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第二幕:雌伏の時間

【第一節】


 落下の凄まじい地鳴りが止み、立ち込める真っ白な生石灰の粉塵が、谷底の重苦しい湿気と混ざり合って視界をホワイトアウトさせていた。

 カルケドン白灰峡谷の底は、陽光が届かぬ不気味な薄暗がりに沈み、石灰岩の鋭い角が牙のように突き出している。

「キ、キシャアアアアアアッ! キシャアアッ!」

 三頭の馬蜘蛛――『鉄岩《ガンコ》』、『白妙《ブラン》』、『検体百四号《アイン》』が、喉を引き裂くような悲鳴を上げてのたうち回っていた。

 谷底に降り積もった大量の生石灰粉(酸化カルシウム)が、巨獣たちの全身の汗、複眼、そして気門のわずかな水分と反応し、爆発的な化学反応を開始していたのだ。

「ウララ、マニラ……! 息をしておるか! ガンコが、ガンコが熱がっておる!」

 トニアが灰まみれの顔を涙と汗で汚し、暴れ狂う鉄岩《ガンコ》の巨体を必死に抑え込もうと、パツパツの革鎧の胸元をさらに悲鳴を上げさせながら絶叫した。

「注水操作を禁止します、トニア! 対象に対する注水操作は、激しい発熱および加水分解反応を惹起する危険性が極めて高いため、完全に非推奨かつ禁止事項とします!」

 普段の無表情からは想像もつかない、しかし完璧に平坦な大音声で、マニラが怒号に近い丁寧語を叩きつけた。

「酸化カルシウム(生石灰)粒子は、液相水分と物理接触した瞬間、強烈な発熱反応(水和プロセス)により摂氏二百度を上回る熱化学エネルギー(水和熱)を定常的に放出します。非中和状態における偶発的な注水(通常の放水)は、生体高分子(筋肉組織等)を瞬時に加水分解ならびに熱凝固させ、骨格露出に至る不可逆的な熱的破壊を惹起します。すなわち、単なる注水行為は熱傷領域の指数関数的拡大を招く決定的な阻害因子にしか成り得ません!」

 トニアは涙目になりながらオロオロと、その視線をマニラとウララの間で何度も往復させた。

「『水をかけたら皮膚も筋肉も骨まで一瞬で溶けて死にます』と言っています。トニア、暴れないでください」

 ウララが緊迫した状況下でも冷徹に通訳を挟んだ。

 マニラはプラチナブロンドの縦ロールを白く汚しながらも、驚異的な沈着さで動き、ガンコの底部サドルバッグから『弱酸性中和オイル』の入った革袋を素早く引き抜いた。水を含まないこの精製油を、マニラはまず、暴れる鉄岩《ガンコ》の気門(呼吸孔)と、爛れ始めた八個の眼へと豪快に浴びせかけた。

「生体表面における熱化学界面反応を速やかに遮断《ブロッキング》します。ウララ、トニア、中和特性を有する非水系オイルを用い、全身に付着した酸化カルシウム微粉末を物理的に懸濁・除去(フラッシング)してください!」

「『オイルで粉をすべて洗い流しなさい』と言っています」

 ウララが迅速に通訳し、オイルのボトルを手にした。

 ジュワジュワと鼻を刺す異臭が立ち込めるなか、マニラはさらに大型の注射器を取り出し、暴れ狂う鉄岩《ガンコ》の頭部裏にある『第三神経節』へと、極太の針を容赦なく突き刺した。 バニラ家秘伝の強烈な神経麻酔毒が注入される。

「キュ、ゥ……」

 あれほど狂い暴れていた二トンの巨獣鉄岩(ガンコ)が、一瞬で全ての脚の力を失い、カクンと石灰の泥の中に沈み込んで昏睡状態に入った。

「ブランにも麻酔を。自傷行為による関節アライメントの崩壊を防止します」

 マニラは、『検体百四号《アイン》』の痛覚を既にペインブロックしていたため、『検体百四号《アイン》』は悲鳴を上げずに黙々とオイル洗浄を受け入れ、ウララの相棒である白妙《ブラン》もまた、マニラの迅速な穿刺によって昏睡状態へと導かれた。

「ハァ、ハァ……、なんと恐ろしい熱じゃ……。ガンコ、よく耐えてくれたのう……」

 トニアが涙を流しながら、ぐったりと眠る鉄岩《ガンコ》の頑強な脚に頬を寄せた。しかし、トニア自身も無傷ではなかった。切り詰められた革鎧の隙間に生石灰の粉が入り込み、デコルテや脇腹の皮膚をジュワジュワと焼いていた。

