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明無多とアナタ  作者: コイーバシグロll


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8/11

五・二 ◇

 焼肉屋と言っても、今の明無多にはとてもじゃないが高級焼肉屋などに行ける財力はない。

 安上がりのチェーン店にでも行こうと、きらびやかなネオンの下で人混みを闊歩していると。明無多の眼前に、ひとりの女が道を塞ぐように立ち塞がった。

 百七十七センチの長身に、中性的で美形と言える整った顔立ち。

 肩ほどにまで無造作に伸びた白髪が、夜風に吹かれて揺れている。だが、明無多にとってはあまり好ましくない相手なようで、あからさまに顔を顰めた。

「ブラーヴァ、ブラーヴァ。すごいねぇ、あの頃から全然衰えてない……いや、それ以上だよ」

 透き通ったハスキーボイスを発し、女はゆっくりと拍手をしながら歩み寄ってくる。

『童佳、この人はお友達? それともさっきみたいな怖い人なのかな?』

 アルナンタが無邪気に問うた。

(……いや)

 しかし、明無多はこの女をよく知っている。

「よぉ、白斑(しろまだら)。久しぶりだな。高校ぶりか」

「やっ、明無多。相変わらず元気そうで何よりだよ」

 白斑と呼ばれた女は軽く手を上げ、気さくに返した。

『あ、お友達なんだ?』

(んー、まぁな。つっても、昔つるんでただけでもう全然関わりなかったけどな)

『へー! 童佳ってなんだかすごい口も悪くて性格も悪いって思ってたけど、ちゃんと友達いたんだっ!』

(おい。お前今すぐここに実体化して出てこい。ガチでぶっ飛ばすから)

『え、やだ。というかそんなことできないよっ』

「うん? どうしたのさ明無多、ぼーっとして」

「あ、いやなんでもねぇよ」

 煩わしいアルナンタの余計な世話は無視することにし、明無多は白斑の方を向き直った。

「まぁ積もる話もあるけどさ。どうよ? 今からご飯にでも。あ、お腹減ってる?」

 白斑が軽い調子で提案した。

「……お前とぉ? 冗談じゃない。それにいまは腹なんて減って──」

 そう強がって言い放った瞬間、きゅるるぅん、と明無多の腹の虫が盛大に音を立てた。白斑が必死に笑いを堪えつつ、

「あははっ、なんだよ明無多。めちゃくちゃ腹減ってんじゃん。なんでそんな見え透いた嘘つくのさ」

「……わかったよ。ただし、お前の奢りな。絶対財布出さねぇからな」

「はいよ。どこ行く?」

「焼肉で」

「おっけー。じゃあとびっきりの所に案内するよ」


 白斑に連れられてやって来たのは、明無多には到底縁の無さそうないかにも高そうな高級焼肉屋だ。

 間接照明が照らすモダンな雰囲気の完全個室には、洒落た抽象画の絵画が壁にかけられていて、店内の空気も騒がしいチェーン店のそれとは全く違う。

 目の前の無煙ロースターでジュウウ、と見事なサシの入った肉の焼ける音がし、上質な脂の香ばしい香りが鼻腔を強く刺激する。

『すごい、美味しそう……! スライムの集落でも焼いたお肉は食べたことあるけど、向こうのよりも全然美味しそうっ! ねぇ、お肉って焼いただけでなんでこんなに美味しくなるんだろうね?』

 アルナンタが脳内で歓喜の声を上げるが、明無多の内心はあまり穏やかではない。

「どう? 美味いだろ、ここ。チェーン店なんかとは肉のランクからして格が違うんだから」

 白斑が自慢げに問うた。

「ん、あぁ。めちゃくちゃ美味いよ。……お前、普段からこんな所来てるのかよ」

「まぁね。結構稼いでんだよ、こう見えてもさ」

 明無多は、このような高級店に普段着で気軽に来れる白斑との経済格差を如実に感じ取り、苦虫を噛み潰したような顔をした。

 目の前で肉をひっくり返している女、白斑矢霉(しろまだらやつゆ)は、明無多が高校生の時の悪友とも呼べる友人だ。

 入学時にはほぼ接点はなかったが、ある日、明無多が数多の他校の不良少女に囲まれ、面倒だから適当に全員まとめてぶちのめしてしまおうと考えていた時のことだ。この謎の白髪女が颯爽と現れ、瞬く間に不良少女全員を地に伏せさせたのだ。

