二 ◆◇
二
じっとりとした湿気と、むせ返るような土の匂いで、明無多は意識を取り戻した。目を開けると、そこは薄暗い洞窟の奥、魔力隠しの洞の中だ。
視界の端では、壁面に張り付いた光苔が頼りない青白い光を放っている。そして何より、視線が異常に低かった。地面すれすれの視点から見上げる巨大な岩肌やうねるような木の根には、どうしても慣れることができない。
「……また、このナメクジボディか」
『スライムだってば! あ、おはよう童佳っ! またこっちに戻ってきたんだねっ』
脳内に響くアルナンタの声に、明無多は器用にアメーバ状の体を波打たせ、ため息に似た空気の振動を漏らす。ここは、アルナンタが禁術の研究を行っていた隠れ家だ。入り口は巧妙に岩やツタで隠されており、外を徘徊する凶暴な魔物たちに見つかる心配は少ない。
「おい、この辺りで食えそうなもんはなんだ? 前回はあのクソデカい蛇に追われて飯どころじゃなかったからな」
『えーっとねぇ……あっ、外に青棘草がいっぱい生えてるよ! あれなら動かないし、食べ放題だよっ!』
「草かよ。栄養あんのかそれ」
『うーん……お腹は膨れるけど、すっごく苦いし、棘がチクチクしてあんまり美味しくないかなぁ。わたし、一回食べて三日くらいお腹壊したことあるもん』
「そんなもん勧めてくんじゃねぇよ殺すぞ!」
明無多は思わず叫び、地面に触手を叩きつけた。べちゃり、という情けない音が洞窟内に響き渡る。
この透明なゲル状のアメーバボディは、流動する体で打撃を受け流せるため防御面ではそこそこ優秀だ。しかし、体内に浮かぶ二つの目玉という分かりやすい弱点が丸見えなため、大したアドバンテージにはならない。おまけに自分が攻撃する際も決定打に欠ける。体が柔らかすぎるせいで、触手で叩いても威力は出ず、獲物を締め付けることもできない。最弱の部類という言葉は伊達ではない。
「はぁ……。動く肉を狩るしかないか? お前、何か得意な魔法とかねぇの? 禁術使えるくらいなんだから、一つや二つあるだろ」
『えへへ、実はね……』
アルナンタは少し得意げな声を出した。
『水鉄砲が撃てるよ!』
「……は?」
『体から、ピュッてお水を飛ばせるの! すごいでしょ?』
「小学生の水遊びかよ! いや、まぁこれは目眩しくらいには使えなくもないか? ……他に魔法は覚えてねぇのか?」
『ないよぉ。魔法はね、基本的に書物を使って会得するしかないの。魂魄交替の儀はたまたま寄った古代遺跡に書物が偶然落ちてただけなんだよね』
「へぇ、書物ね。それよりお前が文字を読めることのが驚きだわ。誰に習ったんだよ」
『えへへ、お母さんに教わったからね。まぁ、でっかい野鳥に連れ去られて死んじゃったと思うけど……』
アルナンタの声が少し悲しげに沈んだ。
この異世界はサバンナのように厳しい食物連鎖が存在する。
丸腰の最弱魔物ではスローライフなど到底出来るものではない。
「そうか、お前の母さん、死んじまったのか……」
流石の明無多も、親の死を悲しむアルナンタに悪態をつくことはしない。
『……まぁ、もうずっと前のことだけどね。そもそも、私たち魔物じゃ書物なんて滅多に手に入らないんだよ。このお水魔法の書物だって、捨てられてたのをたまたま見つけただけだし。だから魔法を使える魔物なんてひと握り。ん? じゃあ、禁術とお水を出せるわたしって結構すごいんじゃないかな?』
アルナンタが再び能天気な調子で語り出した。
「ちっ。無駄に努力してクソみてぇな禁術習得しやがって。そのまま野垂れ死んでればよかったのにな」
『ひ、ひどいよ童佳っ!』
「うるせぇっ!」
明無多の怒声が響く。
本当に、どうしてこんな生物がこれまで生き延びてこられたのか不思議でならない。いや、生き延びられそうになかったから自分に体を押し付けてきたのだと思い出し、明無多はさらに苛立った。
しかし、酔っていたとはいえ魂魄交替の儀を承諾し、成立させてしまった自分にも責任がある。これを指摘されると言い返せなくなるため、これ以上文句を言うのをやめた。普段は抜けているくせに、たまに正論を吐いてくるのがまた厄介だ。
「で、魔法ってのはどうやって使うんだ?」
『ん? 頭の中で思えば出来るよ。水よ出ろっ! て感じで!』
「こうか?」