「トニア。治療的介入プロトコルを開始するにあたり、物理的遮蔽構造の速やかな脱着・除去手順の実施を要求します」

「トニア。『治療を行うから鎧を脱ぎなさい』と言っています」

 マニラが指示し、ウララがそれを通訳する。

 マニラは、白革手袋の手でトニアの襟首を、まるで子猫のように無表情に掴んだ。

「な、なんじゃ! ハレンチな! 我儕(わなみ)は豪傑ゆえ、このような擦り傷など唾を塗っておけば治る! 脱がせるな、触るな!」

 トニアは真っ赤になって暴れたが、ウララとマニラはそれを完全に無表情のまま、二人がかりで冷酷に押さえ込んだ。

 パチン、パチン、と金属の接続金具が情け容赦なく外され、トニアの男物の切り詰められた革鎧が剥ぎ取られていく。インナーの下着一枚にされたトニアの引き締まった腹筋、シックスパックの陰影が露わになる。その美しい褐色の肌には、生石灰による赤い化学熱傷の班がいくつも浮かび上がっていた。

 その痛々しい傷口を目にした瞬間、ウララは完璧な無表情のまま、思い出したようにぽつりと呟いた。

「……ぶっころす」

「ひぃっ!? なんじゃ、急にそんな恐ろしげな声を出すな!」

 トニアがビクッと身体を震わせ、琥珀色の瞳を丸くしてウララを睨んだが、ウララの顔は彫刻のように冷たく静まり返ったままだった。

 マニラが取り出したのは、バニラ家秘伝の『生体表皮再生ワックス』だった。

「本剤の塗布フェーズ初期において、遊離神経終末に対するきわめて高濃度なペインシグナル(強烈な刺激)の伝達が予測されますが、外気(酸素)ならびに液相水分の物理的接触界面を完全に遮断。これにより、皮膚バリアの自己再構築(強制再生)をおよそ数時間領域(一晩)で加速的に完了せしめます。トニア、一時的な痛覚刺激に対する耐性維持《セルフコントロール》を強く要請します」

「『塗る瞬間にのたうち回るほど痛いですが、一晩で傷が治るので我慢しなさい』と言っています」

 ウララが完璧な無表情のまま、淡々と通訳を重ねた。

「刺激と言っても、我儕(わなみ)はトニア家の戦士――ひぎぃぃぃぃぃぃぃぃっ!?」

 ワックスが爛れた表皮に触れた瞬間、トニアの丸い目が限界まで見開かれ、身体が弓なりに跳ね上がった。傷口に直接塩の弾丸を撃ち込まれたような悶絶級の激痛。トニアの琥珀色の瞳から、大粒の涙が滝のようにこぼれ落ちる。

「ひ、ひぐぅ……っ! 痛い、痛いぞマニラ! 我儕(わなみ)を殺す気か!」

「呼吸運動を定常維持(ホメオスタシス確保)してください。本ワックスの架橋反応(空気に触れて強靭な高分子生体膜へと相転移する硬化プロセス)が定常状態に達するまでの所要時間は、あとおよそ三十秒(ハーフミニッツ)です」

「トニア、息を止めないように。三十秒で硬化して痛みが消えるそうです」

 ウララが事もなげに通訳を口にする。

 マニラは一切の手加減をせず、泣き叫ぶトニアの豊かな胸元や太腿へと、淡々と、しかしミリ単位の狂いもなくワックスを塗りたくった。やがて、薬液は透明な人工皮膚のような強靭な膜へと変化し、あれほどの激痛が嘘のようにスーッと引いていく。

 トニアは下着姿のまま、涙目で激しく肩を揺らし、ハァハァと震えることしかできなかった。

「次はウララ、あなたの背中を見せなさい」

 マニラが、手近な中和オイルや治療用具を手際よくサドルバッグに収め、ウララを促した。

 ウララのクララ家仕込みの高級銀面皮鎧は、生石灰の水和熱によってドロドロに焼け焦げ、鋭い岩角に削られてあちこちが引き裂かれていた。ウララは、表情筋を一切動かさず、完璧な無表情のまま、焼け焦げた皮鎧を静かに脱ぎ捨てた。

 露出した彼女の背中は凄惨を極めていた。

 デコルテから、細い肩甲骨、そして美しい背筋のラインにかけて、白い生石灰の粉が皮膚の脂分と熱化学反応を起こし、皮膚組織が泡を吹いて赤黒く焼け爛れている。

 マニラは、水和熱をオイルで中和洗浄したあと、トニアに使ったものと同じ、あの「悶絶の生体表皮再生ワックス」を、ウララの無残な背中全体へ容赦なく塗り広げた。

「いたいー。いたいー」

 ウララの口から漏れたのは、抑揚の脱落した、気の抜けたような平坦な声だった。

 彼女の表情筋は、完全に彼女の意思にコントロールされるが故に、自律的な感情や感覚の伝達から完全に遮断されている。そしてそれは、激痛に対しても同様だった。

 痛みで顔をしかめるという無意識の防衛反射すら、彼女が意識的にそのようにしようと思わない限り、彼女の表情筋は決してそのように動かない。 そして今は、そのように表情筋を動かすために意識を割く必要性は全くないのだ。