 厄介で面倒な予感を覚えた明無多は適当に礼を言い、その場を去ろうとしたが、白髪女はそのまま明無多に向かって拳を振るってきた。

 理不尽な因縁を吹っかけてくる不良少女とは別に、こうして純粋な強さ比べと評して喧嘩を売ってくる血の気の多い女も多くいた。とはいえ、どんな相手でも明無多童佳には一切の手も足も出ず、常に一方的な敗北を喫して地に這いつくばっていた。

 だが、この白髪女とだけはそうはいかず、お互いの打撃を捌き合い、中々勝負が着かなかった。これ以上長引くと面倒なので手加減はなしで本気で相手しようと明無多が踏み込んだ瞬間に、その白髪女は「こうさーん」とふざけた軽い口調で手を上げたのだ。

 その時、白髪女は白斑矢霉と名前を名乗り、同じ高校、別クラスの同学年ということを明無多は初めて知った。

 その後、明無多と同じく幼少期から本格的な格闘技をしていることや、白斑のあっけらかんとして物怖じしない性格が何となく気に入り、よくつるむようになった。

 しかし、白斑には<明無多童佳を最強の女として高校の伝説に残したい>というとんでもなく馬鹿げた野望があったのだ。

 なので、頻繁に別のクラスや学年、終いには他校からも腕に自信のある不良少女をけしかけ、明無多へと仕向けさせていた。その度に明無多は呆れながらも、軽々と屈強な不良少女を簡単に退けていたのだが。

 <明無多童佳最強伝説>を不良界隈に無理やり定着させようとしたことを後になって知った明無多は、「なんてクソアホなこと考えてんだお前」と二の句が継げなかったものだ。

 だが、まぁ暇つぶしにはなったし退屈はしなかった。それに群れるしか脳がない有象無象の雑魚は白斑が事前に全て追い払ってくれていたので、その馬鹿な野望には呆れつつも、友人として奇妙な付き合いを続けていた。

 とはいえ、そんな話は高校を卒業するまでのことだ。

 血生臭い過去を消し去るべく他県の大学に進学し、明無多も十代の頃とは違い年相応に多少は丸くなり、そのようなばかな喧嘩ごとは一切しなくなった。スマホの買い替え時に電話番号や連絡先も一掃して完全にクリーンな状態にし、若気の至りとしてそんな面倒な過去は自身の歴史から完全に消し去った。

 そのまま自然と高校の連中含め白斑とも疎遠になり、それ以来会ってはいなかったし、正直なところ一生会いたくもなかった相手だ。

「おいおい、なんでそんな不貞腐れたツラしてんのさ。数年ぶりの感動の再開に美味い焼肉だよ? もっと嬉しそうにしなよ」

 白斑がグラスを傾けながら言った。

 明無多は箸を置き、本題に入ることにする。

「……で、お前だろ。さっきの……ええと」

『アサナリってひと?』

「麻鳴ってのを私に仕向けたの。というか、ジムの片隅で私のことコソコソ見てたのもお前だろ?」

 明無多が鋭く睨みつけて言うと、白斑はにやりと口角を上げて笑った。

「せいかーい。いやぁ、実はたまたま入ったジムで君を見つけちゃってさぁ。でね、ちょうど明無多、君を恨んでるヤツらに絡まれてさ。ほら、あたしら高校同じだったじゃん、だから向こうもあたしのこと知っててさ。昔の恨みで明無多の場所を教えろって脅されたから仕方なく──」

 ペラペラと饒舌に喋り出すが、その飄々とした口ぶりも態度も、全てが嘘八丁なのは明らかだった。

「つまんねぇ嘘ついてんじゃねぇよ。脅された? お前ならあんな三下のヤツら、指先ひとつで軽く捻れるだろうが。絡まれたんじゃなくて、お前がアイツらをわざわざ呼び寄せたんだろ? 何が目的だ」

 明無多は眼光を鋭くし、白斑を射抜くように睨んだ。

「……怖い怖い。やっぱり君に嘘なんて通じないか。わかったよ、全部正直に言うから怒んないでよ」

 白斑はへらへらと笑いながら両手を上げた。

「明無多、高校卒業してからすっかり行方晦ましちゃってさぁ。周りの人みーんな知らないの。で、ちょーっと<裏の知り合い>のツテを辿って、探偵まがいのことしてようやく見つけたんだよ。この辺の格闘技ジムに通ってるって言うから覗いて見たらドンピシャだったって訳さ」