明無多が念じると、体からぴゅっ、と細い水流が放出された。市販の水鉄砲程度の威力で、お世辞にも戦闘に役立つとは思えない。
『あ、その魔法は魔力以外にもわたしの体の水分も使うから、あんまり使いすぎるとカラカラになっちゃうから気を付けてね』
「へぇー、そいつぁ大層便利なこった。お前、たまたま手に入れた書物の魔法もこんなに弱いのかよ。ある意味すげぇよ、その運」
『いやぁ、そんなに褒められても困るよ~、てへへ……』
「褒めてねぇよ。……まぁいいわ、お前の知能は終わってるしな」
『えっ!? なんでそんなこと言うのっ!?』
皮肉のつもりだったが、アルナンタの理解力では一切通じないようだ。
突如、明無多の体全体がぶるぶる、と細かく痙攣した。これはスライム種特有の、人間でいう腹の虫が鳴る現象に等しい。
「……腹減ったな。そういや、こっちじゃまだなんも食ってなかったか。てか、なんでスライムのくせに腹減るんだよ。水みたいなんだから水だけでいいとかそういうご都合主義ないわけ?」
『え? 向こうのしょうせつ? ってやつ見て、ご都合主義嫌だって言ってたからむしろいい事じゃん。それに童佳、わたしが隠れ家に貯めた食料嫌がるんだもん。捕まえたイモムシとかいっぱい貯めてあるのに』
「あのな、私は人間なんだよ。お前らと同じもんなんて食ってたまるか」
明無多はそう吐き捨てた。この異世界で得体のしれない虫など食べる気にはならず、まだ何も口にしていない。
『あー、確かに君の世界の美味しい食べ物知っちゃったら、もうこんなの食べれないかもしれないねぇ』
「そういう話じゃな……いや、もういいわそれで」
ぐだぐだと文句を言っていても腹は膨れない。明無多は意を決して、隠れ家の入り口を覆うツタの隙間から外へと這い出た。
鬱蒼と生い茂る森。見上げるほどの巨木が立ち並び、得体の知れない獣の鳴き声が遠くから響いてくる。明無多は木の根元や茂みの影に身を隠しながら、慎重に移動を進めた。
しばらく進むと、前方からガサガサという物音が聞こえた。明無多は動きを止め、透明な体を地面にぺったりと這わせて息を潜める。
茂みを掻き分けて現れたのは、ネズミのような魔物だった。大きさはドブネズミ程。背中には硬そうな鉱石のようなものがびっしりと生えている。明無多は隠れようとしたが、赤い小さな瞳に見つかってしまい、相手は鋭い前歯をカチカチと鳴らして威嚇してきた。
『あ、あれは岩殻鼠だよ! すっごくすばしっこくて、背中の石は硬いから気をつけてね!』
珍しくアルナンタが役に立つ情報を提供する。
「なんだこりゃ、ハリネズミの亜種みたいなもんか……? ちくしょう、やるしかねぇのか」
明無多は素早く思考を巡らせる。正面から突っ込んでも機動力で負けるし、あの鋭い歯で体を噛みちぎられたらひとたまりもない。
「おいナメクジ、あのネズミの弱点はなんだ?」
『えーっと、お腹かなぁ? でも、警戒心が強いからなかなか近づけないよ』
「ふーん。でも、上から降ってくる岩には対応できないだろ」
明無多はニヤリと笑うように、体内に浮かぶ二つの目玉を細めた。
そして先程の要領で、水鉄砲の魔法をネズミの顔面に向けて浴びせた。
「キュッ!?」
突然の冷たい水にネズミが驚き、短い前足で顔を擦っている隙を突く。明無多は音を立てずに近くの巨木に張り付くと、不定形の体を駆使してするすると幹を登り始めた。
そして、ここで事前に体内に取り込んでいた手のひらサイズの岩石を利用する。スライムは、物を取り込む能力に長けている。明無多はこの性質を利用し、外部の武器を使うことで圧倒的な攻撃力の無さを補うことにした。
枝の上まで登りつめ、岩殻鼠の真上へと位置取る。ネズミは突如消えた獲物に戸惑い、周囲をキョロキョロと見渡しているが、頭上の脅威には全く気づいていない。
「いくぞ」
明無多は体から岩石を押し出し、自由落下させた。
どごっ! という鈍い音と共に、岩石が見事に岩殻鼠の頭部に直撃した。
「ヂィィィッ!?」
想定外の衝撃にネズミは短い悲鳴をあげ、やがてピクピクと痙攣したのち、完全に動かなくなった。
『すごいっ! やったね、童佳っ! こんなことも出来るんだ、全然思いつかなかったなぁ』
アルナンタが脳内ではしゃぐ。