 そのため、脳髄が焼き切れるような薬液の激痛を浴びても、ウララは顔をしかめることすらなく、完全に澄ましきったポーカーフェイスのままだった。

「痛みを我慢して呻く」という行為をあえて行う必要がない彼女は、ただシステムエラーの警告音を繰り返すように、気の抜けた低い声で淡々と「いたいー。いたいー」と呟き続ける。

 しかし、自律神経の拒絶反応はその限りではない。顔こそ完璧に澄ませたままであったが、その細い肩、美しい背中の皮膚全体が、ゾクゾクと激しく不気味な鳥肌(立毛筋の収縮)を立てて、激しく、震動するかのように細かく震えていた。

 その完璧な美貌と、限界突破した全身の皮膚の震えのギャップは、異様なフェティッシュさを帯びている。

 ウララの白い細い指先は、谷底の泥土を、血がじんわりと爪の隙間からにじみ出るほど強く握りしめ、地面に深い指の痕を刻んでいた。

「いたいー、いたいー、いたいー……もう痛くありません」

 人工皮膚膜がワックスの乾燥とともにカチリと硬化を完了した瞬間、ウララはピタリと声を止め、澄まし顔のまま平然と言い放った。

「合理的な判断を支持します。塗布完了」

 マニラがワックスのボトルを片付けると、ウララは、ようやく泥から指を抜き、無表情のまま、自分の胸元の焼け焦げたインナーを静かに整えた。

 谷底を抜ける、刺すように乾燥した冷たい夜風が、傷だらけの三人と三頭の昏睡する馬蜘蛛たちを包み込んでいった。


【第二節】


 谷底の這うような濃霧を掻き分け、三人と昏睡する三頭の馬蜘蛛たちは、岩壁が大きく抉れた暗い岩棚の影へと避難していた。

 そこに、同じく崩落の混乱に乗じて命からがら逃げ延びていた、あの平民の商隊が息を潜めて隠れていた。

「あ、あなた方は……先ほどの女流騎士様がた!」

 薄暗い岩棚の影から、初老の商人の代表が怯えながら声を上げ、泥まみれになりながらも凛と佇むウララたちの前に這い出てきた。

 その瞬間、マニラは完璧な無表情のまま、懐から細い注射器を抜き取って商人の首筋へと滑らせた。

「ひぎっ……!」

「社会階層的境界線に対する認識を著しく欠如させ、相互の親和的文脈が存在しない高貴なる騎士階級に対し、ダイレクトな音響音声伝達(声掛け)を行う行為は、儀礼的プロトコルに照らし極めて非倫理的かつ無礼な暴挙に該当します。極秘に指定された戦術任務における情報漏洩リスク《セキュリティーハザード》の最小化、ならびに階級秩序における自己位置認識の再学習(スタディ)を促す目的から、当該平民個体を約十二時間の時間閾値において完全に生理的機能停止(昏睡無力化)せしめ、あちらの遮蔽条件に優れた泥炭充填木樽(格納ポート)のデッドスペースへと文字通り安全に一時格納(ストレージ)します」

 マニラが首筋から注射針を引き抜くと、商人は泥の床の上へとカクンと崩れ落ち、そのまま深い眠りへと落ちた。マニラは彼の両脇を無表情のまま掴み、ずるずると引きずって、泥炭が詰まった古い木樽の隙間へと文字通り丁寧に格納した。

「な、なんじゃ……?!」

 トニアが驚いて声を上げる。

「『身分をわきまえずに話しかけてきた無礼な平民なので、機密保持と教育のために一晩眠らせて木樽の影に収納しておきます』だそうです」

 ウララが、背後のトニアへ向けて平然と翻訳を口添えした。

「そ、其儕(そのかみ)は本当に容赦がないのう……」

 トニアは、マニラの躊躇のない手際にビビって、下着姿のまま肩をすくめて後ずさった。

 一方、ウララは、煤けたクララ家仕込みのインナーの上から、応急的にトニアの予備のマントを肩から羽織り、完璧な無表情のまま冷淡に頷いた。

「マニラ。妥当な処置です」

 一般的な中級貴族にとって、平民など馬犬《うまいぬ》と同様の存在であり、極秘任務の機密保持に比べればその安全など考慮に値しないのだ。ウララは自身の空になった胸元の小筒ホルダーを無表情に指先でなぞった。

