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第一幕:婚活騎士団

【第一節】


 底知れぬ峡谷に架けられた、薄暗い木造の巨大な吊り橋。そのたもとにある石灰岩の関所。そこは、カルケドン峡谷領の代官「ゴルツ」が支配する、私的な徴税所と化していた。

 切り出しされたばかりの粗い石灰岩を積み上げた関所内部は、湿った白い粉が床や壁にこびりつき、塩を吹いたように澱んでいる。

 安物の獣脂蝋燭が燻る黒い煙と、部屋の隅に置かれた安酒の饐えた臭い、および兵たちの汗が混ざり合い、息の詰まるような重苦しい空気が満ちていた。

 天井は低く、剥き出しの梁からは泥のついた縄や鎖がぶら下がっている。

 狭い縦窓からは、眩しい白灰色の光が鋭い帯となって差し込み、宙を舞う無数の灰の微粒子を白く浮かび上がらせていた。

 その窓の向こうには、少しでも足を踏み外せば一瞬で命を失う、目眩がするほどの絶壁と、ギィギィと風に軋む巨大な木造の吊り橋が横たわっている。

「おい、耳の穴をかっぽじってよく聞け、馬犬のクズどもめ」

 石灰岩の長机に泥のついたブーツを乗せ、不機嫌そうに安物の短剣で爪の垢を削っている男がいた。

 この男が、カルケドン峡谷領代官のゴルツである。

 油ぎった黒髪を後ろに撫で付け、小汚い毛皮のベストを着た彼は、冷酷な光を宿した細い目で、目の前で平伏している旅の商人を見下ろしていた。

 ゴルツの背後には、錆びたチェインメイルを着込み、片手剣や斧を携えた十数人のならず者たち――峡谷伯の私兵でありながら、裏では強盗や略奪を繰り返す雇われの山賊くずれ、灰犬団《グラウ・フンデ》が、品定めをするような目で下卑た笑みを浮かべて控えている。

 関所の外には、馬車の車体ほどもある巨大な駄獣『馬犬(うまいぬ)』が十数頭、重い小麦樽を背負わされたまま、怯えたように長い耳を伏せ、白い地面を踏み鳴らしていた。

 彼ら旅の商人は、本来であれば安全な「本道の第1大橋」を通る予定だった。しかし数日前、不自然なほどタイミングよく発生した長雨による岩盤崩落で通行止めになり、やむなくこの悪名高い、ゴルツの管轄する「第3大吊り橋」へと迂回させられたのだ。

「昨日からな、峡谷伯の代替わりに伴う『臨時の峡谷保全税』が適用されてんだ。今までの八倍だ。払えねえというなら、その馬犬の積荷はすべて、カルケドン領への『担保』として没収する」

「だ、代官様、積荷を調べることだけは……! これはただの平民が食いつなぐための、湿気た安小麦でございます! 樽を乱暴に扱えば、中身が傷んでしまいます!」

 商人の代表である初老の男が、関所の白い土間に額を擦り付けながら、悲痛な声を上げた。

 ただ財産を没収される恐怖にしては、商人の声は異常なほど細く震えていた。初老の額からは脂汗が滝のように流れ、白い土間の灰泥を湿らせていく。その視線は、関所の奥にうず高く積み上げられようとしている、馬犬の背から下ろされた小麦樽に、縫い付けられたように張り付いていた。

 ゴルツは、爪を研いでいた短剣をピタリと止め、眉を不快そうにひそめた。

「おい、じじい。俺は税が払えなきゃ『担保』として積荷を没収するとは言ったが……中身を『調べる』だの『乱暴に扱う』だの、一言も言ってねえぞ」

「ひっ……!」

「ただの小麦の没収を恐れるにしちゃあ、妙にフライングが過ぎるじゃねえか。何をそんなに焦っている?」

 ゴルツの部下が不審そうに睨みつけると、商人は喉をヒクつかせ、強張った指先で自らの衣服を必要以上にきつく握りしめた。

「め、滅相もございません! 没収だけは、没収だけは何卒ご容赦を! この小麦はただの平民が冬を越すための食糧なのです! これを失えば、私たちは飢え死にするしか……!」

