プロローグ
底知れぬ断崖絶壁がどこまでも続く、カルケドン白灰峡谷。
遥か上方から降り注ぐ強烈な陽光は、雨水に激しく削り取られた真っ白な石灰岩の岩壁に反射し、地獄のような眩しさと、刺すような乾燥した熱風となって谷底を吹き抜けていく。
白く細かな塵が、煙のように絶え間なく崖の傷口から舞い上がり、辺り一面をかすませていた。
その殺人的な色彩を失った白い垂直の世界を、三頭の巨大な異形が、驚異的な安定感で突き進んでいく。
全長六メートル、体重二トンを超えるその巨獣の名は「馬蜘蛛」。
軍馬のように人を乗せることからその名が冠されたこの生体兵器は、見た目は完全に巨大で悍ましい多脚の巨蜘蛛そのものである。
そしてそれぞれの馬蜘蛛の鞍上には、三人の少女の姿があった。
少女たちは、それぞれの馬蜘蛛のサドルに身体を深く固定し、過酷な峡谷に挑んでいた。
この騎獣は基本、一人乗りだ。その扁平な頭胸部(幅約一・二メートル)の頑丈な甲殻に固定された金属フレーム「高架型キール鞍」が立ち上がり、その頂点に革張りサドルが、浮かせた状態で設置されている。足元には、跳躍時の強烈なGに耐えるための「固定式ステップ」と、太腿をガッチリ挟み込むニーパッドが備え付けられていた。
勾配のきつい登攀路に入り、足元の吸着パッドを岩盤に激しく打ち付ける金属質な生体駆動音を響かせながら、三頭はゆっくりとした速度で崖を這い上がっていく。それでも、峡谷の底から吹き上げる突風は刺すように激しく、衣服をはらんでババババと強烈な音を立てていた。
「のう。まだ魔物は出ないのか?」
三頭の先頭を往く愛獣『鉄岩』のサドルに跨がった少女――ソニア・トニアが、身の丈を超える無骨な大戦斧の柄を両手でミシリと握りしめながら、不満げに丸い琥珀色の目をキョロキョロと動かした。
トニアはサドルの『固定式ステップ』に足をセッティングするのを勝手に省略している。彼女はただ、己の並外れたバランス感覚と強靭な大腿の力だけで、激しく揺れるサドルに平然と跨がっており、それを見事な乗りこなしだと自負しているのだ。
小柄な体躯に合わせて無理やり切り詰められた男物のプレートアーマーは、彼女の下級貴族特有の、暴力的とも言える豊かな胸の質量に激しく押し上げられ、金属の接続金具がパツパツに悲鳴を上げている。だが、彼女自身はそんな窮屈さなど微塵も気にしていない様子で、獲物を求める仔虎のように鼻を鳴らしていた。
中央を往く愛獣『白妙』のサドルで、まるで宮廷のティータイムに臨むかのように背筋を美しく伸ばしているクララ・ウララが、アッシュブラウンの極上のロングヘアを極限まで細かくタイトに編み込んだ後頭部をかすかに揺らし、冷淡な声で応じる。
その髪型は、正面から見れば彼女が狂信的なまでに憧れるモントーリエ副団長の「黒髪ベリーショート」を完璧に模倣した、無駄のないシルエットを形作っていた。
「魔物がこちら側に抜けてくるような地域はまだまだ先です」
「本行程における魔類の出現確率密度は極めて低水準に推移しており、当該エリアの地政学的特性を鑑みるに、メザルティス無窮皇国領域への遷移、ならびにその西方国境線至近における空間的近接条件が満たされない限り、アクティブな個体群の目視観測は統計学的にも極めて困難であると推測されます」
最後尾の愛獣『検体百四号』に跨がるバニラ・マニラが、瞬きを極端に排したペールブルーの瞳で、崖の下方に広がる白灰の虚無を淡々と見つめたまま、平坦な抑揚で丁寧に応じた。
登攀路をゆっくりと往く中、時折白灰の谷底から吹き上げる刺すような突風が、マニラのプラチナブロンドの縦ロールを激しく叩いている。しかし、その毛先は、まるで鉄で作られた彫刻のように、微塵もその輪郭を崩していなかった。