「……やはり、落下時の衝撃で、当方の『特命委任執行書』を収納した銀の小筒が脱落しています」

「ウララが保持していた『特命委任執行書』の物理的紛失ならびに外部取得は、既に否定の余地のない確定事項(ファクト)です。極秘戦術任務における機密保持セキュリティコード第二項の規定を厳密に適用すれば、当該敵対アクター(代官)ならびにその管轄下にある全サブアクター(構成員)の完全物理消滅プロセス(デストラクション)は、本国参謀本部への事前申請手続きおよび正式許認可の取得プロセスを必須要件とします。……しかしながら、現状のウララの情動(エモーション)パラメータが全員の即時物理排除(キル)を強く要請しているのであれば、私はその実戦プロセスを全面的にバックアップし、最優先任務としてリソースを配分いたします。これこそが、現状の戦術フェーズにおいて時間的遅延ならびに兵站損失を最小限に抑制する、最もロバストで合理的かつ高効率な最適解であると算定されるためです」

 マニラが、白革手袋の手を自分の太腿に乗せ、論文を朗読するような無機質な抑揚で淡々と告げた。

「ええ……。あの代官、およびその配下の残党を、塵ひとつ、分子レベルまで完全消滅させる優先順位がさらに跳ね上がりました」

 ウララの声は平坦であったが、その瞳の奥には、氷のような冷徹な殺意が結晶化していた。

 マニラは気絶した商人の懐から、折り畳まれた羊皮紙の束を無表情に抜き取った。

「拘束した平民個体の所持品(ポケット)から、西方に位置する『聖泥都市群プラティア』への密輸取引プロトコルを示す機密指示書、ならびに当該代官が作成・運用していた不正二重帳簿のオリジナル写し(データログ)を回収。直近三十日間のログにおける人員および物資の境界通過頻度(スループット)を時系列分析した結果、急激な変動率(インフレ・バースト)が観測されます。当該事象の発生要因についてですが――」

 マニラが疑問を呈そうとした言葉を引き取って、ウララが答えた。

「ああ、それはこのカルケドンの渓谷伯が引退を決めたからでしょう。代替わりのための式典があると聞いています。少し当方にも見せてください」

 マニラの横に移動して一緒に覗き込む。

「大量の食料と資材。近隣の貴族や平民どもの通行税。間違いありません。……いや、待ってください。式典が終わったのなら、当然、この代官の所にも、新領主の命を受けた算計監査官が監査に入るはず───その新領主がよっぽどの能無しでなければ、ですが。そうなれば、こんな二重帳簿をつけていて無事でいられるはずがないですから、監査の方はまだこれから、という事です。となると、あのぶっころ代官が大人しく監査を待っているわけもない。というより、トンズラこく以外の選択肢など、あるはずがないでしょう。ああなるほど」

 あるはずがないでしょうと言っている最中に答えにたどり着いたウララは、直後に納得の声を上げる。

「それで関所をふっとばす仕掛けをあらかじめ仕掛けていたのですね。帳簿の不整合を関所の崩落でウヤムヤにしようとは、また呆れるほど乱暴なやり口ではないですか。しかし、準備期間を考えると、よっぽどの急ごしらえだったはずですが、それであそこまで完璧に崩落させるというのは、クズはクズなりに有能、という事でしょうか。逃亡先はおそらくプラティアです」

 ウララは逃亡先も断定する。その理由はウララにとっては明らかだったが、その計算式が正しいかを改めて見直して確認するように、あえてその理由も言語化していく。

「ここのぶっころ代官の山賊まがいの悪名は、商人の間では有名ですからね。商人ギルドが幅を利かせるヴェルデラント自治農商連邦になど、足を向けるはずもない。となると手ぶらというわけにもいかないでしょうから、軍資金に取れるだけ取っていこうとするでしょう。この後に及んで、半分だけ領主に渡すなどと、そんなまどろっこしい事を律儀に行うような御仁でもないでしょうし」

「……どういうことじゃ?」

 トニアは、自分が何を理解できないのかも分かっていなさそうな顔で疑問を口にした。

 だがウララは、トニアが何を理解できていないのかを正確に把握している。

「あのぶっころ代官はこれまで、さきほどのように商人の積荷を押収しては中に紛れ込ませてあった密輸品を摘発して、領主とプラティアの反乱軍に半々で流していたようです。ですが今回は亡命するので、どちらにも渡さずに全部亡命資金として着服しようとした、という事です」

「なるほど、そういうことか! つまりあの代官、このおっちゃんたちの馬犬《うまいぬ》が馬蜘蛛に驚いて一斉に逃げ出しちまったせいで、一番大事な亡命用の手土産をぜんぶ失って、あんなに顔を真っ赤にしてパニックを起こしておったのじゃな!」