 商人は必死に泥を這い、涙ながらに懇願した。

「あとな、お前のその娘を『関所の担保』として、ここに置いていくがいい。お前が金を工面して戻ってくるまで、俺たちがあたたかく『保護』してやる。もっとも、女は一晩使うと資産価値が十分の一以下に減価償却されちまうからなあ。その差額は当然補填してもらうぜ」

 灰犬団《グラウ・フンデ》の男たちが、その極悪非道な言葉にゲラゲラと下品な笑い声を上げた。商人の後ろに隠れている十代半ばの娘は、極限の恐怖から身を震わせ、父親の服の裾を強く握りしめている。

 ゴルツは立ち上がり、懐から一枚の手紙を取り出すと、長机に叩きつけた。 そこには、西の「聖泥都市群プラティア」の政府――精錬ギルド大薬事院から送られた、特殊な暗号印章が押されている。

 隣に立つ灰犬団《グラウ・フンデ》の私兵隊長――隻眼の巨漢ヘンシェルを近くに呼び寄せ、低い、焦りに満ちた声で囁きかける。

「おい、ヘンシェル。奴らの小麦樽をすべて裏の地下倉庫に運び込め。特にあの商人の樽だ。底を徹底的に探れ」

「代官殿、確かなんですかい? そんな大層な軍需物資が、こんな平民の商隊に……」

「間違いない。プラティアの薬事院から通達があった。新領主の監査官どもが明日到着する前に、この触媒を強奪し、俺たちの取り分を確保する。これまでの取引じゃ、半分は領主様に渡して、残りの半分を反乱軍に横流ししていたが……今回はその必要はねえ。明日の朝、糞真面目な税理野郎どもがこの関所に踏み込んでくる前に、強奪した金塊と触媒をすべて裏トンネルに放り込み、俺たちは全部持ってプラティアへ亡命するんだ。あっちの薬事院に触媒を全量持ち込めば、一生遊んで暮らせるだけの特権と金が手に入る。グズグズするな!」

 ゴルツには最初から後ろ暗い所があった。

 プラティアの反乱が本格化してきた頃から、このカルケドン白灰峡谷を通る商人が、たびたびその反乱軍に、密かに『触媒』と呼ばれる軍需物資を送り届けるようになっていた。

 その動きを察知したプラティアの薬事院が、カルケドン白灰峡谷の領主に、この流れを阻止するように依頼してきたのである。

 ゴルツも、代官として何度かその密輸を暴き、反乱軍に流れるはずだった軍需物資を押収した。本来ならばこれらの徴収物は全て領主に引き渡さなくてはならない。領主はこれをプラティアの薬事院に流す契約をしているのだ。

 ところがゴルツはこれを半分にして、片方を領主に渡し、もう片方を反乱軍に流して密かに私腹を肥やしていた。この取引は裏帳簿につけて、厳密に利益を管理している。

 しかしこの度、峡谷伯の代替わりにより、ゴルツの所にも監査が入る事になった。

 それが為、ゴルツは新領主の監査官どもがこの関所に踏み込んでくる前に、全てのカタをつける必要に迫られているのだった。

 もちろん、全てを白状して縛につくつもりなどさらさらない。

 こうなっては取れるところから取れるだけ取って亡命資金とし、追っ手を巻いてプラティアにでも逃げ込むしかないのだ。

 ゴルツもゴルツなりに、けっこう追い詰められているのであった。

「へっ、そいつは傑作だ。じゃあ、サクッと片付けちまいますかね」

 ヘンシェルが下卑た笑みを浮かべ、腰の太い片手剣を引き抜いた。 その瞬間、関所の外で、これまでに聞いたこともないような「異様な駆動音」が響き渡った。


【第二節】


 それは、空気を引き裂くような激しい風切り音と、金属が擦れ合う凄まじい生体駆動音だった。

「ひ、ひぃぃぃぃぃっ! 戦蜘蛛だ! 軍隊の蜘蛛が降ってきたぞ!」

 関所の外で馬犬たちの手綱を握っていた平民の商人たちが、その巨大な影を見た瞬間、喉を引き裂くような悲鳴を上げた。

 戦蜘蛛――すなわち、貴族や軍隊、国家権力の象徴であり、逆らう平民を容赦なく踏み潰す「死の化身」。

 商人たちは、関税どころか、自分たちの小麦樽を背負わせている巨大な馬犬たちの鼻先を強引に引っ掴むと、脱兎のごとく元来た白灰の登攀路へと逃げ出し始めた。巨大な車体ほどの馬犬たちが地響きを立てて逃走していく。

