第16話:プレゼンの結果と、一ノ瀬の意外な過去
木曜日、午前八時四十四分。
昨日のプレゼンの余韻――というよりは、爆辞を放った後の静かな恐怖が、俺の胃を雑巾のように絞り上げていた。
「ガチャン」
三番個室。
俺は膝を抱え、昨日の光景を思い出していた。一ノ瀬が「無駄だ」と切り捨てた現場の声……それをあえて中心に据えた俺のプレゼン。会場は静まり返り、一ノ瀬の顔は能面のようだった。
「……はぁ。終わったな。今日あたり、俺の給与明細が『最適化』される通知が来るかもしれない……」
「……何を弱気なことを。三番個室さん、昨日の君は、泥の中に咲く蓮の花のようだったぞ。泥を養分にし、気高く咲いていた」
左隣、二番個室。
師匠の声には、深い慈しみがあった。
「アニキ! マジで社内のチャット、昨日のアニキの話題で持ちきりっすよ! 『三課の佐藤がコンサルの化け物に一太刀浴びせた』って、伝説の勇者扱いっすわ!」
右隣、四番個室。若(山崎)の興奮した声が、沈んでいた俺の心を少しだけ浮上させる。
「……ふん。勇者というよりは、捨て身の特攻隊ね」
壁の向こう側、女王(二階堂)の、いつもの呆れたような、けれどどこか弾んだ声。
「でも、皮肉なものね。あんたが集めた現場の不満。それが逆に、業務プロセスの潜在的なリスクを暴き出したわ。経営陣は、一ノ瀬のロジックよりも、あんたの持ってきた『真実』に食いついたのよ」
「……一ノ瀬さんは、何て?」
俺が恐る恐る尋ねると、一番端から、氷のような冷気が漂ってきた。
「……不愉快だ。極めて不合理で、再現性のない成功だな。佐藤君、君のやり方はギャンブルだ。ビジネスは博打ではない」
一番個室、一ノ瀬だ。今日も彼は、この「非効率な聖域」に現れた。
「……一ノ瀬君。君はどうして、それほどまでに『無駄』を恐れるのだ?」
師匠が静かに、本質を突く問いを投げかけた。一番個室が、一瞬沈黙する。
「……私は、信じていた組織が『情』という名の不純物で崩壊するのを、この目で見てきた。誰もが仲良く、誰もが感情を優先させた結果、コストが膨れ上がり、倒産した。……無駄は、毒だ。甘い顔をすれば、組織は腐る」
一ノ瀬の声が、一瞬だけ、震えたような気がした。
完璧なサイボーグに見えた彼の背後に、かつて負った深い傷跡が見えた瞬間だった。
「……だから、あなたは一人で戦っているんですね」
俺は、気づけば壁越しに語りかけていた。
「でも、一ノ瀬さん。ここは……このトイレは、毒を出す場所なんです。毒を持っていてもいい。それをここで流して、また明日から戦う。……俺たちは、腐らないために、ここで『無駄話』をしているんですよ」
「………………」
一ノ瀬からの返答はなかった。
しかし、カチリとペンを直す音が、先ほどよりも少しだけ優しく響いた。
「……さて。毒も出し切った。一ノ瀬君、君も、少しは肩の荷を下ろしたまえ。……ここは、誰が何を吐き出してもいい場所なのだから」
師匠の合図に、俺たちはレバーに手をかけた。
一番個室からは、相変わらず沈黙が返ってくる。
けれど――。
「「「「せーの……」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの洗浄音が重なった。
そして、そのコンマ数秒後。
少しだけためらうように、一番個室からもゴォッ……と、控えめな洗浄音が追いかけてきた。
「……っ!」
俺は目を見開いた。
一ノ瀬が、初めて俺たちの「合唱」に参加したのだ。
個室を出て、洗面台へ向かう。
隣に立った一ノ瀬は、鏡越しに俺と目が合うと、すぐに視線を逸らした。
「……佐藤君。……今日の午後のミーティングだが。……現場の声とやらを考慮した『新・最適化プラン』の再構築を許可する。……私の時間を、これ以上無駄にさせないでくれ」
一ノ瀬はぶっきらぼうにそう言い残すと、足早に去っていった。
その後ろ姿は、昨日よりもほんの少しだけ、人間らしく見えた。
「……よし。やってやろうじゃん」
俺は、社長(師匠)が残した爽やかな残り香を感じながら、鏡の中の自分に気合を入れた。
解体まで、あと二十八日。
聖域を守るための戦いは、まだ終わっていない。
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