 トニアが、ワックスが乾いてようやく痛みが引いた二頭筋をガシガシとさすりながら、琥珀色の瞳を丸くしてポンと手を打った。

 トニアの言葉に、ウララは頷いて返しつつ、更に思考を進める。

「しかし、そうやってかき集めた大量の物資をプラティアに持っていく……どうやって? 馬鹿正直に街道なんて使っていたら、すぐに領主の追っ手に捕まってしまいます。いくらここで逃亡しないと後がないとはいえ、そんな勝算もない道を、あのぶっころ代官が選ぶでしょうか。いいえ、それはない。それではここまで準備しておいて、片手落ちです。無策となんら変わりありません。という事は、逃げ切る道が別にあるのです。……間違いありません。あのぶっころ代官、プラティアに抜ける隠し通路みたいなものを持っているはずです」

 それを聞いてマニラが常になく両目を大きく見開いた。

「当該状況認識に基づけば、事態は緊急対処段階を要する水準に達しており、遅延なき戦術行動への移行が強く要請されます」

「ええ。当方の落とした、ガルプ王国特務婚姻統制令に基づいてラガン氏を招聘する為の特命委任執行書。今現在、あれが、奴の手に渡っています。そうですね、万が一という事もあります。打てる手は打っておきましょう」

 ウララは馬蜘蛛《ブラン》の側面に下げた袋から紙とペンを取り出した。

「手紙かのう」

「ええ。プラティアには当家の仕入専門の小さな出張所があるのですが、万が一あのぶっころ代官がプラティアにたどり着いてしまった場合に備えて、少し頼み事をしておきます。……本当は、なるべくなら家の者たちを国同士の争い事に巻き込みたくはないのですが」

 細い筒にその手紙を丸めて入れ、指笛を鳴らす。 すると、白い崖に狭められた細い空から、落ちてくるものがあった。

 伝書用に特別に品種改良された鳥───伝書隼である。

 伝書隼は脚がない鳥である。常に主人の上空を飛んでいて、餌をもらう時などにこうして降りてくるのだ。降り方はその伝書隼によって様々だが、ウララの伝書隼は落ちてくるタイプだった。 それを両手で受け止める。

「伝達媒体(レター)に封入される依頼記述(タスク・リクエスト)の具体的パラメータ、ならびにその戦略的意図(ゴール)を定義してください」

 マニラがそう聞きながら、ウララが伝書隼に餌をやる様子を興味深げに眺める。

「プラティアの薬事院に、『ぶっころ代官はガルプ王国が指名手配をしているので、もしも亡命の要請があっても受け付けるな』と申し入れてもらうのです。どこまで聞き入れてもらえるかは五分五分ですが、『ぶっころ代官が反乱軍と通じている』という件と『ガルプ王国の国王勅令の任務につく者からの要請』の二段構えならば、可能性はあるはずです」

「なるほど。それは名案じゃのう」

 トニアが喜んで頷く横で、マニラもまた深く頷いて同意を示す。

「地理的非隣接性という緩衝要因が存在するにもかかわらず、対外侵略傾向が強く不確実性の高い国家主体として認識されている本国に対し、プラティア側が戦略的対立を選択するインセンティブは著しく乏しい。ましてや、一犯罪者の身柄問題を契機として武力紛争や外交破綻のリスクを甘受することは、国家理性および費用対効果の観点から首肯し難い」

「わっはっは。マニラは相変わらず何をゆーてるのか、さっぱりだのう!」

「ガルプ王国は周囲の国から短気で何をするか分からないやっかいな国だと思われているから、ぶっころ代官などを庇って揉めるような事はしないだろう、と言ってますね」

 ウララが通訳すると、トニアは衝撃を受けた顔になった。

「……我等《わにょろ》の国って、他国からはそんな認識されとるの?」

 ウララはそのセリフには特に返答せず、淡々とした声で話を戻した。

「しかしこの手も確実とは言えません。仕入の交渉とは勝手が違います。その上相手はプラティアのあの頑迷な大薬事院ですからね。うまくいかない可能性の八割は門前払いです」

「なんと、そうなのか。存外と難しいものだのう」

「あのような国家の最高級公文書(スキャンダル)は、プラティア大薬事院に持ち込めば、触媒全量を失った大赤字を補填して余りある、最高の亡命手土産になります。あのぶっころ代官は現在、プラティアでの華やかな特権階級としての余生を確信し、その隠し通路を移動している事でしょう」

「胸糞の悪い話じゃ、あのゲス土豪めが」

 トニアが、大戦斧を岩盤に激しく突き立てた。

 琥珀色の丸い瞳が、激しい怒りと闘志で燃え上がっている。

「平民を脅して、我がクッコロ騎士団の、ウララの大事な手紙を奪って逃げるなど、万死に値する悪逆非道! 我儕(わなみ)が、あやつの頭をこの大戦斧で真っ二つに叩き割ってくれるわ!」