「おい、あ、おいこら! 待て、逃がすな! あの馬犬の積荷を追え!」

 ゴルツが長机を蹴り飛ばして立ち上がり、関所の開け放たれた入り口から身を乗り出して絶叫した。一攫千金の莫大な取り分が泡と消えることへの焦燥が、彼の喉をヒリヒリと焼き尽くす。

「ヘンシェル、何をしてやがる! あの樽が逃げちまえば、俺たちの亡命先での取り分が――!」

「代官殿、しかし、あの蜘蛛が……!」

 ヘンシェルが、広場の中央を指差して顎を引きつらせた。

 関所の前の石灰岩の広場。

 白灰の煙が猛然と立ち込めるその中心に、陽光をその全身に浴びて輝く、三頭の「八本脚の巨獣」が、重々しく、しかし恐るべき俊敏さで着地していた。

 馬蜘蛛。

 その先頭の一頭、風にパツパツに張り詰めた男物の革鎧の胸元を揺らしながら、トニアが大戦斧を天高く掲げ、勝ち誇ったように丸い目を爛々と輝かせている。

「おのれ、平民を貪る害虫どもめ! 我儕(わなみ)はガルプ王国クッコロ騎士団、ソニア・トニアである! お前たち悪党どもを、残らず薪のように叩き割ってくれるわ!」

 トニアは、自分が一端の豪傑であることをこの戦いを通じて証明したいという、瞳の奥に宿る焦燥感そのままに、声の限りに叫んだ。

 ウララは、馬蜘蛛の高架型キール鞍に身体を締め付けられたまま、表情筋を一切動かさず、完璧な無表情のままトニアの背中を見つめた。

「トニア。発言が機密事項に抵触しています。全員抹殺するので問題はありませんがあとで厳罰です」

「なんじゃと!」

「特命委任執行書第8条に記載された、非公表指定の識別子(騎士団名称)を口外したことに対する罰則規定《ペナルティ》です。トニア。あなたは本作戦における制圧完了後、最大定格出力における物理的頭部ナデナデ、ならびに肉定的拘束を伴う膝枕の刑に処されます」

 マニラが、まったく抑揚のない声のまま、しかし極めて公的な通達のようなトーンで後ろから丁寧に応答した。

「な、なんじゃその恐ろしげな刑は!」

 関所の入り口で、ゴルツは怒りに顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。

「おい! お前ら、何がクッコロだか知らんが、俺の亡命資金の邪魔をするキ◯ガイどもを早く殺せ! 樽が、俺の触媒がどんどん逃げていくだろうが!」

 しかし、対峙する灰犬団《グラウ・フンデ》の男たちは、目の前に現れた若い女たちのちぐはぐなやり取りを見て、驚愕の表情から一転して、げらげらと腹を抱えて笑い始めた。

「ハハハ! おいおい代官殿、慌てなさんな。クッコロ騎士団だと? 聞いたこともねえな! ガルプの国境警備隊の落ちこぼれのクソ女どもが、おどろおどろしい名前をつけてイキがってやがるぜ!」

「三頭の馬蜘蛛を連れて、女三人で関所破りか? 身の程を知らねえお姫様どもだ。ちょうどいい、あの馬蜘蛛の肉はプラティアで高く売れる。触媒を失ったにしても、この女どもの体と馬蜘蛛で十分お釣りが出ますぜ。亡命前の最後の慰みものにしてやるよ!」

「笑ってる場合か馬鹿野郎! 釣りなど出るもんか。どんだけの儲けになると思ってんだボケッ! この小娘どもを生娘のまま売り払ったところで足らんわ! さっさとコイツら殺して追いかけろ!」

 ゴルツは唾を飛ばして怒鳴り散らしていた。

 隻眼の巨漢ヘンシェルが、獰猛な笑みを浮かべて部下たちに合図を送る。

 ならず者たちが、関所に備え付けられた巨大な送風機と、怪しげな樽の並ぶ仕掛けへと一斉に走り出す。

 泥炭を燃料とするボイラーが黒煙を上げて急速に駆動し、大型の蛇腹が不気味にうねり始めた。

「回せ回せ! あの不細工なクモどもに、特製の白砂をたっぷり浴びせてやれ!」

 隻眼のヘンシェルが怒鳴る。仕掛けの極太ノズルから、樽に詰まっていた超高純度の生石灰(酸化カルシウム)の乾燥微粉末が、猛烈な白い暴風となって関所の広場全体へと勢いよく吹き散らされた。

