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スライムの視界は、人間のそれと何ら変わりない。ただ、過酷な自然界を生き抜く生物らしく視力は極めて高く、人間換算で三・〇ほどの視力を誇る。さらに動体視力もそれなりに備わっており、風に舞う木の葉の軌道すら鮮明に捉えることができた。
そして一番の特徴と言えるのが、見える色が四色色覚という点だ。
網膜に第四の錐体細胞を持ち、通常百万色見える三色色覚と比べ、実に一億色もの色彩を見分けることの出来るごく稀な色覚。現実世界の医学では、この色覚はX染色体をふたつ持つ女性にごく稀に現れると言われている。
現実世界の明無多も実はこの稀有な視覚を持っているので、スライムの視界に特別な違和感を覚えることはなかった。一応アルナンタにこの色覚はスライム特有のものか尋ねてみたが、どうやらこの種族の標準的な視覚らしい。
『そっかあ。人間のほとんどは、この森のこんなに綺麗な色を見れないんだね。なんだか損してるなぁ』
アルナンタが無邪気に言った。
「確かに綺麗な景色は見れるかもしれんが……画家じゃあるまいし、特にサバイバルじゃ役に立たねぇよ」
『がか?』
「絵を描く仕事のこと。この世界にも多分そういう職業はあるだろ」
明無多はそう返しつつ、隠れ家の洞窟内で体を動かそうと力を込めた。途端に、ゼリー状の全身にピキリと鋭い痛みが走る。
「いちちち……こりゃあ完全な筋肉痛だな。ちょっと本格的に動かしただけでこれかよ。どんだけなまってるんだ、お前の体は」
『そんなこと言われても……基本、わたしたちはゆっくり移動することくらいしか体を使わないし。その、かくとうぎ? の練習をするなんて発想、そもそもスライムじゃ誰も思いつかないよ』
「そういや、触手でターザン移動した次の日もなんか体が痛かったな。あれもただの筋肉痛だったのかよ」
あれから数日、魂の交差を繰り返すうちに、明無多はいくつかスライムの肉体的な性質を理解し始めていた。この体はただのゲル状の塊というわけではなく、軟体動物のように全身に微細な筋肉の繊維が張り巡らされている。
明無多は語学の勉強の合間を縫って、この過酷な異世界を生き抜くため、スライムの体をもっと自在に動かす練習を密かに重ねていた。
触手を素早く伸ばしてシャドーボクシングの真似事をしてみたり、流動する体を活かして敵の攻撃を想定し、瞬時に体を変形させて回避する訓練などだ。手足の関節がないせいで初めは中々思うように動かなかったが、ここ数日の泥臭い努力が実を結び、ぎこちないながらも形だけは整ってきた。
見た目に反してスライムは意外とすばしっこいので、もっと修練を重ねれば間違いなく戦闘の役に立ちそうだ。
しかし、そんな全身を激しく動かす運動を急にしたせいか、明無多の体は深刻な全身筋肉痛に陥っていた。
「あー超だる……お前さ、もう少し日頃から体鍛えとけよ」
『えー? だって疲れるからそんなことするスライムはいないと思うなぁ。そもそも、わたしはずっと魂魄交替の儀の研究で引きこもってたし』
「いやまぁ、筋肉痛になるってことは、ちゃんと鍛えられるってことだな。まずはこのだるだるデブボディを鍛えなおさねぇと」
『ちょっとっ! わたしはデブじゃないよっ!?』
「人間から見たらわかんねぇよ。ぶよぶよ揺れてるんだからデブでいいだろ。あー、デブボディマジ最悪。よりにもよってクソデブナメクジとか終わってんな」
『クソデブナメクジっ!? ひどい! 今すぐ訂正してっ!』
