三・一 ◆
三
明無多が目を覚ますと、そこはまたしても異世界だった。壁面に張り付いた光苔が、ぼんやりと青白い光で周囲を照らす薄暗い隠れ家の洞窟。相変わらず、視点が異常に低い。現実世界では百八十四センチという圧倒的な長身であるせいで、この地を這うようなスライムの体になると余計に強烈な違和感を覚える。
「おい、ナメクジ。起きてるか?」
明無多が脳内に向かって声を上げた。しかし、一切の反応がない。
「ちっ、あのクソナメクジ、寝てやがる」
不快感を露わにして吐き捨てる。この奇妙な二重生活を続けるうちに、アルナンタについて一つわかった事がある。寝る度に人間とスライムの体を交差させている明無多とは違い、あの意識体だけのナメクジは一丁前に睡眠を取るらしい。
現実世界にいた時、初めは一日中くっちゃべりまくるアルナンタの声が不意に途絶えた時、明無多はようやくこの騒がしいナメクジが消滅したのかと一人でガッツポーズを取った。だが、ただ単に寝ていただけだと判明し、その後能天気に「寝てた」と言い放ったアルナンタに激しくブチ切れたものだ。
『……んぅ? あぁ、おはよう童佳』
不意に、脳内にアルナンタの無邪気な声が響いた。
「おはようじゃねぇぞこのスカタン。話の途中で寝やがって。もうこっちのクソみたいな世界に来ちまったわ」
『あ、ほんとだ。わたしの世界になってる』
「で、謝罪は?」
『ごめんごめん。だって、色んなもの見て楽しくって疲れちゃってさ。わたしが童佳に体をあげる前はさ、全然話し相手なんていなかったんだもん』
全く反省している様子のない間延びした声だ。
現実世界にいた時、アルナンタにこの異世界について詳しく訊き出していたのだが、途中でぷつりと声が途絶え、結局明無多がこちらの世界で目を覚ますまで爆睡したままだったのだ。
『えーと、どこまで話したっけ。あ、確かわたしが底無しの泥沼に沈みかけた話の途中で──』
「いいや、もういい。大体わかったから」
『えー!? まだ全然途中だったのにっ!』
「お前の自分語りなんて一切役に立たねぇんだよ、クソナメクジ」
明無多は容赦なく毒付いた。アルナンタの話はとにかく本筋から逸れまくるし、一切役に立たない身の上話ばかりする。明無多が欲しい情報は、この過酷な異世界で生き延びるための術や、生態系、安全に食べられる食料などの有益な知識だ。しかし、気付けばどうでもいい話にすり替わり、しばらく話すと集中力が切れるのか、やれアニメや動画が見たいだの、音楽が聴きたいだのと騒ぎ立てて中断される。
そうして好き勝手に騒いだ挙句、勝手に爆睡を始めたのだ。とはいえ、あのくだらないおしゃべりの中にも、ちゃんと収穫自体はあった。アルナンタが寝てしまったあと、明無多は支離滅裂な情報群から有益そうなものだけを抜き出し、自分なりに分析を済ませていた。
まず、この世界には現実世界と同じように人間が存在している。アルナンタが憑依術越しに夢の中で明無多と出会った時や、現実でスマホの画面越しや外の人間を見ても、人間という種族自体には大した驚きを見せなかったため、ある程度の予想は出来ていた。
だが、アルナンタは生まれも育ちもこの鬱蒼とした森の中だけで、人間の領域である領土には行ったことがない。たまに森の浅い場所で見かける程度の認識らしく、魔物とは明確に敵対関係にあるという以上のことは分からなかった。
そして厄介なことに、魔物とは別に、魔人族と呼ばれる、人間のような見た目と極めて高い知性を持った上位種族が存在するらしい。要するにファンタジー小説でいうところの魔族のようなものだ。性格は非常に好戦的かつ残忍で、そもそも知能の低い魔物たちを同じ生き物としてすら見ておらず、完全に見下しているため、こちらも友好的とは言い難い。
「つまり、人間と魔人は決して友好的ではないと」
『うん、そうだよっ! だからもし出会ったら、すぐ逃げないとダメだよ? 特に魔人は私たちより魔力もすっごく多くて、いくつも高度な魔法を覚えてることが多いから、いくら童佳でも戦ったら絶対に勝てないと思う』
「はー、そりゃあいいや。魔物からしたらクソッタレな世界だな。人間と魔人の板挟みかよ。中間管理職かっつの」
『ちゅうかんかんりしょくってなに?』
話していると、明無多の透明な体がぶるると震え、強烈な空腹を感じた。
「……飯にするか」
『ねぇっ! ちゅうかんかんりしょくってなにっ?』