 トニアは、敵が自分の名乗りを鼻で笑い、さらに自身を侮辱したことに、頭に血が上るほどの激怒を覚えた。

「おのれ……! 我儕(わなみ)をただの女と侮るか! 行くぞ、八ツ脚(ヤツアシ)!」

 トニアは、かつて実家の兄たちから「お前のような女が使えば、反動で全身の骨が砕ける」と厳しく禁じられていた、馬蜘蛛の『限界駆動レバー(リミッターパージ)』を、全力で引き絞った。

 駆動油圧が限界を超え、馬蜘蛛の関節部から黒い作動油がブシューッと激しく噴き出す。

 その八つの眼が、狂暴なまでに真っ赤に染まり、駆動ギアが金属の軋み声を上げて、巨獣の全身の筋肉繊維が爆発的に膨れ上がった。


【第三節】


「突撃じゃああああ!」

 トニアの絶叫とともに、馬蜘蛛が弾かれたように岩盤を蹴った。

 その跳躍は、もはや生物の領域を超えていた。時速百四十キロを超える突風が周囲の白灰を猛然と吹き飛ばし、吹き荒れる生石灰の白い煙幕を真っ二つに切り裂きながら、二トンの鉄と肉の質量が、関所の広場の中心へと真っ直ぐに突き刺さる。

 ドオオオオオオオオオン!

 地鳴りのような爆音とともに、馬蜘蛛は石灰岩で頑強に組まれた関所の正面、その頑強な土間の中心へとダイレクトに着地した。

 衝撃波で関所の木製の窓枠が吹き飛び、周囲に置かれていた安酒の樽が粉々に粉砕される。

「うわっ、なんだこの白い煙は! むせるのう!」

 トニアは手綱を握りながら毒づいたが、その勢いは1ミリも衰えない。

 だが、その強行突破の代償として、馬蜘蛛『鉄岩《ガンコ》』の漆黒のキチン質の甲殻や多脚の駆動関節部、およびウララたちの衣服や露出した皮膚には、吹き散らされた極微の乾燥生石灰粉が、びっしりと白く付着していった。もっともこの時点ではまだ、生石灰はただの「乾いた粉末」に過ぎない。灰犬団《グラウ・フンデ》のならず者たちの狙いはこの後にあるのだ。

「ひぃっ、化け物め!」

「防衛線を維持しろ! 囲んで叩き潰せ!」

 灰犬団《グラウ・フンデ》の私兵たちが悲鳴を上げながらも、錆びた剣を手に一斉に群がってきた。 だが、そこはすでに、トニアにとってただの「薪割り場」だった。

「害虫どもが! 我儕(わなみ)の大戦斧の錆びにしてくれるわ!」

 トニアは、パツパツに張り詰めた革鎧から、少女のものとは思えない爆発的な背筋と二頭筋を躍動させ、大戦斧を真横に薙ぎ払った。

 凄まじい風切り音とともに、チェインメイルを着込んだ私兵二人が、鎧ごと肉塊となって関所の壁へと叩きつけられ、白い石灰の壁を鮮血で赤く染めた。

 返り血を浴びたトニアの琥珀色の目が、野獣のように爛々と輝く。

「ハハハ! 素晴らしい威力だ! これぞ豪傑の戦いよ!」

 ウララとマニラもまた、馬蜘蛛の鞍から素早く飛び降り、それぞれ細身のレイピアと、四十センチメートルに及ぶ大型解剖刀《スカルペル・ソード》を手に、トニアの背後を固めるように動いた。

 この大型解剖刀《スカルペル・ソード》は、大型獣の精密な外科執刀用として作られたため、刃は極限まで肉厚で細く、骨肉に触れるだけで容易く切り裂く圧倒的な切れ味を持つ。だが金属同士の激突を想定しておらず、防御力は皆無に近い。 敵の無骨な剣を一度でも受ければ折れるか曲がるかし、実戦での耐久寿命はせいぜい三、四回が限界という極めて高価な使い捨て品なのであった。