アルナンタが激しく抗議の意を示すが、明無多は鼻で笑って無視した。
次に確認するのは魔法だ。明無多が意識を集中して念じると、体の表面からプシュッ、と勢いよく水鉄砲のような水流が放たれ、目の前に設置した葉っぱの的に命中した。
魂魄交替の儀以外でこの体が覚えているのは、ただ体から水を放出するだけの水魔法。
アルナンタ曰く、魔法も使えば使うほど鍛えることが出来るらしい。
ただ水を出すだけの極めて弱い魔法に思えるが、極限まで威力を高め、水圧をコントロールできるように鍛え上げれば、工業用のウォーターカッターのように強力な武器になるかもしれない。
「……とはいえ、あんま気軽に使うわけにはいかねぇよなぁ、この魔法は」
この魔法は、大気中から水分を集めるのではなく、己の魔力を使って自身の体内の水分を直接放出するという仕組みだ。そのため、使いすぎるとたちまち脱水症状に陥るという致命的なリスクがある。アルナンタは元々の才能か、あの異世界と現実を繋いだほどの高度な禁術をぎりぎり発動できるほど多い魔力を持っていた。
しかし、魔力というものは魔法を使用する時にしか消費されない。なのでこんな燃費の悪い水魔法のみでは、せっかくの膨大な魔力も宝の持ち腐れだ。水を生み出し、自在に操るというような魔法であれば、恐らくそれなりの火力と汎用性があっただろう。こんな欠陥だらけの無駄な魔法しか会得していないアルナンタ・ド・ウジカは、つくづく運までも終わっている。
『うん。正直言うと、あんまりスライムには合ってない魔法だよ。スライムの体はほぼ水でできてるから、体の水分が少なくなるとすぐ弱っちゃうの。多分、全身がほぼ水でできてるような、特別な魔物専用の魔法なんじゃないかなぁ』
アルナンタがうんうんと同意した。
「人間用の魔法って訳でもないんだな。そもそも、新しい魔法を覚えるための書物ってどこで手に入れられるん? お前なんか知らない?」
『魔法の書物は、森に勝手に生えてくるんだよ!』
「………は?」
自信満々なアルナンタの即答に、明無多はキョトンとした。
『魔人とか、たまに人間が通った場所の地面に落ちてる事が多いの。だから、きっと勝手に生えてくるんだよ!』
「……なわけあるかっ! ゲームじゃあるまいし、本が地面から勝手に生えてくるとかあるかっ。誰かが作ってるに決まってるだろ」
『えー、そうなのかなぁ? でもスライムの中じゃ常識だよ? そんなこと』
「………」
明無多は絶句した。
舌足らずな喋り方といい、このナメクジの知性が著しく低いのは明らかだ。
しかし今の口ぶりから察するに、アルナンタ個人の問題ではなく、そもそもスライムという種族自体の知性が絶望的に低いのかもしれない。
そんなことを思っていると、
『あ、童佳。今心の中でバカにしてるけどさ、わたしたちは魔物の中でも結構賢い方なんだよ。ちゃんと喋れる魔物自体ほとんどいないんだから。他の魔物はみんな喋ってくれないから、何考えてるか分からなくて怖いよ』
「知性があるっつっても人間のガキ並かよ。……いや、まぁ知性があるだけマシか」
『ガキじゃないしっ! 一応ちゃんと大人だからっ!』
「……で、多分その書物は、人間とか魔人がうっかり落としてるんじゃねぇか?」
『ん~? 童佳の言ってることが正しいとして、捨ててるんじゃないかな? 書物ってのは一度使ったら終わりの使い捨てだから、運良く拾えても使用済みならただの紙っぺらなこともあるし。私が持ってた水の書物は、童佳と同じでメモ帳代わりに使ってたよ』
「そこはRPGのアイテムみたいだな」
