がガバリと振り向いた。

 その右手には銀の小筒が握られていた。その手を、遥か谷底へと続く真っ暗な奈落の上に差し出す。

 と言っても、手足が短い上に、よほど谷底の高度が怖いのか、崖から十分に距離をとっているので、そのまま手を離しても、おそらく崖には落ちていかず、その手前の足元にポトリと落ちるだけだろう、とウララは思った。

 それでも地面に落とした後、コロコロ転がって谷底に落ちる可能性は、十分にある距離だ。

「ち、近寄るな。狂犬め! 一歩でも動いてみろ、この書類をこの深い谷底に投げ落としてやるぞ! そしたらなあ! そしたら……えっと、お前、アレだぞ! とんでもないぞ!」

 その書類を紛失したらどうなるか、ゴルツはよく考えたら分かっていなかった。

 ゴルツがその書類を落とす算段は成り立たない。なぜなら、その書類を落とせば、その瞬間にウララがゴルツの首も同時に落とすからだ。だがもはや助からないと判断すれば腹いせにゴルツはその書類を投げ捨てるだろう。

 頭上の切り立った山頂に、ウララは馬蜘蛛────愛馬『白妙《ブラン》』の存在を感じている。白妙《ブラン》はそこで、ウララからの指示をジッと待っていた。

 ならば何の問題もない。ウララは足を止める事なく、歩を進める。

 その瞬間だった。

 ゴルツが開けて逃げてきた背後の抜け穴――岩壁の小さな破口から、突如として「ドッ!」という重厚な空気の不連続(衝撃波)が噴き出した。

 その小さな破口が強引に押し広げられ、拳大クラスの岩塊を混じらせて白灰の粉塵を吹き散らかす。

 巨大な大縦坑の中を二トンの巨体二頭が垂直急降下したことで、行き場を失い圧縮された地下の冷気が、ピストンの如く狭い穴を砲口として外へ一気に排気されたのだ。

 ウララの羽織った赤マントが突風でバサリと大きく翻り、ゴルツのそう多くもない髪が激しく吹き煽られる。

 続いて破口から溢れ出たのは、音というよりは岩盤を揺らす地鳴りだった。

 直径十メートルの筒の中で何重にも増幅された金属爪の「ガチガチガチッ!」という打撃音が、狭い穴を通ることで圧縮され、まるで発破が弾けたかのような爆音となって外の絶壁に激しく轟いた。

「ひ、ひぎゃああっ!? 崩落――」

 山が崩れると誤認したゴルツが腰を抜かしたように尻もちをつき、頭を抱える。

 どごっ。

 内側から更に抜け穴を押し広げようとするような力が加えられ、ウララたちの足元にも微振動が伝わってきた。

 どごん!……ずずずずっ

 更に一発、強い力が加えられ、粉塵と岩塊を飛散させて、ついに穴が押し開かれた。どこかで断層が生まれてそれがズレるような、洒落にならない音が混じっている。

 粉塵漂うその穴から、ぬっと巨大な黒い異形の頭部が突っ込まれ、跨がったちびっ子武神が能天気に顔を出した。

「おー、ここにおったか!」

 『鉄岩《ガンコ》』、そして『検体百四号《アイン》』と、突如として壁面から現れた二頭の巨大な異形の質量に、代官の退路は完全に塞がれた。

「ひ、ひぎぃぃっ! 死ね、死ねぇぇッ!」

 極限の恐怖とパニックに達した代官は、絶叫し、その手の中の銀の小筒を開口部の外――枯れ谷の暗黒の絶壁へと、全力で放り投げた。

 ウララは機械のような冷たい目でそれを確認すると

「ブラン!」

 大音声で愛馬を呼んだ。

 それに声を上げるでもなく、静かに従った馬蜘蛛が、上空から落ちてくる。

 どごおぉぉん!