 マニラはそれを解剖学の知見に基づく精密な刀裁きで、敵の急所へと吸い込ませる。刃を一度滑らせるだけで気道を塞ぎ、動脈を切り、関節の結合を的確に切り離して敵の腕を「ブラン」と力なくぶら下がらせる。あるいは、腰椎の神経束をピンポイントで遮断して下半身の自由を一瞬で奪い、その場に崩れ落ちさせ――と、一切の無駄なく致命的なダメージを与えていく。

 ウララの精密な刺突がならず者の喉笛を寸分の狂いもなく貫く傍らで、マニラは刃こぼれした小刀をその場に躊躇なく投げ捨てると、懐の革袋から二本目の真新しい大型解剖刀《スカルペル・ソード》を無表情に引き抜いた。

 関所の奥に退避していた代官ゴルツは、トニアの圧倒的な蹂躙劇を目にし、額から脂汗を滝のように流して、全身の血の気が引いていくのを感じていた。

 手下どもが瞬く間に肉塊へ変貌し、手に入るはずだった全ての利益が霧散した事実。彼の薄汚い顔は、恐怖と、取り返しのつかない大損失への強烈な憤怒に醜く歪み、引きつっていた。

「おのれ、おのれ……! 俺の、俺の亡命資金をめちゃくちゃにしやがって! ヘンシェル、もうおしまいだ、仕掛けを起動しろ! 奴らごとこの関所を吹き飛ばせ!」

「へへっ、了解ですぜ、代官殿!」

 隻眼のヘンシェルが床板を剥ぎ取り、そこに露出していた太い一本の導火線に、手元の松明の炎を乱暴に押し当てた。

 それは、新領主の監査が入ると聞いてトンズラここうと腹を括った時に作った、急ごしらえの仕掛けだった。長雨の崩落に見せかけて関所ごと落とし、証拠隠滅を謀るとともに、「ゴルツたちは死んだ」と思わせて追手を振り切ろうという算段だ。

「火がついたぞ! 代官殿、走れ!」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……!

 関所の地下、白灰岩の岩盤の継ぎ目に仕掛けられていた大量の泥炭火薬が一斉に起爆し、不気味な重低音が谷全体に響き渡った。

 長雨で水分を含み、限界まで緩んでいた石灰岩の基盤が、火薬の衝撃で一瞬にしてサラサラとした白い砂へと崩壊を始める。

 関所の頑強な石灰岩の床が、真ん中から真っ二つに裂け、目眩がするような暗黒の谷底へ向けて、音を立てて崩れ落ちていく。

「な、なんだ!? 足場が崩れるぞ!」

 トニアが驚愕の声を上げ、馬蜘蛛が八本の脚で崩れゆく床に必死に爪を立てようとするが、足場そのものが砂となって滑り落ちていくため、二トンの巨体は虚しく宙に浮き上がった。

 ゴルツは、すでに崩落範囲外の安全な岩棚へと退避し、公式鉄門のある岩室広間に逃げ延びていた。

 だが、彼の顔には勝利の笑みなど微塵もない。

 手に入るはずだった膨大な軍需物資(触媒)をすべて失い、命からがら逃げ出す羽目になったのだ。大損失に対するやり場のない怒りで、苦虫を噛み潰したような表情になり、ゴルツは奈落へ落ちていく馬蜘蛛を見下ろして怒声を張り上げた。

「思い知ったかクソ女ども! 脚が多いのがどんだけ偉いのか知らねえが、足場が丸ごと揺れれば、貴様らの自慢の蜘蛛も、ただの不細工な虫ケラだ!」

 崩落する岩石と、巻き上がる真っ白な塵の向こう、真っ逆さまに谷底へと落下していくトニアは、己の敗北や死の恐怖よりも、そのゴルツの侮辱に対して、喉が張り裂けんばかりの怒声で絶叫した。

「何がブサイクな虫ケラじゃ! ブサイクなのは其儕(そのかみ)の方じゃ! ほとんどの虫ケラは、其儕(そのかみ)と違って、何百倍も可愛らしいわぁぁぁぁぁぁぃぃぃぃぃぃ……ッッッ……」

 そのトニアのズレ切った野生の叫び声は、関所ごと崩落する凄まじい轟音の中に、虚しくかき消されていった。


【第四節】


 ドオオオオオオオオオオオオオン!