これ以上アルナンタとこの次元の低いやりとりをしていると、自分の知能指数まで下がりそうだ。
ひとまず考えるのをやめ、昨日採取しておいた果実をいくつか食べて腹を満たすと、重い体を引きずって外に出る準備を始めた。
食料の確保と、魔法の練習で失った水分を補給するために水を飲まねばならない。
洞窟の入口を覆う目隠しのツタをくぐり抜けると、そのまま日の沈む方向に向かってゆっくりと進む。そこには透き通った水が流れる川がある。川の生水を直接飲んでも、人間とは違いスライムの強力な殺菌能力のおかげで腹を壊すなどの問題はない。
それでも中身が現代日本人の明無多としては強い抵抗感があったが、生きるためだと割り切ることにした。
岩殻鼠から剥がした鉱石で作ったナイフ、石晶刃を触手でしっかりと握る。流石に鋭利な刃物を体内に格納する訳にはいかないからだ。
そして透明な体内には、いざという時の打撃用として手頃な大きさの岩をいくつか取り込み保管する。これでただの無力なスライムから、遠距離攻撃も可能な武装スライムへとランクアップしたことになる。
鬱蒼と茂る異世界の森は、今日も不気味な静けさに包まれている。どこからか獣の低い遠吠えが聞こえ、薄暗い木々の間からは常に得体の知れない視線を感じる。
「しっかし頼りねぇなぁ、岩と手作りのしょぼい刃物だけかよ」
明無多は筋肉痛の痛む体を引きずりながら愚痴を零した。
武装したとはいえ、この世界では底辺の貧弱な魔物であることに変わりはない。
『でもほら、あの格闘技ってやつと武器を上手く組み合わせたらすごい強いんじゃない? ほら、武器を使う技ってのもあるんでしょ、童佳の世界には』
「簡単に言ってくれるな。悪いが武器術なんて習ったことねぇし、そもそもまだこの変な体を完全に使いこなせてねぇんだわ」
楽観的すぎるアルナンタと会話をしつつ、警戒しながら暫く移動すると、木々の隙間から川の水面が見えてきた。
そのまま浅瀬の水に浸かり、体の表面から直接水分を吸収する。乾ききっていた肉体が、ひんやりとした水分で満たされていく。
「さてと、次は飯だが」
明無多は水から這い上がり、辺りを見渡す。視界に広がるのは一面の深い自然しかない。
「出来れば肉が欲しいな。筋肉痛を治すにゃタンパク質が必要だ」
『たんぱくしつ?』
「そ。傷ついた筋肉とかを修復して作ってくれる栄養」
『お肉なら、ここら辺の草むらには蛇がいるよ。前に追いかけてきたあの大蛇じゃなくて、ちっちゃいやつが』
「蛇か……いや、そもそも得体の知れない寄生虫とか細菌が怖いわ。焼く手段もねぇし」
『文句ばっかりじゃん!』
「あのなー何べん言わせるんだよ。中身は人間なんだって。得体の知れない異世界の生物を生食出来るくらい、肝座ってないわけ。お分かり?」
『わかんないよー。わたしはずっとそうやって生きて来たんだし』
「クソッ。こんなしょぼい水魔法なんかじゃなくて、火を出せる魔法なら良かったのに……」
そんな口論をしていると、ガサゴソと草木をかき分ける音がすぐ近くで鳴った。明無多が体内に浮かぶ目玉を素早くその方向に向けると、全身が毒々しい真っ赤な鱗に覆われた、禍々しい蛇が鎌首をもたげていた。
『うわっ! 童佳、あれは紅蓮毒蛇だよっ! すっごい強い猛毒持ってるのっ!』
気付いたアルナンタが悲鳴のような声を上げた。
(ほれ見ろっ! お前が蛇とか言うから早速お出ましじゃねぇか!)
明無多は息を潜め、内心で激しく毒づく。
『わたしのせいっ!? ど、どうしよう! 噛まれたら一瞬で死んじゃうっ! ルルちゃんの続き、見れなくなっちゃうよ!』
(アニメの心配してる場合かっ!)
