第12話:花金の喝采、そして聖域のその先へ
金曜日、午前八時四十五分。
身体はボロボロだ。目の下にはクマが居座り、キーボードを叩きすぎた指先はかすかに震えている。
けれど、駅の公衆トイレに向かう俺の足取りは、不思議と軽かった。
「ガチャン」
三番個室。
一週間、俺の心を守り抜いてくれたこの「三センチのプラスチック壁」に、心の中で感謝を告げる。
「……はぁ。終わる。やっと、一週間が終わるぞ……」
「……いい溜息だ、三番個室さん。それは出し切った者だけが漏らす、勝利の余韻だな」
左隣、二番個室。師匠の声が、今日は一段と優しく響く。
「師匠……。ありがとうございます。……正直、月曜日の朝は、今日という日が来るなんて想像もできませんでした」
「アニキ! お疲れっす! 今週のアニキ、背中から『やり切ったオーラ』が出てて、マジで後光が差して見えましたよ!」
右隣、四番個室。若(山崎)の元気な声が、疲れ切った脳に心地よく響く。
「若。お前も、今週はよく頑張ったな。……ミスしても腐らずに、よく食らいついたよ」
「……ふん。二人して褒め合っちゃって。……でも、まぁ。三番個室。あんたの今週の働き、見てる人はちゃんと見てたわよ。……今日は定時で帰りなさい。美味しいお酒が、あんたを待ってるんだから」
壁の向こう側、女子トイレ。女王(二階堂)の言葉には、棘の代わりに「労い」が混じっていた。
俺は、ポケットの中のシルクのハンカチをそっと握りしめた。
この一週間、俺はこの場所で毒を出し、ここで言葉の武器をもらい、戦場へ向かった。
名前も知らない(半分バレているが)仲間たちの声が、どれほど俺の支えになったことか。
「……師匠。僕、今日を乗り切ったら、自分を思い切り褒めてやろうと思います」
「それがいい。……自分を愛せない者に、他者を導くことはできんからな。……さて、諸君。一週間の総仕上げだ。……最高の音を、この駅に響かせようじゃないか!」
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの洗浄音が、黄金色のファンファーレとなって轟く。
すべての疲れ、すべてのストレス、すべての未練。
それらは勢いよく渦巻く水と共に、下水道の彼方、忘却の海へと流されていった。
個室を出て、洗面台へ向かう。
そこには、手を洗う社長、山崎、そして二階堂課長が、偶然にも横一列に並んでいた。
誰も一言も発しない。
けれど、鏡越しに視線が交差した瞬間、四人の口角が、ほんの、ほんの数ミリだけ、同時に上がった。
それは、言葉を超えた「戦友」の合図。
午後五時三十分。東西電機製作所。
「佐藤君。……今週は、本当によくやってくれた」
退社間際、社長が俺のデスクの横を通り過ぎる際に、小さく、けれど重みのある声をかけてくれた。
周りの社員たちが驚いて顔を上げる中、二階堂課長が「ほら、さっさと帰りなさい」と背中を押し、山崎が「アニキ、月曜日にまた!」と手を振る。
俺は、夕暮れに染まるオフィスビルを出て、駅へと向かった。
あの古い公衆トイレの入り口が見える。
そこは、ただの汚いトイレだ。
けれど、俺にとっては、明日を生きるための勇気を補充する「聖域」。
「……さて。……何のアイス、買って帰ろうかな」
佐藤誠、三十五歳。
週末の雑踏に消えていく彼の背中は、月曜日の朝よりもずっと、大きく、そして頼もしく見えていた。
一週間、本当にお疲れ様でした。
この物語を読み終えた、あなたの心も今、スッキリと「流れて」いますように。
素敵な週末をお過ごしください!