ゆっくりと幹を伝って地上に降り立った明無多は、目の前に転がるネズミの死骸を見つめた。
『ごちそうだよ、童佳っ! こんなの、たまたま死んじゃったの見つけた時にしか食べれないよ!』
「食うわけねぇだろ、ネズミなんて。汚ぇし、食って病気になったらどうするんだ。そもそもネズミを食う人間なんて命知らずの物好きしかいねぇよ」
『えー! もったいないっ! 贅沢だっ!』
「いやまぁ、この背中の鉱石はなんかに使えるかもな。もらっておくか」
明無多は再び岩を打ち付けて背中の鉱石を割り剥がし、それを自身の体内へ格納した。食べるとは別枠らしく、体内に異物があっても不快感はない。現実で言うところのポケットに物を突っ込んでいる感覚に近い。
「ん? おい、あれはどうだ?」
明無多は先程ぶら下がっていた木の上方を触手で指し示した。枝の先には、真っ赤に実ったリンゴのような果実がいくつも実っている。
『あ! あれは紅蜜果だよっ! 甘くて美味しいんだ。たまに地面に落ちてる、わたしの大好物っ!』
「そうか、なら食えそうだな」
再び木に登り、触手を伸ばして果実をむしり取る。
地面に戻り、表面に顔を近づけて香りを嗅いでみる。甘い香りと、ほのかな酸味を感じる。嗅覚器官がどうなっているのか原理は分からないが、匂いもしっかりと感じ取れる。
「これ、どう食うんだ? お前の食事方法を私は知らん」
『簡単だよ。口に放り込んで、そのまま溶かすんだよ』
「へぇ、そこはアメーバそっくりなんだな」
明無多は言われた通り、ぱっくりと裂けた口に果実を放り込み、体内で強力な消化液を分泌し始めた。これがスライム特有の捕食方法らしい。
体内で果実が徐々に溶けだし、濃厚な甘みと爽やかな酸味が全身に広がる。樹上完熟で育てられた高級なリンゴのような味わいだ。味覚というものがどう備わっているかは知らないが、とにかく味もはっきりと感じる。
「お、中々美味いな。何個かもらってくか」
同じように果実を採取し、三つほど平らげて腹を満たした。その後、さらに果実をいくつかもぎ取り、体内に格納する。全部根こそぎ持っていきたいところだが、あまり多くのものを取り込み過ぎると体の動きが鈍くなるため自重した。
「あ、そういやここ、塩とかねぇの? 塩水に漬け込めばもっと甘みが引き立って美味いんだぜ、こういうのは」
『塩? しおってなぁに?』
「……お前、調味料って概念を知らないのか。それとも異世界にはんなもんねぇのか?」
『うーん、基本そのまま食べるのが普通だよ? あ、でもたまに甘蜜花の蜜をかけて食べる魔物もいるみたい!』
「どこのフレンチだよ。次からはそれ探すか……」
異世界の食事情に文句を垂れながらも、空腹感は確実に満たされ、少しだけ体力も回復したような気がする。
「とりあえず、当分の飯は確保した。あとは隠れ家に戻って、眠くなるまで待ってさっさと現実に戻るだけだ」
『えー、もう帰っちゃうの? もっと探検しようよ!』
「ふざけんな。こんな危険な場所、一秒でも早くおさらばしたいんだよ。お前のそのポンコツ頭じゃ危機感ってもんがわからねぇだろうがな」
明無多は満腹になって少し重くなった体を引きずりながら、再び木の枝へと張り付いた。凶暴な獣がうろつく地上を避け、木々を伝って隠れ家へと戻る安全なルートを探し始める。
このふざけた二重生活から抜け出す方法は、まだ見つかりそうにない。明無多は異世界の生ぬるい風を感じながら、心の中で特大の悪態をついた。
♱♱♱
スマホの画面では、色鮮やかなフリル衣装を身に纏った少女たちが、派手な光のエフェクトと共に謎の怪物と戦っている。明無多は机に頬杖をつきながら、画面の中の作り物めいた光景をぼんやりと眺める。
「ほら、お望みのマギカル・ルルの続きだ。満足か?」
『うんっ! ルルちゃんかわいい! このあにめの魔法、ほんとにすごいね。どういう術式が組み込まれてるのかなぁ?』
脳内でアルナンタがキャッキャと騒ぎ立てる。
明無多は冷めた口調で口を開く。
「術式もクソもあるか。ただのCGだろ」
『しーじー? よくわかんないけど、こっちの世界の魔法はすっごくキラキラしてて綺麗だねぇ。わたしたちのいる世界の魔法なんて、もっとこう、泥臭いっていうか……血生臭いっていうか……』
