三・二 ◇
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早朝。
異世界では遅くまでずっと語学の勉強をしていたが、スマホのけたたましいアラーム音と共に明無多は目を覚ました。
また一つ判明したことだが、この魂の交替には、嬉しいのか嬉しくないのか分からない厄介な条件があった。片方が寝ている間、その肉体はちょっとやそっとでは起きないが、こうしてアラームなどで強制的に意識を浮上させられると、強制的にチェンジするらしい。
向こうの世界でずっと起きていたり寝るのが遅くなると、現実世界での目覚めがずれ、生活に支障が出かねないと思っていた。だが、これならば現実世界で生活する時間を心配しなくて良いが、逆に言えば、もし向こうで寝ている間に魔物に襲われるなどして無理やり目が覚めたら、たまったものではない。
その際、現実の明無多の肉体は突然気絶したようにその場に倒れ伏す。頭を強く打ったり、場所によっては階段から転落してぽっくり逝きかねない。
「……まぁ、こっちでは大丈夫だろうな。私は寝てる間でかい地震があっても爆睡してたし、ちょっとやそっとじゃ起きねぇ。ま、このアラームにゃ敵わんが」
『こっちでも地震ってあるんだね。地面が揺れるの、びっくりするよねぇ』
「それより不安なのはあのナメクジボディだ。他の魔物だの、その魔人とか言うのに寝床を襲撃されたら一発アウトだ。目が覚めるまでもなく死ぬ」
『大丈夫大丈夫。魔力隠しの洞はほんとうに安全だからっ。わたしが魂魄交替の儀を研究してた長い間、一回も襲われたことないし、あそこは仲間のスライムも誰も知らないからっ!』
「ならいいんだがな」
明無多はブラックコーヒーを胃に流し込み、ベーコンエッグをパンに乗せ齧るという軽い朝食を済ませた。適当に身支度を整え、出かける準備をする。
「よし。行くか」
明無多はショルダーバッグから車の鍵を取り出した。
『あ、童佳っ。きょうはお外に行くんだ?』
「ん? あぁ。まぁそうだな」
明無多は大きなあくびを噛み殺しながら答えた。
『やったー! ねぇねぇ、今度はどこに行くの? 最初の日はすーぱーってとこでお買い物しただけだったけど』
アルナンタの声は弾んでいる。
スマホやネットの世界もすっかり堪能しているが、やはり画面の中より外の景色を見るのが新鮮で、楽しくてたまらないらしい。
明無多はこの交差生活が始まってから、まだ現実世界では初日に買い出しをした一度しか外に出ていない。運良く憑依術の餌食になった日とシフト制の連休の始まりが被っていたというのもあるが、未知の異世界への対策と情報収集のため安易に外に行く訳にもいかず、この貴重な休日を完全に潰してしまった。
「遊びに行く訳じゃねぇよ。仕事だ」
『しごと?』
「そうだ。昨日まで休みだったの。で、今日から仕事。人間ってのは働かなきゃ生きていけないんだよ。最悪なことにな」
『そうなんだ?』
「あー、お前らでいう狩りみたいなもんだ。あと多分、お前の世界の人間も仕事してるはずだ」
『そうなのかなぁ? うーん、実際向こうでも人間と関わったことはほとんどないからなぁ。そもそも、わたしたち魔物じゃ関わってもろくな事にならないけど』
「……あのくだらねぇネット小説通りなら、冒険者だのギルドだのがあるんじゃねぇかな。知らんけど」
『ねぇ、じゃあなんで昨日まではずっと家に引きこもってたのさっ。せっかくのお休みなら、お外に行けばよかったのにっ! 異世界と違って魔物はいないんだし、安全にお外を冒険できるよ?』
「誰のせいで休日が潰れたと思ってんだ! クソナメクジ!」
『わたしはナメクジじゃない!! アルナンタ・ド・ウジカっ! いつになったら覚えるのさ、童佳っ!』
アルナンタといつものぎゃあぎゃあとした不毛なやり取りをしつつ、明無多はボロアパートを後にし、砂利敷きの駐車場にある自身の所有する車──格安で買った中古の軽自動車に乗り込んだ。キーを回し、エンジンを発進させる。
『わーい、くるまだっ! わたし、これ速くって大好きっ!』
アルナンタが無邪気にはしゃいだ。
「異世界には魔法があるんだろ。案外こういう乗り物もあるんじゃねぇのか」
明無多は車内でラジオを起動させつつ言った。
<あのさ、東京タワーの照明が二十四時に消える瞬間を見たカップルは幸せになれるんだって!>
<知らねーよ、そんなの>
スピーカーからラジオの軽快な音声が流れると、アルナンタがまた嬉しそうに反応する。他にも窓の外を流れるたくさんの車、道行く人々、綺麗に舗装されたアスファルト、等間隔に並ぶ信号機、立ち並ぶ家や高層ビル群。その全てが目新しく、アルナンタの視線──つまり明無多の視界に映るもの全てに惹き付けられているようだ。