「ちっ。暇なストーカーかよ。で、なんであの三人を私に当てたんだよ」

 明無多は煩わしさを強く感じ、不快感を一切隠さずに言った。

「まぁ、実力の確認かな。今の君がどれくらいやれるのか? って。予想通り、あんなのじゃ全く相手にもならなかったみたいだけどね」

「で。だから何が目的なんだって。回りくどい言い方すんな」

 白斑は先程までのにへらとした笑いをピタリとやめ、真面目な、ひどく冷たい表情に切り替えた。

「明無多。きっぱり言うよ。裏格闘技の試合に出ろ」

「…………は?」

 目の前の女のその突拍子もない提案に、思わず間抜けな声が出た。この女、一体何を言っているんだ。

「あたしな、今、起業して自分の会社持ってんの。ちょっとしたタックダイン施行とかの基礎工事なんかしてる会社ね。……つーのは建前で、実際は裏格闘技界のプロモーターと繋がってんの。有望な女の闘技者を抱え込んで、非合法な女子裏格闘技界に送り込んだりしてんのさ。表のぬるいスポーツと違って、マジでなんでもありの血みどろの試合やってるところね。あそこなら君の恐ろしい才能を存分に発揮出来る。……つまりな、君にうちの所属で闘技者をやってもらいたい」

 白斑がポケットから名刺を取り出し、スッと差し出してきた。

 そこには<マダラ施行>と<代表取締役 白斑矢霉>と、確かに本人の名前が黒々と書かれている。

『ごめん、この白斑ってひとがなに言ってるのかちょっとわかんないや』

 明無多も、脳内でそんなことを言うアルナンタと全く同じことを思っていた。裏格闘技の試合に出ろ? 闘技者になれ? 何を言っているのか全く理解できない。

「ちなみに、あの三人も別の組織んところで選手登録されてて裏闘技場に出てるんだよ。あんなんでも表のヤツらよりよっぽど骨があるんだ。そんなのを三人同時に、しかも無傷で退けた君に是非──」

「待て待てっ! 意味がわからんっ! 裏格闘技? そんなもんが現実に実在する訳がないだろ! どこの地下闘技場だ、漫画の読みすぎだ! それか、もしかしてお前ヤクでもやってんじゃねぇのかっ!?」

 ガタッと勢いよく手を机に付き、音を立てて明無多は叫んだ。白斑の発言があまりにも荒唐無稽すぎたからだ。

「いや。あるんだよ。明無多、君は一般人だから知らないと思うが、<そういう世界>がこの日本の裏側に確実に存在するんだ。富裕層向けの違法な賭け試合さ」

「何をバカなことを……」

「あるんだ」

 白斑のその真っ直ぐな目。その低い口ぶり。先程のくだらない嘘をついていた時とは違う。本気だ。

「……百歩譲ってあったとしてだ。なんでわざわざその裏格闘技っていかにも野蛮でヤバそうなところなんだよ。表じゃダメなのか」

「んー……正直言って、君には合ってないだろうね。表の格闘技はクリーンで安全第一、目潰しも金的も禁止で色々ルールも厳しいし、まず女子格闘技なんてそこまでの盛り上がりもない。そもそも君みたいに規格外の体格で、技術もトップクラスのやつの相手なんて中々見つからないだろ。でも裏なら違う」

 白斑は目をギラつかせた。

「あそこは血に飢えた連中がうようよいるんだ。完全なノー・ルール、もしくはヴァーリ・トゥードに近い。明無多程の見てくれが良くて圧倒的に強いヤツを見れば、観客も対戦相手も我こそはと食いつくはず。それに、君だって実は内心、全力で相手をぶっ壊せるそういう場所を求めてたんじゃないか?」

「てめぇ。まさかあの<明無多童佳最強伝説>なんつーくだらねぇ野望を、その裏格闘技とかいうヤクザのシノギみたいな所で実現させようとしてんじゃないだろうなっ!!」

 明無多は苛立ちがピークに達して叫んだ。

「そう、いろいろそれっぽい理由付けたけど、それが一番の目的なんだ! 君が最強の女だってことを、裏の世界で証明したい!」

 白斑は苛立つ明無多とは対照的に、歓喜に満ちた顔で両手を広げた。

「明無多、今君は何やら純水だかのプラントで配管見ながら働いてるっつー、底辺そのものの退屈な生活を送ってんだろ? もったいない。君はそんな薄汚れた所で一生腐っていい人間じゃない。闘いの神に愛された肉体なんだよ」

