第14話:五人目の足音、一番個室の住人
火曜日、午前八時四十三分。
昨日貼られた「赤紙」の衝撃は、一晩寝ても消えることはなかった。むしろ、あの無機質な撤去予告が、現実味を帯びて俺の心に重くのしかかっている。
「ガチャン」
いつもの三番個室。
壁の傷、少し緩んだペーパーホルダーのネジ、そして独特の芳香剤の匂い。そのすべてに「余命」が宣告されたのだと思うと、空気がいつもより冷たく感じられた。
「……おはようございます、皆さん。……やっぱり、夢じゃなかったんですね。入り口の赤紙」
俺が沈痛な面持ちで切り出すと、左隣の二番個室から、師匠の深い吐息が聞こえた。
「……夢であればどれほど良かったか。だが、現実は常に我々の望まぬ方向に転がるものだ。三番個室さん、悲しむ時間は、出すものを出してからにするんだな」
「アニキ、僕、昨日の夜は一睡もできなかったっすよ。このトイレがビルになっちゃったら、僕らどこに行けばいいんすか? ネットカフェの個室じゃ、この解放感は得られないっすわ……」
右隣、四番個室の若(山崎)が、心底寂しそうに声を震わせる。
「……グズグズ言わないの。なくなるその日まで、ここは私たちの場所よ。しっかりしなさい!」
壁の向こう側、女王(二階堂)の叱咤が飛ぶ。しかし、その声には彼女特有の鋭さが欠けていた。
その時だった。
「……やれやれ。朝っぱらから、公衆便所でメロドラマか? 非生産的だな」
凍りつくような、冷徹な声。
それは、これまでほとんど主がいなかった一番端――一番個室から聞こえてきた。
俺たちは一瞬、呼吸を忘れた。
この四人以外に、この時間に、この場所の「対話」に割り込んでくる者がいるなんて想定外だった。
「……誰だ? 一番個室の主よ。我々の『儀式』に水を差すとは、無粋な真似を」
師匠の声が、明らかに警戒の色を帯びる。
「無粋? 笑わせないでくれ。私はただ、この施設の『資産価値』と『更新スケジュール』を再確認しに来ただけだ。君たちの感傷的なおしゃべりは、ノイズでしかないんだよ」
カチリ、と一番個室から精密機械のような音がした。おそらく、高級なノック式ボールペンを弄ぶ音だ。
「……資産価値? あんた、何者っすか? まさか、このトイレを壊す側の人間じゃないだろうな!」
若が食ってかかる。一番個室の男は、鼻で笑うように答えた。
「壊す、ではない。『最適化』する、と言ってほしいな。古びた感情に固執して、新しいことを拒む。典型的な、負け組の思考停止だ。……ああ、三番個室。君、佐藤誠だったかな? 君の今週の進捗予報、すでに下方修正しておいたよ。そんな顔で仕事ができるはずがないからね」
「……えっ!? なんで俺の名前を……」
俺が戦慄している間に、壁の向こうから女王の怒号が響いた。
「ちょっと! 一番個室の冷血漢! 人の聖域に土足で踏み込んでおいて、好き勝手言いなさいよ! 感情がノイズ? 最適化? 結構じゃない。でもね、人間の心まで計算式で割り切れると思ったら大間違いよ!」
「……二階堂課長か。相変わらず声が大きい。……君のその情熱も、あと一ヶ月でここ(現場)と共に瓦解する。せいぜい、今のうちに吠えておくといい」
男の声には、一切の揺らぎがなかった。
彼はそれ以上何も語らず、音もなく個室を出ていった。
残された俺たちは、ただ呆然とするしかなかった。
一番個室にいたのは、明らかに俺たちの「外の世界」を知っている人間だ。それも、このトイレの解体に関わり、俺たちの仕事の評価を握るような、冷酷なエリート。
「……師匠。……あいつ、何者なんですか?」
「……わからん。だが、我々の聖域に、最強の『侵略者』が現れたことだけは確かだ」
師匠の声が、かつてないほど鋭く響いた。
「「「「……せーの」」」」
ゴォォォォォォォォッ!!
四つの洗浄音が重なる。
けれど、今日の音はいつもとは違っていた。
何かに追い詰められ、何かに抗うような……宣戦布告の咆哮のようだった。
午前九時十五分。東西電機製作所。
俺が自席に着くと、二階堂課長が険しい表情で、一人の男を連れてこちらへ向かってきた。
「佐藤、紹介するわ。今日から我が社の経営コンサルタントとして入る、一ノ瀬氏よ」
そこに立っていたのは、一分の隙もない三つ揃えのスーツを着こなした、あの声の主だった。
彼は俺を見ると、眼鏡の奥の冷たい瞳を細めた。
「……初めまして、佐藤君。……君の『無駄な時間』を、私がすべて削ぎ落としてあげるよ」
一ノ瀬はそう言って、俺のデスクに冷たい名刺を置いた。
聖域の解体まで、あと二十九日。
佐藤誠の「公私混同」の戦いが、今、幕を開けようとしていた。
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