第32話:現場の逆襲。工事ストップの危機
火曜日、午前八時四十五分。
昨日、役員会議を突破した高揚感は、現場の荒々しい「現実」によって冷や水を浴びせられました。
駅の通路に響き渡っていたはずの破砕音が、突如として止まったのです。不気味なほどの静寂が、仮設トイレを包み込んでいました。
「……どういうことだ?」
三番(仮設)個室。
壁越しに聞こえるはずの「ガガガ」という音が消え、代わりに聞こえるのは、現場作業員たちの荒っぽい怒号でした。
「……三番個室さん。どうやら、計画の『理想』が現場の『足場』を揺らしたようだな」
左隣、二番(仮設)個室。師匠(社長)の声は冷静でしたが、そのトーンには緊張が走っていました。
「アニキ! 大変っすわ! 解体業者の親方が『こんな追加注文、聞いてねえ!』ってヘルメットを地面に叩きつけて、作業を止めてしまったっす!」
右隣、一番(仮設)個室から山崎(若)が焦った声を上げます。
どうやら、昨日承認された「旧トイレの資材(タイルや配管の一部)を再利用・保存する」という俺たちの追加プランが、効率最優先の解体現場にとって「ただの邪魔な注文」と受け取られたようです。
「……当たり前よ。彼らにしてみれば、一分一秒でも早く壊すのが仕事なんだから。あんたたちの『想い』は、現場にとっては『遅延の種』でしかないのよ」
壁の向こう側、女王(二階堂)の厳しい指摘。
だが、その声には「どうにかしなさいよ」という、俺への期待が混じっていました。
「……俺、行ってきます。親方に直接、話をさせてください」
「……待て、佐藤君。……いや、今は何も言うまい。……諸君、この沈黙を打ち破る、我々の『覚悟』を叩き出すぞ。現場を動かすのは、書類じゃない。……人間の熱量だ」
師匠の言葉に、俺はプラスチックのレバーを強く押し下げました。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
静まり返った工事現場の隣で、四つの洗浄音が虚空に響く。
それは、停滞した空気を切り裂くための、俺たちの再起動の音でした。
個室を飛び出し、俺は仮囲いのゲートへと走りました。
そこには、腕を組み、顔を真っ赤にして部下をどなりつけている頑固そうな親方がいました。
「親方! プロジェクトリーダーの佐藤です。お話を聞かせてください!」
「あんたか! あのバカげた図面を書いたのは! 壊すと決まったもんを丁寧に剥がして保存しろだと? 遊びじゃねえんだ、こっちは命がけで工期を守ってんだよ!」
親方の怒鳴り声に、周囲の作業員たちも俺を冷たく睨みつけます。
俺は一歩も引かず、懐からあの真鍮の「3」のプレートを取り出し、親方の目の前に突き出しました。
「……これを、見てください」
「……あ? なんだ、その汚ねえプレートは」
「これは、昨日まであそこにあった三番個室の魂です。親方……俺たちにとって、この解体はただの破壊じゃないんです。……新しい場所を創るための、神聖な『儀式』なんです。どうか、俺たちの想いを繋ぐために、あなたの力を貸してもらえませんか」
俺は、一ノ瀬さんから届いた「洗浄音の周波数データ」と、この二週間で俺たちがここで何を得てきたかを、必死に語りました。
理屈じゃない。現場で共に汗(と、何か別のもの)を流してきた者としての、剥き出しの言葉。
親方はしばらくプレートを凝視し、鼻を鳴らしました。
「……チッ。どいつもこいつも、情緒的なことばっか言いやがって。……おい! 若いの! あのタイルの剥離作業、一番慎重な奴を回せ! 工期が遅れたらこのサラリーマンの給料から引くからな!」
「……! ありがとうございます!」
一分後、再び重機の咆哮が響き始めました。
昨日までとは違う、どこか慎重で、慈しむような「音」に聞こえたのは、俺の気のせいでしょうか。
仮設トイレに戻ると、扉の外で師匠と二階堂課長、そして山崎が待っていました。
「……やったっすね、アニキ。親方の目、少しだけ潤んでたっすわ」
「……佐藤。あんた、いつの間にあんな熱血漢になったのよ。見てるこっちが恥ずかしかったわ」
二階堂課長はそう言いながら、満足そうに微笑んでいました。
解体完了まで、あと十二日。
現場の心すら味方につけた俺たちの「サード・プレイス」計画は、もはや止めることのできない奔流となっていました。
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