「ええ。あの代官の喉笛をミリ単位の狂いもなく切り開き、奴の肺胞をすべて生石灰の灰泥で満たして、分子レベルで完全消滅させる必要があります。今夜、奴がプラティアへのトンネルを抜ける前に、仕留めましょう」

 ウララは、血がにじんだ自分の爪先を無表情のまま見つめ、静かに、そして完全に冷え切った声で誓った。


【第三節】


 深夜の帳が、カルケドン白灰峡谷の底をさらに深く、冷たく支配していた。 麻酔から目覚めたトニアの愛獣『鉄岩《ガンコ》』は、全身の関節部や気門の周囲に中和オイルと再生ワックスを塗られ、キチン質の裂け目を接着剤で白く固定された、痛々しい姿で岩棚に横たわっていた。

「すまぬ、ガンコ……。我儕(わなみ)が焦って無茶な突撃を命じたばかりに、其儕(そのかみ)にこれほど酷い痛みを味わせてしまったのう……」

 トニアは、パツパツの革鎧を外した下着姿のまま、鉄岩《ガンコ》の巨大な頭胸部にしがみつき、琥珀色の丸い瞳を潤ませて、小柄ながらも日々の大戦斧の鍛錬によって鋼のようにしなやかに引き締まったその手で何度もその傷だらけの甲殻を撫でた。

 鉄岩《ガンコ》は、二トンを超える岩石のような巨躯でありながら、トニアの小さな身体を押し潰さないよう、細心の注意を払いながら頭胸部をトニアに預け、一対の太い触肢を愛らしげにピコピコと動かして、トニアの首筋に甘えるように鼻先を擦り寄せた。

「おお、許してくれるか! やはり其儕(そのかみ)は、我儕(わなみ)の最高の相棒じゃ!」

 トニアが頬を真っ赤にして微笑み、鉄岩《ガンコ》の頭を優しく抱きしめ終えると、今度は近くの白い岩棚の隙間を覗き込み、ぱっと琥珀色の瞳を輝かせた。

「ウララ、マニラ! ちょっと来てみよ! 白灰岩の隙間に、お尻の大きなハナグモが巣を張っておるぞ。実に愛らしいやつじゃ!」

 トニアは、岩の割れ目から、本当に小さな、白い綿毛のようなハナグモが乗った小石をそっと持ち上げた。トニアが指先でつんつんと突くと、その小さなクモはトニアの指を伝い、彼女の鼻の頭へと「ピョン」と飛び乗った。

「お、おお、鼻に乗ったぞ……! くすぐったいのう、あはは!」

 トニアは目を内側に寄せて寄り目になりながら、鼻をひくひくさせて無邪気に笑った。

 トニアに呼び寄せられたウララとマニラは、完璧な無表情のまま、トニアの鼻の頭で寄り目になっているハナグモへと冷淡な視線を落とした。

 その無垢な寄り目のあまりの無防備さに、ウララは表情筋をピクリとも動かさぬまま、静かにトニアの目の前へ歩み寄った。

「……っ」

 ウララは、我慢しきれなくなったように無言のまま白革手袋の手を伸ばし、トニアの丸い頭をそっと、しかし執拗な力加減で愛おしそうに撫で始めた。

 それを見たマニラが、ペールブルーの瞳をわずかに大きく見開き、抑揚のない丁寧語で滑り込んできた。

「ウララ。そのように抜け駆けして対象(トニア)の可触的領域を独占することは、当チームの共同愛護協定に対する重大な生体利己主義であり、極めて非合理的なルール違反と判定されます。よって、私も直ちに対等な権利を行使し、物理的な接触を開始します」

 マニラもまた、無表情のまま反対側から白革手袋をはめた指先を伸ばし、後追いでトニアのアッシュブロンドの髪をガシガシと、執拗な速度で撫で回し始めた。

「あ、こ、こら! また其儕(そのかみ)は、わけのわからぬ難解な言葉で我儕(わなみ)を――おわっ、う、動けぬ! 鼻の上のハナグモが、我儕(わなみ)が動くと驚いて噛みつくかもしれぬから、動くわけにはいかぬではないかッ! こ、こら! 撫でるな! 撫で回すな! 我儕(わなみ)は豪傑じゃぞ!」

 トニアは寄り目のまま真っ赤になって抗議の声を上げるも、鼻の上の小さなハナグモを気遣うあまり、首から下を完全にフリーズさせて身動きが取れない。

 なす術もなく二人の白革手袋の手によって、無表情のまま無言で、しかし至高のリズムで延々と頭を撫で回されるがままになり、トニアは地団駄を踏みながら顔を真っ赤にしてフガフガと怒るしかなかった。

 彼女たちの内面では、「ハナグモのせいで身動きが取れず、無表情に撫で回されてフガフガと怒り狂うトニアの生態的愛らしさ」という捕食データが、瞬く間にギガバイト単位で蓄積され続けていた。


