第11話:賢者の帰還と、心のメンテナンス
木曜日、午前八時四十二分。
昨日、二番個室が「空席」だった時のあの言いようのない不安感。俺はそれを振り払うように、祈るような気持ちで三番個室の扉を開けた。
「ガチャン」
鍵を閉め、息を潜める。
すると、待っていたのは、聞き慣れた「あの音」だった。
トイレットペーパーをカラカラと巻き取る、リズムの良い、迷いのない音。
「……おはよう、三番個室さん。昨日は少し、静かな朝だったようだな」
左隣、二番個室。
師匠の声だ。昨日までの不安が、その一言で春の雪解けのように消えていく。
「師匠……! お帰りなさい! 良かったです、本当。病気か何かかとみんなで心配してたんですよ」
「ははは! 心配をかけたな。……いや、なに、身体のメンテナンスだ。長く使い続けるには、一度すべてのパイプを点検し、油を差し直す必要があってな。……おかげで、今の私は新品同様だぞ」
師匠の声は、昨日よりもさらに張りがあり、艶やかだった。
人間ドックという名の「メンテナンス」を終えた王の帰還だ。
「師匠! おっはようございまーす! 寂しかったっすよ、マジで! アニキなんて、師匠がいないからって半泣きで踏ん張ってましたもん」
右隣、四番個室。若(山崎)が、昨日とは打って変わった調子外れの明るさで叫ぶ。
「おい、若! 半泣きなんてなってねーよ! ……まぁ、心細かったのは事実だけどさ」
「……ふん。男同士でベタベタして、見苦しいわね」
壁の向こう側、女子トイレ。女王(二階堂)の、いつもの「切れ味」鋭いツッコミが飛んできた。
「でも、師匠。昨日、この男たちは案外しっかりやってましたよ。自分たちで自分たちを鼓舞して……。少しは、あんたの格言が身についてきたんじゃないかしら?」
「ほう……。そうか、それは素晴らしい」
師匠が、心底嬉しそうに呟く。
「……三番個室さん。君は昨日、何を感じた?」
「え……。そうですね。……師匠がいないと、この個室がただの『壁』にしか見えなかったんです。でも、皆で話しているうちに、師匠がいなくても、教わったことは自分の中に残ってるんだって気づきました。……メンテナンスが必要なのは、体だけじゃなくて、心もなんだなって」
「……満点だ」
師匠が短く、けれど力強く言った。
「我々は一人で戦っているのではない。だが、最後の一押しは自分の力でやらねばならん。昨日の君たちは、立派に自力で『流した』。……さあ、リフレッシュした私の指揮で、今日は最高のフィナーレを飾ろうじゃないか」
「「「「はい!!」」」」
俺たちの返事が、狭いトイレ内に響き渡る。
今日という日が、昨日よりもずっと明るいものに感じられた。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの洗浄音が、完璧なシンクロを見せる。
それは、昨日までの不安や停滞をすべて飲み込み、新しい明日へと向かうための咆哮だった。
午前十時十五分。東西電機製作所。
エレベーターホールで、俺は打ち合わせに向かう社長と出くわした。
社長は、昨日までの疲れを一切感じさせない、エネルギッシュな足取りで歩いていた。
俺と目が合うと、社長は一度だけ足を止め、俺の胸元――あの日贈られたシルクのハンカチが覗くポケットをチラリと見た。
「……佐藤君。メンテナンス後の機械は、出力が上がる。……期待しているぞ」
「……! はい、ありがとうございます!」
社長はそれだけ言うと、颯爽と会議室へと消えていった。
その後ろを、タブレットを抱えた山崎(若)が「佐藤さん、今の聞きました!? 激アツっすね!」と小声で囃し立て、二階堂課長(女王)が「……さあ、仕事で証明しなさい」と、口角を少しだけ上げて通り過ぎる。
俺は、自分の腹の底に、新しい力がみなぎっているのを感じた。
メンテナンスを終えたのは、師匠だけじゃない。
俺たち四人の絆もまた、昨日という一日を経て、より強固にアップグレードされていた。
「……よし、やるか!」
佐藤誠、三十五歳。
木曜日のオフィスを、俺はかつてない疾走感で駆け抜けた。
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