「お前が使ったあのクソみたいな憑依術のせいで、私の人生はそんな血生臭いサバイバルに巻き込まれてるんだがな」
明無多はぼんやりとスマホの画面を見つめたまま、反対の手で掴んでいた缶のグレープサワーを勢いよく呷った。
平日の昼間、薄暗いボロアパートの一室で飲む酒は、背徳感も相まって格別だ。今日の仕事はシフトが入っていないため休みをもらっている。土日祝関係のない不規則なシフト制の仕事だが、早朝に出かけていくスーツ姿の社畜を窓から見下ろしたり、こうして平日昼間から酒盛り出来るという特権がある。
『ねぇねぇ童佳、なんでルルちゃんは変身して魔法を使わないの? 今、敵が目の前にいるのにっ!』
アルナンタが、スマホのアニメを見つつ焦ったような声を上げる。
「お前見てなかったのか? 妖精と契約した時言ってただろ、誰かに正体がバレたら魔法少女の力を失うって」
『あっ、そうだったっ! 忘れてたっ!』
「しかし、意外と悪くないもんだな、こういうの。キャラデザも悪くないし、作画もいい。偏見で避けたりするもんじゃないかもな」
明無多も画面のアニメの滑らかな動きを見つつ零す。
これまでこう言った類のアニメはくだらないと毛嫌いしていたが、いざ腰を据えて見てみると意外と設定も凝っていて面白い。世間で魔法少女のブームが起きたのも頷ける完成度だ。
『あれー? なになに、やっぱり童佳もあにめ大好きなんじゃんっ!』
「うっせぇ。あの異世界転生小説なんかと比べたらマシってだけだ」
明無多は誤魔化すように舌打ちをし、空になった缶をゴミ箱に向かって放り投げた。缶は縁に当たって鈍い音を立て、フローリングの床に無様に転がる。それを拾いに行く気も起きず、大きくため息をついた。
「そもそも、なんで私がこんな目に遭わなきゃなんねぇんだ。二十四歳、未来ある若者だぞ。それが寝るたびにアメーバに逆戻りって、何の罰ゲームだよ」
『でも、童佳ならわたしよりもっと上手く体を使えるから大丈夫だよ! それに、わたしも童佳の世界でこうして色んなもの見られて、すっごく楽しいっ!』
「お前が楽しいだけだろうがクソナメクジ。そもそも、死のうと思ってこのふざけた禁術を使ったんだろ? なら潔くその自意識も消したらどうだ?」
『それはそうだけど、今はもう死んじゃうつもりはないよ? わたし、この世界のこともっともっと知りたいなっ!』
「ああそうかい。こっちは異世界とかどうでもいいから、とっととこのリンクを解く方法が知りてぇわ」
脳天気な声にますます苛立ちが募り、明無多は吐き捨てた。この能天気なナメクジは、自分のしでかした事の重大さをこれっぽっちも理解していない。
『終わっちゃった……。ねぇ童佳、続きはないの?』
エンディングテーマが流れ終わり、アルナンタが悲しげな声を上げる。
「続きは来週だな。……まぁ、私が生きてればだけど」
明無多は深いため息をついた。
『らいしゅう? ってなに?』
「……七日後ってことだ」
『そうなんだ! なら、それまで頑張ろうね、童佳っ!』
現実世界で肉体が眠りにつけば、またあの地獄のような異世界での生活が待っているというのに、アルナンタはどこまでも他人事だ。
しかし、こちらにもアドバンテージがある。
現実世界にいる間、アルナンタから異世界の情報を聞き出したり、作戦会議が出来るということだ。常に命の危険と隣り合わせの異世界でするよりも、安全なこっちの世界の方が、アルナンタの支離滅裂な情報から有益なものだけを抽出したりと集中できる。
「よし、アニメは終わりだ。じゃあ、お前の知ってること洗いざらい話してもらうぞ。なに、時間はたっぷりあるからな」
『えー! 他のやつも見たいよー!』
「あのな、今は向こうで今後どうするか話し合わなきゃなんねぇんだよ。動画なんて休憩がてら見せてやるから」
『わかった! 童佳にわたしの世界、色々教えてあげるねっ!』
アルナンタは、素直に元気な声をあげた。
とにかく、一番の目的は一刻も早くこの憑依術の解き方を探さねばならないことだ。こんな術が存在するならば、きっと解除法もあるはずだ。そう願いたい。
だがまずは、異世界で確実に生き抜くすべを身につけることが優先される。
明無多は冷蔵庫を開け、よく冷やしておいた二本目のレモンサワーを取り出した。