(あー、うるせぇ。頼むから静かにしてくれねぇかな)
明無多が心の中で毒づく。
『だって! こんなにいっぱい見た事ないものがあるんだもんっ! 黙ってろなんて拷問だよっ!』
「………」
最悪なことに、アルナンタの意識体が脳内に同居しているという都合上、明無多の思惟ももちろんアルナンタに筒抜けになる。ならば逆にアルナンタの思考も明無多に共有されるはずだが、一切そんなことはなかった。このスライムは思ったことをすべて口にしなければ気が済まないという、ひどくタチの悪い性質を持っているらしい。そして疲れれば勝手に寝るという、非常に能天気に現実世界ライフを堪能している。
(You should close your mouth, fuckin' slug. I just wanna be quiet i gonna't wish anything than this)
心を勝手に読まれるのはひどくむかっ腹が立つので、こういう時、明無多は脳内言語を英語に変えるというささやかな嫌がらせをする。
『わっ!? 童佳っ、何言ってるか全然分からないよっ!』
「分からなくしてるんだよ、畜生が」
『ひどいっ!』
そうこうしているうちに車は目的の駐車場に到着し、明無多は定位置に車を停めた。
そこからしばらく歩いて向かったのは、無機質な外壁に囲まれた巨大な施設。中に入ると、巨大な機械が絶えず動き、重低音の動作音が響きわたる、いわゆるプラントだ。
『すごいっ! なにこれ童佳、すっごい大きいきかいがたくさんだっ!』
「あー、頭ん中だからこんな喧騒の中でもこいつの声がんがん聴こえるのかよ。まいったなこりゃ」
文句を零しつつ、明無多は更衣室へ向かい、着慣れた作業着に着替えた。すれ違う他社員に適当な挨拶をし、仕事の引き継ぎを行って点検作業に向かう。
明無多の職業は、設備メンテナンス業だ。水から不純物を極限まで取り除き、純度の高い水──つまり純水を作る超純水製造装置の管理業務を担っている。
広大なプラント内を歩き回り、計器を見つめながら装置に不備がないか、正常に稼働しているかの点検を進める。
『童佳、これはなに? 長い棒がたくさんあるけど』
「こいつは配管。中に水が流れてんの」
『水? あ、あの蛇口って便利な道具から出る水がここから来てるの?』
「ちげーよ。製品の製造に使うの」
『せいひん? せいぞう?』
「あー……もの作りだよ」
『ねぇねぇこれは?』
「イオン交換樹脂。こいつが水ん中の不純物吸着すんの」
『これは?』
「MF。原水の前処理すんの」
『まいくろ……? じゃあこっちのは?』
アルナンタの矢継ぎ早な質問は止まらない。
『あっ! これは? なんかでっかい入れ物があるっ!』
「活性炭濾過装置。殺菌で次亜塩素ぶち込むからその残留塩素除去してんの」
『かっせいたん……? あ、こっちのいっぱいある棒は?』
「RO濾過膜。逆浸透圧で不純物除去してんの」
『あ、あーる……? 童佳、わたし、君が何言ってんのか分からないよ……またあの変な言葉?』
「うっせぇ! 仕事中くらい黙ってろ! 邪魔すんなっ!」
明無多はついにキレた。
いつもはただ黙々と終わらせるはずの作業だが、度々アルナンタがあれはなに、これはなにと訊いてくるせいで全く集中出来ない。
一時間ほどの巡回作業を終え、明無多は空調の効いた冷涼な事務所に戻った。
「あ。おつかれ様ー、明無多さん。どう? そっちはなんか異常ありました?」
デスクに座っていた同僚の女性が朗らかに話しかけてくる。
「いえ、特に。いや、変なナメクジがいたかも」
「ナメクジ?」
「あぁいえいえ。冗談です。こっちの話なんで」
『変なナメクジってわたしのこと!? ひどいよっ!』
頭の中で騒ぐアルナンタを完全に無視し、明無多は自分のデスクにどっかりと腰掛け、ポケットからスマホを取り出した。とはいえ、これからやることは仕事ではない。ブラウザを開き、適当にネットサーフィンを始めた。
『あれ? お仕事はもう終わりなの?』
アルナンタが不思議そうに尋ねる。
(うん? あぁ、終わり。そこのモニターあんだろ、なんかあったらあれが警報鳴らすけどほぼねぇから、あとは定時までなんもやることねぇよ。そーゆーとこなの、ここは)
他の同僚もすぐそばにいるため、心の中で返す。
『え、そうなの? ……あ、ほんとうだ。あの人もスマホ触ってるね』
アルナンタももうひとりの女性を見て、納得した声を上げた。