ウララが、クララ家お抱えの一流服飾デザイナーが立体裁断で仕立てた、一着で平民の年収が容易く吹き飛ぶ極上の黒い銀面皮鎧の襟元を、指先で優雅に整えながら言った。
「しかし、ここの土豪たちの素行の悪さは有名ですから、トニアが戦斧をふるう機会があるかもしれません」
「それは楽しみだのう。早く出てきてくれぬかな、山賊どもめ」
トニアが獰猛な八重歯を剥き、嬉々として大戦斧を掲げて周囲を見回す。その腕には、少女のものとは思えない、強靭な二頭筋の筋がボコボコと浮き上がっていた。
「トニア。現在、あなたの生体パラメータにおいて心拍数の時間変化率が毎分百二十拍(bpm)の上限閾値を逸脱しています。副腎髄質ホルモンの過剰な血中バーストに伴う中枢神経系の機能過熱、ならびに認知バイアスの亢進が生じており、注意持続能の重大な阻害兆候が確認されます。結果として、足元の石灰質微小塊に対する物理的干渉(躓き)を契機とし、把持する大戦斧の運動エネルギーがモーメント荷重として頸椎部位へ作用、致命的な力学的破壊(頚椎骨折)を惹起するハザード比率が著しく増大しています」
マニラが、トニアの首筋の頸動脈の激しい拍動を白革手袋の指先でなぞるかのように見つめながら、警告した。
トニアが、この人は何を言ってるの?という顔でウララの方を見る。
「『はしゃぎすぎて大戦斧を振り回すと、足元の小石に躓いて自分の大戦斧の重みで首の骨を折って死にますよ』と言っているのです。そしてトニア、山賊ではありません。土豪です」
ウララが通訳ついでに訂正を入れる。
「む、何か違うのか?」
「……まあ、おおむね同じですね」
ウララが視線を前方へ戻した、その瞬間だった。
「お、待て!」
トニアが鋭く声を上げ、愛獣『鉄岩』の太い手綱を引き絞る。
ウララとマニラもそれに合わせて『白妙』『検体百四号』を立ち止まらせ、反射的に身体を低くして一寸の乱れもない戦闘態勢に入った。しかし、トニアはすぐにサドルから両脚を滑らせ、身軽に白い岩棚へと飛び降りた。
ウララとマニラも立ち止まり、サドルの上で警戒を解かずにその挙動を見守る。
「なにかいるぞ。なんだあれは」
トニアが指差した先は、敵の待ち伏せにしてはあまりに不自然な、石灰岩の小さなひび割れだった。
二人が怪訝そうに彼女の指先へと目を向けると、そこには、岩盤と同化した白い粉を吹いたような、全長四十センチメートルにも達する大きめサイズの多脚生物がうごめいていた。
節々がまるで精巧な白い大板甲冑を重ね合わせたかのように頑強に重なり合い、陽光を浴びて不気味な白磁のような光沢を放っている。
「白灰鎧大百足です。カルケドン白灰峡谷の閉鎖的生態系における特異的な固有種に分類されます」
マニラが、まるで論文の記述をそのまま朗読するかのような無機質なトーンで丁寧に応答した。
「極度の乾燥、高pH領域(強アルカリ性環境)、ならびに大気中に定常浮遊する酸化カルシウム(生石灰)微粉末という、極めて苛烈な選択圧の下で獲得された進化適応プロセスです。具体的には、自身の多層構造外骨格の表皮組織より炭酸カルシウムを分泌制御し、ナノスケールの自己組織化結晶層として物理沈着させることで弾性率ならびに表面硬度を極大化。さらに、ガス交換を担う呼吸器官(気門)を除く全生体境界の極微スリットより、長鎖炭化水素を主成分とする疎水性が極めて高い無色生体ワックスを定常分泌。これに伴い、酸化カルシウム粉末との偶発的接触時に発生する水和発熱反応と物理的相互作用(界面化学反応)を完全に抑止・排除し、重力流に伴う粒子の滑落・自己クリーン能を担保した機能解剖学的構造を有しています」