「………」

 明無多は押し黙った。この女、一体どこまで自分のことを調べているんだ。

「それに、がっぽり稼げるんだよ。女子裏格闘技は。表じゃ出来ない違法なギャンブルなんかもできるし、金余りのコアなファンもいる。ファイトマネーなんかも表の比じゃない。一試合で何百万、いや何千万と動く。まぁ、ほぼなんでもありのルールだから、後遺症や最悪死んだりその分リスクはでかいけどね! ハイリスクハイリターンってやつぅ? さらにだね、君があそこで勝ちまくれば名も挙がるし金も稼げる。ついでにそんな最強の闘技者を送り込んだあたしの名声も挙がるって寸法さ」

 変わってない。この女、やっている規模が大きくなっただけで、根本の思考回路が高校生の頃と何ら変わっていない。それどころか、私を闘犬のように利用してのし上がるつもりでもいるらしい。ふざけるな。

 第一、私はそんな違法な半グレやヤクザのようなヤツらと関わりたくない。裏格闘技だか知らんが、自分の体を削ってバカやるのは高校の時でもうきっぱりやめたのだ。

「なぁ明無多。よく考えてみなよ。これは君のためでもあるんだ。いいの? そんな工場で純水にまみれて働き続ける底辺のままで。人生一度きりなんだ、あたしと一緒に裏の世界で稼ぎまくろうよ、ね? あ、表の仕事は辞めなくていいからね。あくまで夜の副業みたいに考えてくれればさ」

「もういい」

 明無多は怒りを通り越し、呆れ果てて席を立った。

「んなバカな話乗るやつがあるか。いいか、私はもう高校の頃とは違う。裏格闘技だかなんだか知らんが、そんな血生臭いもんに出るつもりはない。私をお前のイカれた野望にこれ以上巻き込むな。奢ってくれた礼はするが、それはそれだ。二度と私の前に顔見せんな」

 冷たく吐き捨て、明無多は一切振り返ることなく店を後にした。


(……ふぅ~ん。残念だけど明無多、あたしは何としてでも君を闘技者にしたいんだよ。君には間違いなく天賦の才がある。その恵まれた体格もだけど、君の拳才は本物だ。その才能をあんなしがない工場で腐らせるのは、あまりにももったいない)

 個室に取り残された白斑。内心でそう熱く思いつつ、メニューパネルを操作して追加の特上カルビを注文した。


「ふざけやがって、あのクソ女」

 ボロアパートの自室に帰るなり、明無多は靴を脱ぎ捨てて毒付いた。

『あのお友達が言ってたことは全然わからなかったけどさ。つまり、その裏格闘技ってやつに出たくないってことでいいの?』

 アルナンタがのんびりと語りかけてくる。

「そういうこと。まったくあの女、何考えてんだ。なんでこっちの現代社会でもあんな危険なことしなきゃいけねぇんだよ」

『でも童佳なら大丈夫なんじゃない? 人間の状態でもすっごい強いんだし!』

 アルナンタは相変わらず楽観的だが、

「バカナメクジ! そういう問題じゃねぇんだよ! いいか、スマホで見せてやったスポーツの格闘技の試合とは多分違うの。絶対ろくなもんじゃない。なんでもありの試合? んなもん出来るかっ! 馬鹿げてるっ!」

 明無多にとってはたまったものではない。

 実態はわからないが、半グレどころかバックに本職のヤクザでも着いてそうな裏社会の興行と関わるなんて、絶対にごめんだ。

 現在、ただでさえ訳分からん異世界でスライムの体になり、いつ魔物に食われるか分からない命懸けの生活を余儀なくされているストレスがあると言うのに、現実世界でこれ以上余計な問題を抱えたくない。

『お、落ち着いて童佳っ! 叫ばないでっ!』

「うるっせぇ! 向こうでもこっちでも最悪だわっ! お前、疫病神かなんかか!? お前が来てからというものの最悪なんだよっ!! すぐ頭から出てこい、殺すっ!!」

『だから出来ないってばぁ!』

 これ以上このナメクジ相手に喚いても仕方がない。明無多は大きく深呼吸をし、気分を落ち着かせるべく、現実世界での数少ない<趣味>を嗜むことにした。

 部屋の片隅に置かれた、厳重に密閉されたクーラーボックスを開ける。中に入っているのはデジタルの温度・湿度計。

 そして大きなジップロック。ジップロックの中には大量の太い葉巻と、湿度を調整するための保湿剤、七十二パーセントのボベダが入っていた。

 葉巻(シガー)。

 これが明無多の密かな、そして高尚な趣味だ。紙巻きや電子タバコを吸うわけではないが、たまにひとりこうして夜風に当たりながら葉巻を嗜むのが、明無多の楽しみのひとつなのだ。