 カルケドン白灰峡谷の底。 落下した石灰岩の巨塊が激しく衝突し合い、凄まじい地鳴りとともに、辺り一面に濃密な「白灰粉」の煙霧がホワイトアウトとなって立ち込めていた。

「ハァ、ハァ……、ウララ、マニラ……無事か……!」

 トニアは崩落の衝撃で泥と白い灰にまみれながら、咄嗟に蜘蛛糸を飛ばして岩棚に取り付いた馬蜘蛛の高架型キール鞍から、這うようにして身を起こした。

 周囲は、視界が数センチメートル先も見えないほどの白い霧に包み込まれている。

 だが、その空気は異常な熱を帯び始めていた。

 キシャアアアアアアアアアア!

 馬蜘蛛が、喉を引き裂くような悲鳴を上げてのたうち回っている。

 原因は、彼らの全身にびっしりと付着していた、あの「乾燥した生石灰(酸化カルシウム)の粉末」だった。

 落下した凄まじい衝撃と緊張により、馬蜘蛛たちは興奮の極みに達し、その全身の皮膚組織(外骨格の隙間)から大量の「分泌汗液」をブツブツと噴き出していた。さらに、谷底は長雨の湿気によって、大気そのものが水分を大量に含んでいる。

 乾燥していた生石灰の超微粉末が、馬蜘蛛たちの汗や、眼球、口内粘膜、および谷底の湿気と一瞬にして混ざり合い、摂氏二百度を超える劇的な「水和発熱反応」を爆発的に引き起こしたのだ。水分を得た瞬間、ただの白い粉末が、生化学的な皮膚組織を内側からジュワジュワと沸騰させ、焼き焦がす地獄の化学熱傷(熱化学的損傷)へと姿を変えたのである。

 暴走する自身の愛獣を抑え込むため、ウララは焼け焦げた高架型キール鞍にしがみつき、両手で太い油圧式ステアリングレバーと神経接続索を必死に引き絞っていた。トニアもマニラも、同様に暴れ狂うそれぞれの騎獣を抑えるために死力を尽くしていた。

 白灰の立ち込める暗闇の中、ウララの顔は一見すると冷徹な能面のままで、微塵の起伏も伝えていなかった。

「最大出力を維持。ブラン、鎮静シグナルを受信しなさい」

 口から漏れる音声は、平時と変わらぬ極めて事務的で静かな通達であった。だが、彼女の両手は、すでに激しい化学熱傷で神経系統が狂乱している『白妙《ブラン》』を宥めるには、あまりにも強引に、かつ力任せにステアリングレバーを引き絞り続けていた。

 すでに過熱してフリーズしかけている馬蜘蛛《ブラン》の脳は、送り続けられるフル出力の『鎮静指令』を受け付けず、レバーへの入力をカチカチと押し込むたびに、余計に白目を剥いて不規則に巨大な脚をバタつかせる。

 挽回の目がない状況で強引に押し進めようとするウララの手元が、ほんの数ミリだけ狂った。

 体重をレバーに預けすぎた彼女の右足が、ステップから滑り落ちる。

 その瞬間、馬蜘蛛《ブラン》の巨大な腹部が激しくのたうち回り、ウララの細い身体はサドルから大きく投げ出されかけた。

「――っ」

 レバーにしがみついて落下こそ免れたものの、その激しい反動により、彼女の纏っていたクララ家仕込みの一着で平民の年収が容易く吹き飛ぶ最高級の銀面皮鎧が、鋭利な石灰岩の角に凄まじい音を立てて擦り付けられ、引き裂かれた。

 ジュワジュワと熱化学反応を起こしている生石灰の粉末が、破れた革の隙間に容赦なく押し込まれ、ウララの肩からデコルテにかけての真っ白な肌が、瞬時にジュクジュクと赤くただれ上がる。