「何を言ってるか全然分からぬ。しかし白いのう。白い百足など初めて見るわ。思いのほか格好いいのう。見よ、ピコピコ角を動かして、なんと愛くるしい」
トニアは、百足がうごめいている石灰岩の平らな破片を、岩盤の隙間からひょいと持ち上げた。直接皮膚には触れぬよう配慮しつつも、百足に指を差し出し、一対の白い触角が自身の指の匂いを嗅ぐように動く様子を、丸い目を輝かせて見つめる。
「当該個体は現在、温度受容チャネルを介してあなたの放射熱を感知。石片を把持している末梢組織への刺入を目的とし、毒腺に直結した第1多脚変形毒爪の貫通ベクトルをミリラジアン単位で微細補正しています。あなたの持つ超常的な表皮細胞の角質強度ならびに骨格筋コンプレックスを勘案すれば、全身性アナフィラキシーショックによる心肺停止のリスク比は基準値以下ですが、局所における重篤な化学的壊死ならびにタンパク質融解活性が進行し、向こう数百分の時間領域において極限の自発痛(激痛)を呈し、床面を激しく転倒悶絶することになります」
マニラがサドルの上から、恐るべき毒性と組織破壊のメカニズムを淡々と宣告する。
言うまでもなく、トニアはほとんど理解出来ない。トニアはウララを見た。
「その百足はどうも、トニアに毒針を刺そうとしているようですね。トニアの頑丈さなら死にはしませんが、すぐにその手を離さないと、皮膚が溶けて激痛で数時間転げ回ることになるらしいですよ」
ウララが淡々と通訳をする。
その通訳が終わるか終わらないかの瞬間、白い大百足が鋭利な鎌状の毒爪をカチリと鳴らし、岩の端を握るトニアの指先に向けて、弾丸のような速度で牙を突き出そうとした。
「おわっ!」
トニアは驚いて、反射的にその石の破片を目の前の白い岩棚の上へとパッと落とした。 コツン、と乾いた軽い音を立てて、白い粉を吹いた石の破片が岩棚の平らな石灰岩の上を数回転がり、大百足はその上でなおも威嚇するように白い無数の脚を蠢かせた。
「危うく溶かされるところじゃった。なんとコヤツ、小生意気にも我儕に立ち向かおうとしておったのか。ちっこいのに勇敢なことじゃ。ますます、愛いではないか。のう」
トニアは百足の凶暴さに怯むどころか、逆にその闘争心に深く感動し、真っ赤になった頬を緩めて、同意を求めるように後ろの二人に視線を向けた。
だが直後、百足が威嚇のために吐き散らした無色透明な毒液の残沫が、トニアのすぐ足元の石灰岩盤に滴り落ちた。
瞬間、ジュワリと耳障りな泡立ちの音を立てて鼻を突く白煙が上がり、大人が両手で抱えるほどの頑強な岩盤が、まるで熱湯をかけられた雪のように瞬時にジュクジュクと融解し、真っ黒い深い穴が穿たれた。
「うお……」
さしものトニアも、目の前の頑強な岩盤が泥のように溶けていく悍ましい光景を間近で目撃し、引きつった顔でじりりと一歩後ずさった。
その様子をサドルの上から見つめる二人のうち、ウララは完璧なポーカーフェイスを維持したまま、わずかに視線を泳がせた。
「確かに。この生き物をわざわざ取り寄せて飼う者もいると聞きますので、一般的とは言いがたいですが、一定のニーズがある事を認めるのは吝かではありません。しかし、当方の目の前にはそれ以上に可愛い存在がいるので、自ずと対比してしまう事は逆らい難く、その結果としてその虫の可愛さを認識する事が困難になっています」
「可愛くありません。可愛いのはトニアです」
マニラは珍しく強い口調で、直截的に断定した。
「また其儕どもはその様なことを! 我儕は豪傑じゃぞ!」
トニアは、大人しくなった百足を石ごと安全な崖の割れ目へとそっと押し戻すと、頬をぷくぷく膨らませて大戦斧を振り回したが、ウララとマニラは一切の表情を変えず、ただその愛らしい「捕食対象」の怒る姿を網膜に焼き付けていた。