 ただし、職人が手作りするプレミアムシガーは管理が非常に難しい。温度・湿度をしっかりと一定に保管しなければ葉が乾燥し、風味も何もかも台無しになる。

 なので葉巻の質を保つため、クーラーボックスで温度を十八〜二十度に保ち、湿度も六十八〜七十を維持して神経質に保管しているのだ。

 ジップロックを空け、丁寧にセロファン包装された葉巻をひとつ取り出す。

『童佳、それ何? 食べ物?』

「いや、違う。嗜好品だよ」

『しこうひん?』

「香りを楽しむためのものだよ。今日は嫌なことがありすぎたから、これで息抜きすんの」

 ベランダに折りたたみの椅子を持ち出して座り、早速喫煙の準備に取り掛かる。

 ギロチン式の専用シガーカッターでヘッド部分をスパンと切り落として吸口を作り、次にフット部分をガスライターの青い炎でじっくりと炙る。

 炙るのをやめて葉巻を振り、均等に空気を通らせる。

 先端部がある程度白く灰化した頃が吸い頃だ。

 葉巻を咥え、優しくゆっくりと煙を吸い込む。

 ふわりと、杉の木とローストしたナッツ、そして深いコーヒーのような香りが口腔を豊かに満たす。

 葉巻の煙は肺には入れない。口腔でゆっくりと転がし、鼻腔へと抜けるその濃厚な香りを楽しむのだ。

 明無多が今吸っている葉巻の銘柄は、ミロホワイトコロニタス。

 一本五百円もしない格安のプレミアムシガーではあるが、その値段の割にクリーミーで味わい深く、非常に気に入っている銘柄。

 ゆっくりと口から紫煙を吐き出し、深くひと息つく。

 荒れ狂っていた心が次第に落ち着き、いつもの冷徹で冷静な自分を取り戻した。

『あ、形はちょっと違うけど、それ知ってるよ! 吸う葉っぱだよね!』

 アルナンタが声を上げた。

「なんだ、あの異世界にも葉巻はあるのか?」

 明無多は少し驚いて問うた。シガーを愛するものとして、異世界の葉巻事情は少しばかり興味深い。

『うん。スライムの集落でみんな楽しんでるんだ。特別な魔法の葉っぱを燃やしてその煙を吸うとね、なんだか頭がすーっごいぼーっとして、フワフワして幸せな気分になるんだよねぇ』

「おい! それ絶対やべぇやつだろ!」

 思わずツッコミを入れた。葉巻の優雅な香りを楽しむのとはわけが違う。完全にドラッグの類ではないか。

『そうなの? すごい気持ちよくなれるんだけど……あ、きょうはこの後スライムのみんなのところにいくんだよね、童佳も葉っぱ好きみたいだし一緒に──』

「それはやめとく。……ま、現実のヤバい裏格闘技のことより、今はこの後の異世界だ。その憑依術を作ったミクシー・クラムさんてのに用事がある。まずはナメクジ村で何か情報があれば良いんだが……」

『ナメクジ村じゃないよぉ! なんでそんなひどいこと言うのっ!』

「いや、だって、お前みたいなぶよぶよのアメーバがうじゃうじゃいるんだろ? 考えただけでも気色悪いわ。人間のまま行けるなら踏み潰したい」

『むー! そんなこと言うなら、もう異世界の文字教えてあげないよ?』

「はいはいすまんすまん、悪かった」

 アルナンタが本気で怒った気配を感じたので、明無多は苦笑混じりに素直に謝った。

「……はぁ、こっちじゃヤバそうな裏社会のトラブルに巻き込まれそうで、向こうじゃクソザコボディで命懸けのサバイバルかよ。こんなこと続けてたら、私の人生マジに壊れるな」

 明無多は夜空を見上げながらひとりごちて、大きく紫煙を吐き出した。

 煙は夜の闇に溶け、静かに消えていった。

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