 石灰岩の狭い路など破壊する勢いで『白妙《ブラン》』が着地すると、当然のようにその石灰岩の狭い路は、がらぐらがらぐらとと不安になるような音を立てて崩落を始めた。

「ひ、ひぎぃぃっ! 死ぬ、死ぬぅぅッ!」

 代官が、さきほどの絶叫と対句になるような絶叫を上げて滑り落ちる。

 ウララも落下するのは同様だが、さして動揺する事もなく空中で『白妙《ブラン》』の高架型キール鞍に跨った。と言っても『固定式ステップ(ロック鐙)』をセッティングするような余裕はないので、トニアのように内股の力で鞍を挟む乗り方だ。

 『白妙《ブラン》』は、その強靭な腹部から白く太い蜘蛛糸を勢いよく射出すると、その一端を抜群の粘着力によって崖の白灰岩盤にがっちりと溶着・固定させる。

 風が耳を劈《つんざ》く。 急降下する『白妙《ブラン》』の背中で、ウララは冷静に目を凝らし、数メートル先を落下していく、眩しく光る銀の小筒へと手を伸ばした。

 シュッ!

「……キャッチ。第一要件クリア」

 ウララは白革手袋の手で見事に小筒を掴み取っていた。

 落下しながら、ウララはそのすぐ先で、悲鳴を上げながら落下していく代官に視線を移す。背景は白い粉塵が漂う真っ暗な奈落だ。

「させませんよ」

 とウララが抑揚のない声で呟いて、『白妙《ブラン》』の上から飛び降りる。

「キェ?!」

 『白妙《ブラン》』が、驚きの声をあげて蜘蛛糸を出し、ウララの腰に粘着させた。

 二トンの重さを耐える粘着力なので、こんなくっつき方でも命綱として申し分ない。

 ウララは構わず、一番空気抵抗の少ない姿勢───真っ直ぐな一本の槍の形になって、ゴルツを追いかける。落下速度が上がり、先行して落ちていくゴルツにウララがようやっと追いつきだす。

 手を伸ばすウララに気付いたゴルツは、助けにきてくれたのかと思って、その手を必死になってつかんだ。

 バツンッ!

 ウララの落下が停止し、蜘蛛糸の伸縮でミヨンミヨンと上下する。衝撃を殺す働きも兼ねているので、その上下動はスパンが大きく、ゴルツをして恐怖のどん底に叩き込んだ。

「ひいいっ!」

 ウララの片手を掴んでいる片腕に、自分の全体重が乗っているので、停止した衝撃で肩関節などとうに外れているはずだが、その痛みにすら気付かないほどの恐怖だった。

 ちなみにウララの肩は全く平気だった。鍛え方が違う。

 ゴルツが「やれ助かった」と安堵の吐息をつくのは、その上下動が半分くらいまで小さくなってからだった。

 崖の白灰岩盤に固定されていた『白妙《ブラン》』の強力な蜘蛛糸が限界まで引き絞られ、ブランブランしている『白妙《ブラン》』から、さらにウララがブランブランと垂れ下がる図である。

 ウララがゴルツを見下ろして問うた。

「あなた、お名前は?」

「ゴ、ゴルツだ」

「そう。ではゴルツ、ごきげんよう」

 ウララは、ゴルツの手を掴んでいる方とは逆の方の手に、さきほど敵兵の腰から抜き取った片手剣をまだ持っていて、その片手剣で後頭部うなじ周辺のくぼみをグッサリと貫いた。

「なっ……!」

 なんでとゴルツは言いたかったが、最後まで言えずに絶命した。

 ウララはゴルツの 絶命を確認してから、その手を離す。

 片手剣はゴルツに刺さったまま。 ゴルツの骸とともにそのまま深い奈落の底へと落ちていった。

「……ぶっころ完了。第二要件クリア」

 ウララはこのように考える。

 仕事で一旦手にかけると決まったからには、崖から落として、これで(たぶん)死ぬだろう、などと安心してはいけないのだ。

 最後までキチンとトドメを刺し、ちゃんと絶命したことを確認する。それが丁寧な仕事というものだ。

 膨月《スーパームーン》に向かって膨らんでいく丸い月を背景に、『白妙《ブラン》』がウララの糸を、ゆっくりと引き上げる。

 彼女のボロボロのインナーと、トニアの赤マントは、代官の返り血で赤く汚れていたが、その表情からは、彼女がどんな感慨をいだいているか、伺い知る事はできなかった。というか、なんだったら何も考えずに、ただ犬のようにぼーっとしているだけにも見えた。


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