明無多は触手に持った石晶刃をギリッと構えた。
しかし、蛇はこちらに気づいていないようだった。
チロチロと赤い舌を出し入れしながら、そのままゆっくりと地を這い、森の奥の茂みへと消えていった。
『あれ……? 思いっきりこっち見られてたのになんでだろ?』
「そうか、さっき川の水をたらふく飲んだからか」
『水?』
「そう。蛇ってのは温度で獲物を見るんだよ。今、水風呂に入ったみたいに体が冷えてて助かったんだ」
蛇はピット器官と呼ばれる感覚器で赤外線を感知し、獲物の体温を視認する。先程大量の冷たい川の水を吸収したことが幸いし、明無多の体温は周囲の環境と同じくらい冷え切っていたため、幸運にも蛇の目に生命体として認識されることはなかったのだ。
結局、肉を手に入れることは諦め、この日もいつもと同じように安全な果実を採取して洞窟に帰還した。
「この黄弦果ってのはバナナみたいで美味いな。それにバナナには多少はタンパク質が含まれてるから、体づくりにも良いかもしれん」
わたしも食べたいと騒ぎ立てるアルナンタを無視しつつ食事を済ませたあと、明無多は洞窟の奥に保管していた、アルナンタが使用したソウル・スワップの書物を開いて読んでいた。
アラビア語のようなうねる異世界の文字が書かれた上に、さらにアルナンタのミミズの這ったような下手くそなメモ書きが乱雑に書き込まれている。異世界の文字を懸命に学んでいるとはいえ、まだまだほとんど読めたものではない。
しかし、文字を学んだことで一つの大きな収穫があった。
本の表紙だ。ソウル・スワップという禍々しい文字の下に、<ミクシー・クラム>と、書物の作者と思われる名前がはっきりと刻まれていることに気づいたのだ。
『え、これって人の名前なの? てっきり、わたしの知らない難しい単語だと思ってた』
「いや、どう考えても名前だろ。やっぱり、魔法の書物は地面から生えてくるんじゃなくて、誰かが作ってるんじゃねぇか」
『え? でもさ、名前って三単語じゃないの? わたしはアルナンタ・ド・ウジカだし、スライムのみんなの名前も大体こんな感じだよ』
「いや、異世界にもミドルネームっぽいのがあるのかどうかは知らんけど。絶対これは名前だろ。私だってアナタ・ドウカの二単語だぞ?」
『あ、確かに。でも日本だと名前と苗字は逆なんだよね。こっちならドウカ・アナタ?』
アルナンタが感心したような、納得したような声を上げた。
「こいつが人間なのか、それとも魔人ってやつかは知らんが、会いに行くしかねぇな。憑依術を作った本人なら、解除方法を記した書物を持ってるかもしれん。そもそもの話だ。この<ミクシー・クラム>とやらは、なんでこんな意味不明な魔法を作った?」
『どういうこと?』
アルナンタが不思議そうな声を上げた。
「いや、この憑依術がまずおかしいんだよ。発動条件からして変だ。名前の響きがそっくり、性別が同じ、言語が通じる、相手の明確な承諾がいる? 親族でもなきゃこんな条件満たすの厳しいだろ。しかもそれで、憑依された側は完全に死ぬ。どう考えてもおかしい」
『んー、わたしみたいに今すぐ死にたくて、でもそれは怖くて誰かに体をあげたい! って思った優しい人が作ったんじゃない?』
「だとしてもだよ。体をあげるにしても、あの厳しい条件を満たす相手がいなきゃ話にならんだろ。それに普通に考えるなら、こういうのは他人の体を強制的に乗っ取るための邪悪な魔法のはずだ」
前から明無多はずっと疑問に思っていたが、どうも引っかかるところがあった。体を他者に譲渡する魔法として、システムが色々と不完全すぎるからだ。それに、この禁忌の書物が古代遺跡の片隅に、未使用の状態で落ちていた事も大きな謎だった。一体このミクシー・クラムという人物は、どう言った意図でこの面倒な魔法を作り、そして古代遺跡に置き去りにしたのか。分からないことが多すぎる。
「うーん、わからん。圧倒的に情報が無さすぎる」
『あ、じゃあわたしたちスライムの集落に行こうよ。久しぶりにみんなに会いたいと思ってたんだよね』
アルナンタがふと思いついたように提案した。
「なに? スライムの集落?」
『うん。ここから少し離れた所にあるんだよ。あそこにはスライムの仲間もたくさんいるよっ』
「なるほど。なら次はそこに行ってみるか。この隠れ家と水場なんかを行ったり来たりしてるだけじゃ、なんも始まらねぇからな」
明無多はそう決断した。
スライムの群れがどんな風に生活しているのかは想像もつかないが、今はとにかく情報収集をしなければならない。
「じゃ、腹も膨れたし、また文字を教えろ」
『うん! まかせて、童佳っ!』
気合を入れ直す。
再び手帳とペンを触手でしっかりと握り直した。