そもそも、なぜ明無多童佳がこのような職業についたのか。
それは、大学時代にろくに就活もせずだらだらと自堕落に過ごしていた結果、卒業ぎりぎりで適当に受けたこの会社に採用されたから、という悲しい事実がある。
当初はすぐに転職も考えていたが、明無多はずるずるとここに居座り続けている。
理由はずばり、楽だからだ。午前午後にそれぞれ一時間ほどの点検作業をした後は待機、つまり完全な自由時間となる。その圧倒的な暇さに惹かれ、このような現場職に就き続けているというわけだ。
長身の若い女性とあらば、モデル業やスポーツなど他にも色々と道はあるはずなのだが、極度の怠惰を求める明無多の性格が災いし、このような残念な結果となってしまった。
『童佳、もう一回さっきの場所行ってよ! なんか色々あって楽しかったし、もっと見たいっ!』
(……午後も行くって。それに私が生きてさえいれば、今後嫌という程見ることになるがな。つーかこんなのどうでもいいだろ、今は異世界っつー別問題があるんだから)
『えー。あ、そうだ。じゃあ童佳、暇ならこの空いた時間にこっちの文字も教えてよ。文字も読めたらもっと楽しいと思うのっ』
(お前な。んなことより──)
『だってこれじゃ不公平だよっ! わたし、昨日頑張って向こうの言葉教えたじゃんっ! 教えてくれないなら、向こうの文字も教えてあげないからっ!』
アルナンタは不公平さに声を上げた。
(あー、わかったわかった。教えてやるから)
明無多は深くため息をつき、仕方なく返事をした。
その後も事務所でこっそりアルナンタに現代の文字を教えたり、午後の作業中にはまた装置などについてあれこれ訊かれた。仕事を終え、ボロアパートに帰宅した頃には、明無多はすっかりへとへとになってしまった。
「つ、疲れた……。畜生相手に国語の教師と新人教育みたいなのを同時にさせられるとか、なんの拷問だよ……」
『すごいね、あの工場ってところ! 見たことない物がいっぱいあったし、お仕事もすっごく面白かった!』
「……お前な。わかってんのか、寝たらまたあのクソッタレ異世界だぞ」
『うん。……でもさ、この世界の人間はいいよね。日常的に命懸けな生活もしなくていいし、毎日楽しい物に触れられるし。わたしもこっちの世界で生まれたかったなぁ』
「この世界もそんないいもんじゃねぇぞ。大人になったら、もれなく社会の歯車として働かなきゃいけねぇし」
『でも楽そうだったよ?』
「馬鹿。楽な仕事は貰える金も安い。ずっと続ける気はねぇよ」
明無多は自嘲気味に言った。
もっとちゃんと就活をしておけばよかったと、若干の後悔もある。
「それより、向こうで生きていけるようにならねぇとな。飯と語学もだが、あのナメクジの体をもっと上手く使えるようにならねぇと。今までの魔物相手には地形を利用してなんとかなったけどよ、もし本格的な戦闘になったら即おっ死にかねねぇ」
『この前の岩殻鼠みたいに、木の上から岩を落とせばいいんじゃないかな?』
「あれが常に通用する相手ばっかとは限らねぇだろ。……まぁ戦いは出来るだけ避ける。逃げ優先。としても、一応ちょっとは戦える手段が必要だろ」
『えーと、どうするの? スライムの体で』
「実は私な、格闘技やってるんだぜ」
『あ、あの戦うやつね。ヤーチューブで見たボクシングってのはかっこよかったなぁ』
「ま、あくまで趣味と運動のためだけどな。あのスライムのアメーバみたいに不定形な体と組み合わせたら結構いける……のかもしれない。人間相手の格闘技が、異世界の化け物共に通用するかは知らねぇが」
明無多が過酷な異世界でもなんとかやっていけたのは、格闘技での経験が活きた、というのも大きかった。現実での徒手格闘経験のお陰で精神力と胆力が鍛えられていたので、突然人外の魔物に襲われても極度のパニックに陥ることはなかった。
『うんうん! あっちで分からないことがあっても、わたしが色々サポートするから安心してねっ!』
「お前のサポートで安心出来るかボケナス。……ま、とりあえず最優先は飯の確保と語学ってことで。あー、安全に狩り出来る場所があればいいんだけどなー」
『そんなのがあったらみんな苦労しないよ。あ、洞窟の壁に生えてる苔も食べれるよ。美味しくはないけど、お腹は膨れる』
「苔かよ。うーん、まぁお前が腹壊したとか言ってた青棘草よりかはマシか。……つっても苔を生食……いやぁ~、それはちょっと……」
明無多は心底嫌そうな顔でそう言い、寝たら強制的に始まるであろう憂鬱な異世界サバイバルへと、重いため息を零した。