【第四節】


「さてこれより、対象となる代官個体に対する物理的介入要件に基づき、高所侵入経路の最適化および具体的な垂直登攀アルゴリズムの策定プロセスへ移行します」

 マニラが、自身の馬蜘蛛『検体百四号《アイン》』の側面タンクから、高撥水性の『生体ワックス』を取り出しながら、淡々と語りかけた。このワックスは、峡谷の固有種である『白灰鎧大百足(ハクカイヨロイオオムカデ)』の、あの強烈な生石灰をも滑り落とす分泌液(疎水性ワックス)を解析し、バニラ家が精製した特殊油脂ワックスである。

「馬蜘蛛における本質的機能価値は、単なる吊橋構造の踏破・走破能に限定して評価されるべきではない」

「当然です。過積載で吊り橋のロープが切れます」

 マニラの言葉にウララがほとんど脊髄反射のスピードでツッコミを入れる。

 マニラはそれをウララの独り言と判断してスルーした。

「馬蜘蛛の戦略的真価は、八本の吸着肢を駆使した鉛直面踏破能および高度な3次元機動性に帰着します。本特性の活用により、関所正面の防衛拠点を完全に迂回し、谷底から垂直に切り立つ白灰岩壁を直上へ登攀することで、二階の開口部への物理的突破(エントリー)を介した中枢後方への不意急襲を実施します」

 ウララが、トニアのマントを羽織ったまま、無表情に、しかし完璧なビジネスのトーンで計画に口を挟んだ。

「お待ちなさい。あの関所の崩落から既に1時間半がたっています。あの者どもがいつまでもあの場所にいると考えるのは楽観的過ぎます。今頃は領主の方からも調査の者が来ている頃合いでしょう。最低限の手荷物をもって早々に隠し通路に逃げ込んでいると見るべきです。何より大切なのは正確な状況把握と客観的な現状認識。まずは当方が敵を欺いて侵入し、様子を探ります。マニラとトニアは陽動として、先ほどあなたが言ったように崖を駆け上り、二階の窓に飛び込んでください。揉め事が起これば隙を突きやすい。この作戦の目的は、隠し通路の入口を発見する事とします」

「当該アプローチは、許容限度を超える不確実性および物理的・戦術的危険因子(リスクファクター)を内在させており、その妥当性には慎重な再考が求められます」

「問題ありません。当方の表情筋は完全な制御下にあり、いかなる感情も表さない代わりに、いかなる感情も表現できます。万に一つも当方の意思が漏れる事はないでしょう。それに、いざという事があれば馬蜘蛛《ブラン》を呼べばよい」

「提示された作戦計画(タクティカル・プロトコル)の論理的妥当性および実行可能性を十全に認識・承認し、以降は当該運用手順に完全準拠した行動をとります。時にウララ───」

 マニラは得意げな表情になって、手にした特殊油脂ワックスの缶容器を示して言った。

「前回の作戦行動における主たる機能不全要因(決定的阻害因子)は、生石灰(酸化カルシウム)微粉末であると特定されています。岩盤より飛散した当該粉末が馬蜘蛛の関節駆動部に沈着し、生体分泌液(汗)との急激な水和反応によって局所的な発熱および熱化学熱傷を惹起したことに起因します。本装備は、当該熱化学反応プロセスの遮断を目的とした防護的対抗措置(カウンターメジャー)となるものです」

 マニラはそう言いながら、検体百四号《アイン》、鉄岩《ガンコ》、白妙《ブラン》の三頭の関節部や吸着パッド、そして自分たちの露出した皮膚に、粘り気のある特殊生体ワックスを手際よく、しかし徹底的に塗り込み始めた。

「本撥水性ワックス被膜の塗布により、生体表面と液相水分(分泌汗液)との接触界面は完全に遮断されます。これにより、酸化カルシウム(生石灰)粉末との接触時においても水和発熱反応の開始条件が根本から排除され、表面自由エネルギーの低減に伴う粒子の速やかな滑落・脱落が誘発されます。結果として熱化学的損傷は理論上完全に無力化され、既知の機能不全プロセスの再発防止が担保されます」

「さすがはマニラ、完璧な防護ギミックです」

 ウララが、無表情のまま満足げに小さく頷いた。

 マニラは、得意げな表情からドヤ顔にバージョンアップした。

 かくして作戦はここに決まる。 生体ワックスで完全コーティングされた三頭の馬蜘蛛で、深夜、カルケドン峡谷の垂直の絶壁を這い上がり、二手に分かれる。マニラとトニアは陽動、ウララは正面から情報収集。隠し通路の場所を特定し、追撃をかけてぶっころ。

 その頃、極限の戦闘、落下、そして激痛を伴う『生体表皮再生ワックス』の治療によって体力を使い果たしたトニアは、マントを丸めた枕の上で、泥のように深い眠りに落ちていた。