 高級ドレス商の娘としての誇りも、その美しい容姿も、白灰の泥と化学熱傷によって無残に汚されていく。

 それでも、彼女の美貌はピクリとも歪むことはなかった。ただ、冷え切った無表情のまま、血の滲むような力でステアリングレバーを握り締め、荒い息を吐くだけであった。

「トニア、ウララ。一時的戦術的撤退(タクティカル・リトリート)を提案します。当該化学熱傷領域における高熱暴露および強アルカリ性白灰物質との接触を定常維持することは、馬蜘蛛の多脚関節駆動系、ならびに有機接続繊維(筋肉構造)に対し、不可逆的熱力学的破壊、ならびに重大な機能不全(スタック)を惹起するハザード比率が想定限界値を超過すると推測されます」

 マニラが、プラチナブロンドの完璧な縦ロールを灰で白く汚しながら、淡々と二人の腕を引っ張り、丁寧に応答した。

「くそう! くそう! くそう! よくもッ! よくもよくもよくもッ……!」

「……」

 涙を浮かべて悔しがるトニアも、能面のような無表情のウララも、その指示におとなしく従う。

 トニアにはマニラの言っている事の半分も分からなかったが、撤退すべき事だけは分かった。

「戦術的撤退シーケンスの即時開始を宣言します。生体機動体(馬蜘蛛)の出力を最小限に抑制して環境ノイズへの同調を図り、峡谷低層の死角領域への迅速な遷移を開始してください」

 傷だらけの馬蜘蛛を何とか宥め、三人は濃霧の白灰のなかを這うようにして、ゴルツの関所から離れた谷底の闇へと退避していった。



 *



 一方、崩落を免れた第3大吊り橋のたもと。

 代官ゴルツは、瓦礫の山となった関所の跡地を見下ろしていた。

 手に入るはずだった膨大な触媒と金塊をすべて失い、命からがら逃げ出す羽目になったのだ。一攫千金の手土産を不意にされた猛烈な怒りと、屈辱に歪んだ表情のまま、ゴルツは荒い息を吐いていた。

 その足元に、崩落の衝撃でウララの破損した鎧から滑り落ちた、一本の「銀の小筒」が転がっている。

「ん……? なんだこれは」

 ゴルツがそれを拾い上げ、表面に付着した白い灰を払うと、そこにはガルプ王国の王家紋章が鮮明に刻まれた、赤い封蝋が施されていた。

 ゴルツが赤い封蝋の破片をむしり取り、中の極厚の羊皮紙を無造作に引き出して目を通す。その横から、隻眼のヘンシェルが怪訝そうに頭を近づけて覗き込んできた。

「代官殿、なんですそりゃ。お宝の地図ですかい?」

『ガルプ王国特務婚姻統制令に基づいてラガン氏を招聘する為の特命委任執行書』

 そこにはそう書いてあったが、読み書きの出来ないヘンシェルには読めない。

「宝の地図だと?」

 ゴルツはガハハと笑って答えた。

「宝の地図どころか、こいつぁ……こいつ自体がお宝だ!」

 突然機嫌良さげに笑い出したゴルツを、ヘンシェルは気味悪げに見た。

「お前も、勇者パーティが魔王を倒した後、奴らがどうしたか、話くらいは聞いてるだろう」

 一体何の話が始まったのかと思ったが、とりあえず頷いておく。

「あの、どこの国にも戻らずにそのまま、勇者パーティ全員で魔王城に住み着いちまったってゆー……」

「そう、それだ」

「全くもったいない話で。あんな大手柄をあげて戻ってくりゃあ、どこの国でも両手をあげて歓迎されて、一生遊んでくらせるほど褒美ももらえたでしょうに、一体何を考えてあんな魔物に囲まれて暮らすようなところに居座ってんだか」

「いやそれはどうだろうな。一生遊んでくらせるほどの褒美はもらえたかも知れないが、遊んでいられるような暇は、おそらくもらえないだろうよ」

「そりゃまたどういうこって?」

「てめえが王様だったらどうか、よく考えてみろ」

「……まあそうですな。あっしが王様だったら、なにはともあれハーレムですな。王様になったら選り取り見取り、やり放題でさあ」

「馬鹿野郎。いまそんな話してねーだろ。話の流れを考えやがれ」

「おっと」

 ゴルツが殴ろうとして振り上げた手を、ヘンシェルが間一髪で避ける。それを見てゴルツは、「チッ…」と小さく舌打ちを打った。

「勇者ラガンつったら、あの魔王を倒した奴だぞ。もちろん一人で倒したわけじゃねえが、何しろあの魔王だ。世界中の国が手を組んで作った大連合でも手に負えねえ。そんな奴を、あのラガン率いる数人ほどのパーティが倒しちまったんだ。そのラガンをだな、もしも仲間に引き入れる事が出来たら、王様は次に何を始めるかって話さ。決まってる。戦争だ。絶対に勝つのが確実な戦争だぞ? おっぱじめない理由がない」

