第8話:返ってきた白、そして沈黙の会議室
月曜日、午前八時四十二分。
いつもと同じ、駅前の古びた公衆トイレ。
けれど、三番個室の鍵を閉める俺の手は、わずかに震えていた。
先週の金曜日、俺は一線を越えた。
「名乗らない」というこの場所の暗黙のルールを破り、外の世界で、あの社長に名前を告げてしまったのだ。
「……はぁ。やっちまった。今日からどんな顔でここに来ればいいんだ……」
「……何をため息をついている、三番個室さん。月曜の朝から、まるで世界の終わりを背負っているような音だぞ」
左隣、二番個室。
「師匠」の声は、先週までと何ら変わりない。深く、落ち着いた、すべてを見透かすような響き。俺は、鏡越しに見たあの社長の顔を思い出し、背筋を正した。
「……師匠。おはようございます。……いや、ちょっと週末に、取り返しのつかないことをしてしまった気がして」
「ほう。取り返しのつかないこと、か。……人を殺したわけでもあるまい。もし名誉や恥を失ったのだとしても、それは『新しい自分』を始めるための脱皮に過ぎん」
「アニキ! おはようっす! 聞きましたよ、金曜日の『ハンカチ英雄伝』!」
右隣、四番個室から、若(山崎)が爆弾を放り込んできた。
「ちょ、若! 声がデカいって!」
「いやだって、マジでエモかったっすもん。あの雨の中、アニキが社長に突撃したの、社内でちょっとした噂になってますよ。『三課の佐藤、ついにクビ覚悟で直訴したか』って」
「直訴じゃねぇよ! ただハンカチを……」
「……あら、そんなことがあったの」
壁の向こう側、女子トイレから「女王」の声が割って入る。
「三番個室。あんた、ただの冴えない男だと思ってたけど……。意外と、ここぞという時の『間』だけは持っているみたいね。……でも、勘違いしないで。社長に顔を覚えられたってことは、これからはミス一つで命取りよ。せいぜい、震えて出社しなさい」
女王の厳しい言葉。けれど、その奥に「心配」に似た微かな温度を感じるのは、俺の気のせいだろうか。
「……さて。佐藤君」
不意に、師匠が俺を「三番個室さん」ではなく、現実の名前で呼んだ。
個室の中が、一瞬で真空になったような静寂に包まれる。
「……はい」
「……いいハンカチだった。おかげで、泥に塗れずに済んだよ。……貸しは、必ず返す。……諸君、今日もそれぞれの戦場(持ち場)へ向かおうか」
その言葉は、師匠としての激励であり、同時に社長としての「宣戦布告」のようにも聞こえた。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四人の洗浄音が、いつになく重厚に響く。
すべてを流し、俺は個室を出た。
午前十時。東西電機製作所、第一会議室。
週明けの定例会議。
重苦しい空気の中、最前列に座る徳川社長が、ゆっくりと口を開いた。
「……先週の雨は酷かったが、今日は晴天だ。仕事もそうでなくてはならん」
社長の視線が、資料に目を落としていた俺のところで止まる。
会議室にいる全員が、何事かと俺に注目した。
「佐藤君。……前へ」
「は、はい!」
俺は椅子を蹴る勢いで立ち上がり、社長の前に歩み出た。
隣で二階堂課長(女王)が、「……何が始まるのよ」と言わんばかりに眉を潜めている。少し後ろの席では、新入社員の山崎(若)が、スマホを隠しながらニヤニヤとこっちを見ている。
社長は無言で、自分のポケットから丁寧に畳まれた「何か」を取り出した。
「……これは、先週の礼だ。非常に助かった」
差し出されたのは、俺が貸した安物のハンカチ……ではなく。
最高級のシルクで設えられた、真っ白なハンカチーフだった。
隅には、俺のイニシャルである『M.S』が、銀色の糸で刺繍されている。
「……社長、これは……」
「借りたものは、利子をつけて返すのが私の主義だ。……佐藤君。君は『準備』ができている男だと、私は判断した。これからは、より大きな責任を背負ってもらうことになるぞ」
「……っ!!」
会議室に、どよめきが走る。
事実上の「抜擢」の宣言。
社長は、俺にしか分からない小さな声で、最後にこう付け加えた。
「……流してスッキリした後は、しっかり働け。三番個室の住人」
社長の瞳の奥で、あの「師匠」がニヤリと笑った気がした。
俺は、イニシャル入りのハンカチを握りしめ、深く頭を下げた。
「……はい! 全力を尽くします!」
顔を上げると、二階堂課長が少しだけ満足げに頷き、山崎は音の出ない拍手を送っていた。
公衆トイレという「聖域」で繋がった俺たちの、新しい一週間が、今、劇的に幕を開けた。
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