 薬液が皮膚の表面で強靭な高分子生体膜へと完全に硬化し、痛みが消え去った安心感も手伝い、彼女の脳は極限の昏睡に達していた。

 クッコロ騎士団の、そしてウララのチームの鉄則として、トニアに夜番(見張り)をさせることは絶対にない。

「注意力の持続力に著しい問題があるため、トニアの見張りシフトへの配置は極めて非合理的である」という極めて妥当的な判断がなされているためだ。

「最初の夜番(見張り)は私が担当します」

 ウララが、トニアの赤マントを羽織ったまま、無表情に、しかし事務的なトーンでマニラに提案した。

「深夜の登攀に向けて、前半の二時間はマニラが睡眠を取るべきです。生化学的な医療処置を終えたあなたの脳細胞の回復こそが、明朝の生存率を最大化します」

「提案された警戒計画の妥当性を確認しました。4時間の観測期間を各2時間に二分し、前半をウララ、後半を私に配分します。本警戒計画に従い、私はこれより、睡眠深度レベル2相当の仮眠シーケンスを開始します」

 マニラは丁寧に応答し、岩壁の影へと下がった。

 こうして最初の二時間、ウララが岩棚の先端で、白灰の谷底を監視する夜番に入った。

 しかし、マニラは「睡眠深度レベル2の仮眠に入る」と言い残したにもかかわらず、自分の貴重な睡眠時間を削り、トニアの枕元へと完璧な正座の姿勢で直行していた。

 瞬きを極端に排したペールブルーのスキャナーのような瞳で、泥のように深く眠るトニアの無防備な寝顔をじっと見つめる。

 そして、白革の手袋をはめた指先を静かに伸ばし、トニアの灰で煤けたアッシュブロンドの髪を、頭頂部から毛先にかけて、音もなく、優しく、そして延々と撫で回し始めた。

「トニアの呼吸数が毎分十四回に低下。眼球の急速な運動の停止を確認しました。睡眠深度レベル3への完全移行と判定」

 マニラは、無機質な声を低く抑えて呟いた。

「骨格、および頸椎への負担を極限まで軽減し、成長期の筋肉組織の回復を最適化します」

 そう言うと、マニラはトニアの泥まみれの頭部を、自らの細い両手で静かに持ち上げ、自分の太腿の上へとそっと移動させた。

 無表情のまま、自分の膝の上にトニアの頭を固定し(膝枕)、トニアの柔らかな髪の感触を指先で存分に味わいながら、再び機械のように一定の速度で、彼女の頭を愛おしそうに撫で回し続けた。マニラにとって、睡眠を取ることよりも、トニアの頭を撫で回してその生体反応を収集することの方が、はるかに脳細胞の回復に寄与する行為であった。

 やがて前半の二時間が経過した。

 マニラは、膝の上のトニアの頭部を、元の赤マントの枕の上へと、ミリ単位の狂いもなくそっと戻した。そして立ち上がり、夜番の交代のために岩棚の先端へと歩み寄った。

「交代の時間です、ウララ」

「了解しました。では、後半の二時間は私がトニアの傍に滞留します」

 もはや二人の間で睡眠を取ることは重要視されていなかった。

 ウララは無表情のまま立ち上がり、代わりにトニアの枕元へと音もなくスライドした。

 ウララは、憧れのモントーリエ副団長の「ベリーショート」を模した疑似ショートの編み込みをわずかに整え、無表情のまま、トニアの頭上へ正座した。

 ウララは、まず最初の「一時間」、一切の表情を動かさず、完璧なポーカーフェイスのまま、トニアの頭部を撫で回し始めた。

 その撫でるテンポは、彼女が狂信するモントーリエ副団長の安静時心拍数(一分間に七十二拍)とミリ秒単位まで正確に一致していた。不規則なリズムでトニアの睡眠深度を阻害しないための、執念の精密制御である。

 一時間撫で回したあと、ウララは一度だけ、十五分間の仮眠を取った。

 そして、出発直前の最後の「一時間」を費やして、再び、泥まみれのトニアの頭部を、無表情のまま執拗に、かつ完璧な心拍リズムで撫で回し続けた。

「う、うぅ……。我儕(わなみ)は……豪傑、じゃ……」

 トニアが、自身の頭部を巡る二人の歪んだ深夜のハッキング頭ナデナデなど夢にも思わず、小さくおバカな寝息を立てて微笑んでいる。

 谷底の冷たい白灰の煙霧が、暗闇の中で静かに渦巻いていた。

 三頭の馬蜘蛛――鉄岩《ガンコ》、白妙《ブラン》、検体百四号《アイン》は、全身に黒い撥水性生体ワックスを塗られ、暗闇の中でその八個の眼を、静かに、そして凶暴に紅く輝かせていた。


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