第26話:失われた箱と、非常階段の密談
水曜日、午前八時四十五分。
週の折り返し地点。昨日までの「仮設の聖域」ですら、俺たちにとっては立派なシェルターになりつつありましたが、今朝はさらなる試練が待ち受けていました。
「……嘘だろ」
駅の隅、四つ並んだプラスチックの箱の前に、非情な立て看板が置かれていた。
『定期清掃および薬剤交換のため、30分間使用禁止』。
「そんな……今、このタイミングでかよ」
俺の「デトックス・ルーティン」が崩壊した瞬間だった。
行き場を失い、改札付近をうろうろしていると、物陰から「シュッ」と鋭い指笛が聞こえた。
見ると、作業着の上着を羽織って顔を隠した師匠(社長)が、非常階段の重い扉を少しだけ開けて手招きしている。
「……三番個室さん、こっちだ」
「師匠!? ここ、立ち入り禁止じゃ……」
「緊急事態だ。箱が使えぬなら、屋根のある場所を探すまで」
俺が飛び込むと、そこにはすでに山崎(若)と、不機嫌そうに腕を組む二階堂課長(女王)がいた。
薄暗い非常階段の踊り場。コンクリートの冷たい匂いと、埃っぽさが漂う。
「アニキ、遅いっすよ! ここ、電波悪いから一ノ瀬さんの後任からのメールが届かなくて、最高の避難所っすわ!」
「……避難所っていうより、ただの不法占拠ね」
女王が溜息をつく。だが、その手には自販機で買ったであろうブラックコーヒーが握られていた。
俺たちは、個室の壁という「盾」がない状態で、初めて面と向かって(正確には暗がりで互いの顔を薄らと見ながら)円陣を組む形になった。
「……師匠。壁がないと、なんだか落ち着かないですね」
「……ふむ。確かに、我々は今まで『壁』に甘えていたのかもしれん。だが、三番個室さん。壁がないからこそ、見えるものもあるはずだ」
師匠の目が、暗闇で鋭く光る。
「例の監査役が、君のプロジェクトの『余白コスト』を削ろうと動いている。……物理的な壁が壊された今、あいつは君の心の壁まで壊しに来るだろう」
「……わかってます。でも、どう戦えばいいのか」
俺が俯くと、女王がコーヒーの缶を俺の額にピタッと押し当てた。冷たさに、思わず声が出る。
「あんた、まだそんなこと言ってるの? 監査役が狙ってるのは『数字の整合性』よ。でも、私たちが守ってるのは『現場の体温』。……いい? 向こうがロジックで来るなら、こっちは『結果』という名の物理で殴るのよ。……あんたの背中は、私が、私たちが支えてあげるわ」
「……女王」
「アニキ! 僕も、監査役のスケジュールを勝手に『最適化(という名のパンパン詰め)』にして、こっちに来る時間を稼いでおいたっす!」
山崎の不敵な笑みに、俺の肩の力がふっと抜けた。
個室という箱がなくても、この暗い階段の踊り場で、俺たちはつながっている。
「……よし。清掃が終わるのを待つ時間はないな。諸君、今日はこの『音』で、一日の気合を入れようじゃないか」
師匠が、四人分のコーヒー缶を中央に差し出した。
本物のトイレのような洗浄音は出せない。けれど、俺たちにはこれがある。
「「「「せーの……」」」」
プシュッ!!!
四つのプルタブを開ける音が、静かな非常階段に鋭く反響した。
それは、水流の音よりも繊細で、けれど炭酸のようにはじける、俺たちの新しい決意の音だった。
午前九時十分。
非常階段を出ると、清掃の終わった仮設トイレから、爽やかな洗剤の香りが漂ってきた。
俺たちは一瞥もくれず、それぞれの戦場へと歩き出す。
「……よし、物理(結果)で殴りに行くか」
俺の独り言に、後ろを歩いていた二階堂課長が、小さく、けれど確かに鼻で笑って「……行ってらっしゃい」と呟いた。
解体完了まで、あと十七日。
箱がなくても、俺たちはもう、迷わない。
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