第9話:光と影のランウェイ、あるいはいつもの避難所
火曜日、午前八時四十三分。
昨日、全社員の前で社長から「特製ハンカチ」を授けられた俺を待っていたのは、薔薇色の未来……ではなく、針のむしろだった。
「佐藤さん、社長とどういう繋がり?」
「三課の佐藤がねぇ……。何か裏があるんじゃないの?」
廊下ですれ違うたびに聞こえるヒソヒソ声。期待よりも嫉妬の方が重いことを、俺は三十五年生きてきて初めて知った。
「ガチャン」
三番個室。
俺は逃げるように鍵を閉め、膝に顔を埋めた。
カバンの中には、あの銀の刺繍が入ったシルクのハンカチが入っている。触れることすら恐れ多いその「重み」が、今の俺には足枷のように感じられた。
「……はぁ。……もう、昨日までの平穏な日々に帰りたい……」
「……三番個室さん。今日は随分と『贅沢な悩み』を抱えているようだな。溜息の音が、昨日よりも少しだけ上等な生地の音がするぞ」
左隣、二番個室。師匠の声だ。
その声を聞いた瞬間、俺の強張っていた肩の力がふっと抜けた。ここは、俺がただの「佐藤」でいられる場所なのだ。
「師匠……。おはようございます。……ダメです。僕みたいな凡人に、あんな舞台は早すぎました。周りの目が怖くて、仕事に集中できないんです。あのハンカチ、返した方がいいんでしょうか」
「アニキ! 何言ってるんすか、もったいない!」
右隣、四番個室。若がガサゴソと音を立てながら割って入る。
「社内じゃ、アニキはもう『時の人』っすよ。僕の同期なんて『佐藤さんにコネ作っておけ』って必死っすもん。……でも、まぁ、確かにアニキ、顔色が昨日からずっと死んでますよね」
「若、お前も見てたのかよ……」
「……情けないわね」
壁の向こう側、女子トイレから女王の溜息が聞こえた。
「いい? 光が当たれば影ができるのは当然でしょ。あんたが今怖がっているのは、影の暗さじゃなくて、光の眩しさに目が眩んでいるだけよ。……社長がわざわざあんな真似をしたのは、あんたが『影』に隠れてサボるのを許さないって決めたからよ」
「女王……」
「……女王の言う通りだ、佐藤君」
師匠が、静かに、けれど強く言葉を重ねる。
「重いものは、一人で持とうとするから重いのだ。……そのハンカチは、君を縛る鎖ではない。君がいつでもここ(個室)に戻ってきて、すべてを吐き出し、また戦場へ戻るための『旗』だと思えばいい。……君がここで弱音を吐く限り、我々がその重荷の端っこを持ってやる」
「……師匠。……皆さん」
俺は、カバンの中のハンカチをそっと撫でた。
確かに重い。けれど、この壁越しの仲間たちが半分持ってくれるのだと思えば、不思議と持ち上げられない重さではない気がした。
「……よし。……流してきます。僕の、情けないビビり根性と一緒に」
「その意気だ。……今日は、いつもより『高い音』で流してやれ」
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四人の洗浄音が、俺の迷いを一掃するように、朝の空気に高らかに響いた。
個室を出て、手を洗う。
鏡の中の自分は、相変わらず冴えない三十五歳だ。
けれど、ポケットに入れたシルクのハンカチが、微かな温もりを持って俺の腰を支えてくれている。
「……おはようございます、佐藤君。今日も忙しくなるぞ」
洗面台の隣、昨日と同じように社長が立っていた。
彼は俺に視線を送ることなく、けれど確かに、その口角をわずかに上げていた。
「……はい、社長。……覚悟はできています」
俺は、一歩前へ踏み出した。
トイレの出口から差し込む朝日は、昨日よりもずっと柔らかく、俺の行く道を照らしていた。
その後ろで、山崎(若)が「あー、今日のお昼、アニキに奢ってもらおっと」と呟き、二階堂課長(女王)が「……さあ、仕事よ。三課の連中を叩き直さないと」と、いつもの「鬼の顔」に戻って歩き出す。
俺たちは、またそれぞれの役割に戻る。
けれど、心の片隅には、あの汚い個室で共有した「秘密の旗」が、誇らしげにたなびいていた。
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