「この前の紅蜜果がまだあったよな」
『ねぇってばっ!』
明無多は頭の中で喚くアルナンタを完全に無視し、昨日採取して体内に貯蔵しておいた紅蜜果を外へ取り出す。そして同時に取り出したのは、あの後岩殻鼠から剥がした鉱石を、器用に岩に打ち付けて鋭く削って作った石晶刃こと石器ナイフだ。
綺麗に拭き上げた幅広の葉っぱの前に果実を置き、触手をまるで手足のように器用に動かして石器で切り分ける。
『あっ! それ、ヨーチューブで見た料理ってやつだね?』
「料理というか切ってるだけだがな。あとヤーチューブな」
そのまま口に放り込んで溶かしても全く問題はないが、やはり人間たるもの、見てくれだけは良くしたい。
「ようし、出来たぞ。上手いもんだろ」
眼前の葉っぱの上に並べられたのは、見事なうさぎ型に切り分けられたリンゴうさぎ──もとい、紅蜜果うさぎだ。
『すごいすごい! 紅蜜果がすっごくかわいくなったっ!』
アルナンタが嬉しそうにはしゃぐ。
「この前は外って事で周囲の警戒もあって、ろくに味わえなかったからな。今回はゆっくり味あわせてもらおうか」
冷静に考えれば、異世界の未知の果実など現実世界じゃ絶対に手に入らない代物だ。こうして異世界に来てしまったこと自体は不本意でしかないが、どうせなら食事くらいは楽しませてもらう。
明無多は触手でうさぎ型の一片を摘み上げ、ぱっくりとアメーバの体を裂いて形成した口の中へ放り込む。
すぐに強力な消化液を分泌し、その濃厚な甘みと爽やかな酸味をゆっくりと味わう。
「うん、美味い。リンゴ……と熟れたマンゴーを合わせたような味だな。果汁もたっぷりで最高だ」
『いいなーっ! わたしもそれ、食べたいよっ!』
「残念だったな。お前が共有してるのは視覚と聴覚だけだろ?」
『うん、そうだけどっ!』
「ふ。ならそこで指くわえて見てるんだな。お前に指があるのか知らんが」
『ひどいっ! これじゃ完全な生殺しだよ、童佳のいじわるっ!』
ぎゃあぎゃあ文句垂れるアルナンタの抗議を心地よいBGMにしつつ、明無多は切った紅蜜果を味わいながら全て平らげた。
「……しかし、この体は中々便利かもしれねぇな。家の中じゃほぼ動かなくて済むし」
明無多はしみじみと言った。スライムの身体からニュルリと伸びる触手は、伸縮自在で意外と遠くまで届く。さらに体内に浮かぶふたつの目玉も独立して自在に動かせるので、一歩も動かずに周囲の状況を把握でき、適当に触手を伸ばして物を取るなどすれば、完全なものぐさ生活が成立する。
『でしょー? まぁ、わたしは自分の体上手く使えなかったけどさ。日常生活にはすごい役に立つんだよ、わたしの体』
「それは認める。こんな危険な世界じゃなければ、最高のライフハックだな」
このスライムの流動的な性質は、普段から現実世界で自堕落な生活を送っている明無多にとって案外使い勝手が悪くない。既に元の持ち主であるアルナンタ本人よりも体を使いこなしており、肉体に対する謎の適性があるのは伊達ではないようだ。
『えへへ、童佳、わたしの体結構気に入った?』
「調子に乗るなよクソナメクジ。生活面で便利なのは認めるが、それはそれだ。この弱肉強食の異世界じゃ、生物としてクソザコナメクジすぎるんだよ」
『むーっ!!』
そう、この異世界では自堕落なスローライフなど絶対に送れない。
基本戦闘能力が皆無に等しいアルナンタの肉体では、外に出れば常に命の危険が付きまとう。
『きょうは出かけないの? 童佳』
不服そうにアルナンタが訊く。
「出かけん。わざわざ死の危険を冒して外をほっつき歩くバカがいるか。まだ明日の分の紅蜜果は体内にある。狩りをするのは明日以降だ」
『えー。つまんないのー!』
「つっても、ただ引きこもってボーッとするわけじゃねぇからな。暇な時は、この異世界の文字をきっちり教えてもらう。じゃねぇと、例え憑依術を解除する魔法の書物が見つかったとしても、いちいちお前に翻訳してもらってたら解読に何十年もかかっちまいそうだからな」
『ちぇー、わかったよ。その代わり、向こうの世界に戻ったらまたすまほで色んな動画見せてねっ!』
「はいはい。分かったからとっとと始めるぞ」
明無多は部屋の奥に触手を伸ばし、アルナンタが禁術研究の際に使用していたボロボロの手帳と、インクの代わりになる黒い樹液、そして木の枝を削った即席のペンを取り出した。




