第33話:消えゆく壁と、繋がる未来の図面
水曜日、午前八時四十五分。
週の折り返し地点。駅のホームに降り立つと、そこには昨日までの「破壊の音」とは違う、何かが剥がれ落ちるような、乾いた高い音が響いていました。
「……ついに、あそこの壁がなくなるんだな」
三番(仮設)個室。
俺はプラスチックの壁に背中を預け、目を閉じた。仮囲いの向こう側では、親方が指示を飛ばし、俺たちが愛した「旧・三番個室」の奥壁――あの真鍮のプレートがついていた場所の解体が始まっていた。
「……三番個室さん。今日という日は、我々の『過去』が完全に『無』に帰る日だ。だが、悲しむことはない。無になるからこそ、新しい種を植えることができる」
左隣、二番(仮設)個室。師匠(社長)の声は、重機の振動に負けないほど深く、確かな足取りで俺の心に届いた。
「アニキ! 親方、さっき言ってたっすよ。『今日は歴史を掘り返す日だ』って。なんだか、宝探しみたいでワクワクするっすわ!」
右隣、一番(仮設)個室。山崎(若)の無邪気な声が、沈みがちな空気を陽転させる。
「……宝探しね。せいぜい、古い配管に振り回されないようにしなさいよ。……でも、佐藤。あの壁がなくなっても、あんたが刻んだ『溜息の跡』は、新しいビルの設計図の中にちゃんと転記しておいたから。安心していいわよ」
壁の向こう側、女王(二階堂)の、不器用ながらも最大の賛辞。
俺は、震える手で洗浄レバーを握った。この「音」を出すたびに、俺たちの魂は一つになって、消えゆく壁の向こう側へと飛んでいく。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの音が、今朝はひときわ鋭く響いた。
まるで、旧・三番個室への最後の手向け(たむけ)のように。
個室を出ようとしたその時、「おい、サラリーマン!」という親方の怒鳴り声が聞こえた。
俺は慌てて仮囲いの中へと駆け寄った。
「親方、何か問題でも!?」
「問題じゃねえ。……これを見てみろ」
親方が指差したのは、砕かれたタイルとコンクリートの隙間。
三番個室の奥壁、配管の裏側に隠されていた、わずか数センチの空間だった。
そこには、三十年以上前のものと思われる、煤けた一輪の「陶器製の小さな花瓶」と、古びた「手書きのメモ」が置かれていた。
メモには、掠れた文字でこう書かれていた。
『次にここで戦う者へ。ここは出口ではない。再び戦場へ戻るための、静かな補給基地だ。……諦めるな』
「……これ、は……」
俺が息を呑むと、後ろからゆっくりと師匠が歩み寄ってきた。
彼はそのメモを手に取り、目を細め、静かに笑った。
「……やはり、そうだったか。……佐藤君。これは、この駅のトイレが作られた時、最初の清掃員だった男が残した言葉だと言い伝えられていた。……私が三十年前に救われたのも、この言葉だったのだよ」
「師匠……」
親方はヘルメットを脱ぎ、汗を拭った。
「……チッ。いいもん見せてもらったぜ。このメモと花瓶、傷つけねえように保存しておいてやる。あんたらの作る『サード・プレイス』ってやつに、こいつを飾るんだろ?」
「……はい! 必ず!」
俺は親方と、硬い握手を交わした。
解体されるのは壁だけ。その奥に込められた「祈り」は、こうして俺たちの手に引き継がれた。
オフィスに戻り、俺は「サード・プレイス」の最終図面の中心に、その小さな花瓶を配置するマークを書き加えた。
それは、三十年前から続く「聖域」のバトンを、未来へ繋ぐための神聖な印だ。
解体完了まで、あと十一日。
物理的な壁が消えたその場所に、俺たちは目に見えない、けれど決して壊れない「希望の柱」を立てていた。
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