「景気のいい話ですな」

「まったくだ。そんなわけで、ガルプ王がラガンを自国に引き入れようって発したのが、この執行書ってわけだが、その方法が傑作でな。あの小娘が言ってたクッコロ騎士団とかいうのな、この任務の為に、わざわざ女流騎士の中から見目のいいのばかりを選び出して編成したものらしいぞ。それで全員で嫁にしてくれって魔王城に攻めこんで、誰か一人でも懇(ねんご)ろになりゃぁめっけもん、そのツテをつたって自国の臣民にしようって寸法だ」

「えーっと、ってことなんですかい。極秘任務が、どうのこうのと大層なことを抜かしていやがりましたが、とどのつもりはあの小娘ども、婚活のために魔王城に向かってるってことですかい?」

「婚活!」

 ゴルツが素っ頓狂な声でヘンシェルの言葉を拾い、ゲハハと笑った。

「ああそうだ。まさにその通り。奴らは婚活のためにこんなところまでわざわざ出張ってきやがったのさ。貴様にしてはなかなかいいところを突いてくるじゃないか」

「へへへ、ありがとうごぜえやす。しかしそれならそれで、勝手に婚活でもなんでもすりゃあいいのに、なんでまた極秘任務なんぞと?」

「ここまで聞いてまだそんなこと言ってんのか。つくづく頭の薄いヤツだな」

 ゴルツが呆れたように溜息をついた。だが別に不機嫌な様子ではない。

「そこまでしてラガンを引き入れようとしてるなんて事がバレたら、『これから世界を相手に侵略戦争するつもりだ』って宣言してるようなもんだろうが。そうなったらほかの国も黙ってねえ。特に隣国のローゼンバルト公国は穏やかじゃねえだろうな。暗躍がお家芸のあの国の事だ。婚活は当然邪魔してくるだろうし、ガルプ王国へのバッシングも焚き付けて回るだろう。つまり、バレたらろくなことがない、って事だ」

「なるほど」

 興味のない話になってきたので、ヘンシェルは適当に相槌を打った。

「それでその、この婚活の書類が、なんでお宝なんです?」

「チッ。強請(ゆす)り強請(たか)りをナリワイにしてるようなてめえでも、話がでかくなると頭が働かねえか。こいつをプラティアの薬事院に持ち込むんだよ。そしたらおめえ、亡命先での地位と金塊は思いのまま───ってわけでもねえが、少なくとも当初の予定の三倍は見込めるはずだ。触媒を失った穴埋めにしても上等すぎるお宝さ。あの女流騎士どもは、最高の手土産を落としていってくれたってわけだ」

 ゴルツは薄汚い笑みを浮かべ、羊皮紙を再び小筒に収めると懐に深くねじ込んだ。 そして、残った灰犬団《グラウ・フンデ》の生き残りたちを急かし、奥の公式鉄門がある岩室広間へと消えていった。

 だが、ゴルツはそこで、思わぬ事態に直面する事になる。

「なんじゃこりゃあ!!」

 ゴルツの怒声が響き渡った。



 *



 谷底の暗闇。 立ち込める白い灰の煙の向こうで、ウララは焼け焦げた自身の胸元を抑え、失われた「銀の小筒」がもう手元にないことに気づいていた。

 その横で、マニラがまったく抑揚のない、しかし確実な事務通達のような口調で呟いた。

「個体ウララが所持する『特命委任執行書』の物理的喪失および第三者による不正取得が確定的に同定されました。最高機密保護規程のインシデント対応基準に準拠し、情報拡散の抑止を目的として、関与主体となる代官ならびに傘下構成員全体の不可逆的物理排除を、現行フェーズにおける最優先タスク(Primary Objective)として策定・執行します」

 その声に、ウララは何の反応も示さない。彼女の表情筋のコントロールは完全に手放されていた。

「ぶっころす」

 その、感情と表情が乖離した彫刻のような無表情のまま、闇に向かって歩き出したウララは静かに言葉を漏らした。


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