第10話:静寂の二番個室、あるいは自立の朝
水曜日、午前八時四十二分。
一週間の疲れがどっと押し寄せ、足取りが鉛のように重い朝。
俺はいつものように、駅前の古びた公衆トイレの三番個室に滑り込んだ。
「ガチャン」
鍵を閉め、便座に腰を下ろす。
今日さえ乗り切れば、週末までのカウントダウンが始まる。俺は隣から聞こえてくるはずの、あの「深く、落ち着いた声」を待った。
「……師匠、おはようございます。……今日は一段と胃がキリキリしますよ」
……。
返事がない。
いつもなら、「ほう、それは出し切る準備が整った証拠だな」とか何とか、気の利いた格言が即座に飛んでくるはずなのに。
「……師匠?」
もう一度声をかけたが、二番個室からは何の音もしない。呼吸音すら聞こえない、完全なる静寂。
まさか、中で倒れているんじゃ……。俺の心臓が嫌な跳ね方をした、その時。
「……アニキ、おはようっす。……今日、師匠いないっぽいっすね」
右隣、四番個室から若(山崎)の少し不安げな声がした。
「若か。……ああ、返事がないんだ。いつもあんなに早く来ている師匠が、いないなんて」
「なんか、ペース狂うなぁ。……僕、昨日のミスで凹んでて、師匠に慰めてもらおうと思ってたのに」
若の声は、いつもの軽薄さが消え、まるで迷子のアヒルのように心細げだった。俺たちは無意識のうちに、あの二番個室の主に精神的な重しを預けていたのだ。
「……情けないわね、あんたたち」
壁の向こう側、女子トイレから「女王」の声がした。だが、その声も心なしか、いつものような「キレ」がない。
「師匠だって人間よ。たまには寝坊もすれば、風邪も引くわ。……それとも何? あの人がいないと、あんたたちは自分の悩み一つ『流す』こともできないの?」
「女王……。そんなこと言ったって、水曜日のこの時間は師匠の格言を聞くのがルーティンになってるんですよ」
「そうっすよ。師匠がいないと、なんか、ただの『汚いトイレ』にしか感じられないっていうか……」
若の言葉に、俺はハッとした。
この場所を「聖域」にしていたのは、ボロい壁でも便器でもなく、そこに集う俺たちの「対話」だったのだ。
「……いい、二人とも」
女王が、諭すように言った。
「今日は、私たちが師匠の代わりをするのよ。……三番個室、あんた、昨日社長にハンカチをもらったんでしょ? その勇気はどこへ行ったの。四番個室、あんたは若さだけが武器じゃないはずよ。……師匠がいない今日を、自分たちの足で乗り切って、明日あの人に報告してやりなさいよ」
女王の言葉は、まるで自分自身にも言い聞かせているように聞こえた。
俺は、カバンの中のシルクのハンカチをギュッと握りしめた。
「……そうですね。女王の言う通りだ。……師匠がいないからって、足踏みしてる場合じゃない」
「……っすね。僕も、今日は自分の力で『スマイル』作ってみますわ」
俺たちは、いつになく真剣な面持ちで、レバーに手をかけた。
主のいない二番個室を挟んで、三人の連帯が生まれる。
「「「せーの……」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
三つの洗浄音が重なる。
師匠の声がない分、その音はいつもより静かで、けれどどこか決意に満ちたものに聞こえた。
午前九時三十分。東西電機製作所。
社長室の前を通ると、秘書が電話で「……ええ、本日は人間ドックのため、午前中は不在です」と話しているのが聞こえた。
俺は胸をなでおろした。
なんだ、病気じゃなかった。師匠――社長も、ただの「体のメンテナンス」が必要な一人の人間だったのだ。
俺がデスクに戻ると、二階堂課長(女王)がいつもより少しだけ優しい声で、「佐藤、昨日の続き、資料まとめておいて」と言った。
隣の席では、山崎(若)がヘッドホンを外して、「佐藤さん、そこ僕が手伝いますよ」と、自分から申し出てきた。
俺たちは、師匠のいない水曜日を、それぞれの力で歩き始めていた。
昼休み、俺は空っぽの社長室の椅子をチラリと見た。
そこには誰もいない。けれど、あの三番個室で受け取った「言葉の重み」は、確かに俺の背中を支えていた。
「……明日、師匠が来たら、胸を張って『大丈夫でした』って言おう」
佐藤誠、三十五歳。
ほんの少しだけ「大人」になった水曜日。
窓の外には、雲の隙間から、午後への光が差し込み始めていた。
誰かがいないことで、その人の大切さに気づく。そんな水曜日の朝を描きました。
佐藤さん、若、女王。三人が「師匠離れ」をして自立し始める、そんな回です。
ほのぼのとした絆が、読者さんの水曜日の疲れを少しでも癒せたら嬉しいです。
木曜日、元気に戻ってきた師匠が、三人の「自立」を見て何を語るのか……。




