一 ◇
一
あー、目覚めが悪ぃ。
明無多童佳は、じっとりと汗ばんだ首筋を掻きながら目を覚まし、真っ先にそう思った。
見慣れたボロアパートの、シミだらけの天井が視界に入る。
最近、おかしな明晰夢を見るのだ。自分がこの日本とは全く異なる異世界──つまり、剣や魔法が存在するファンタジー世界のような場所で、無色透明のアメーバ状の生物になっている夢だ。あまりにも感覚がリアルで、森の土の匂いも、大蛇の生臭い息も、そして冷や汗が出るほどの死の恐怖も、すべてが鮮明に脳に刻み込まれている。巨大な獣に追われたり、毒草を踏み抜いたりして何度も死にかけ、その度に散々な目にあっている。
明無多は、万年床となっている薄っぺらい布団から、のそのそと這い出て立ち上がった。
狭いワンルームの部屋で、まず目を引くのは彼女のその圧倒的な長身。
百八十四センチ。日本の女性としては完全に規格外の体躯だ。
背中まで届く艶やかな長い銀髪に、誰もが振り返るような整った顔立ち。だが、三白眼気味で極端に目付きが悪いせいで、その表情は常に何かに苛立ち、メンチを切っているように見える。そして、だぼっとしたスウェットの上からでもはっきりと主張する豊満な胸が、不釣り合いな色気を放っていた。
明無多は、先程までの死の恐怖という嫌な記憶を忘れようと、大きく深呼吸をした。
(そう、あれはただの夢だ。私は日本住み、日本生まれ。二十四歳、大学を卒業してから適当に働いてるしがない社会人。今は家賃四万ちょいのボロアパートに一人暮らし。あんな恐ろしい世界で、スライムだかアメーバだか分かんねぇ変な生物になんて、なっている訳がない)
自分に言い聞かせるように脳内で反芻し、台所に向かい、電気ケトルのスイッチを入れる。インスタントのコーヒーをマグカップに入れつつ、あれはただの悪夢だと思い込もうとした。
『いやぁ、あの大蛇はやばかったね、童佳っ! 丸呑みされるかと思ったよ。それよりもすごいのは、あんな風に木を飛び移るなんて、わたしじゃ絶対に思いつかないよ!』
頭の中。
甲高く、脳の髄を直接引っ掻くような女声が響いた。
ここ数日、嫌というほど何度も聞いた不快な声だ。
「ちっ。誰のせいだと思ってんだ、このクソナメクジが」
明無多は、不快感を一切隠すことなく、眉を思いきり顰めた。
『待ってよっ! わたしの名前はナメクジじゃないって何度言わせるのっ! わたしには、アルナンタ・ド・ウジカって立派な名前があるの。それに、わたしの種族はスライムだって言ったでしょ!』
「うるせぇよナメクジが。元はと言えば、てめぇが魂魄交替の儀とかいうふざけた禁術で、私の自意識を勝手にお前の体に転送させたのが原因だろうが」
『だって、死ぬのは怖かったんだもん。でも、童佳は本当にすごいよ。わたしじゃ、あんなすごい動き出来ないもん。触手で木を飛び移るなんて、天才のひらめきだよっ!』
「お前がただ単に自分の体を上手く使えてなかっただけだろうが。どんだけ運動神経死んでんだよ」
明無多は頭の中で騒ぎ立てるアルナンタを無視し、お湯を注いだマグカップを手に取った。ブラックコーヒーの香りを嗅ぎながら、ゆっくりと一口飲む。
そう、この馬鹿げた事象は、決して夢などでは無い。
明無多童佳は現在、この日本の現実世界と、見知らぬ異世界との交差生活を余儀なくされているのだ。
アルナンタの使った禁術は、他者の魂を自らの肉体に憑依させ、体を完全に明け渡すという性質のものだった。
この術を成立させるには、いくつかの厳しい条件が存在する。
まずは、対象となる魂が自分の肉体に適性を持っているということと、性別が同じであること。次に、言語が限りなく近いか、あるいは魔術的な翻訳を介して意思疎通が通じること。
さらに厄介なのが、お互いの名前が近い事だ。
明無多童佳、アナタ・ドウカ。
アルナンタ・ド・ウジカ。
ふざけた偶然だが、この通り名前の響きがほとんど一致してしまっていた。
そして最後の条件が、対象の<憑依承諾>を得ること。
数日前。ある日、明無多は夢の中で、透明なアメーバ状の生物と出会った。真っ白な空間で、その生物は泣きそうな声で『わたしの体をもらって欲しいの』とすがりつくように頼んできた。
普段の素面の明無多であれば、「なんだお前は、キモいんだよ失せろ」と蹴り飛ばして終わる所だった。しかし不運なことに、この日の明無多は安物のウイスキーをストレートで呑み明かし、泥酔して気を失うように眠りについていたのだ。
そのため、夢の中でもひどくぼんやりとしており、面倒くささが勝って『あー……いんじゃね? 好きにしろよ』と、たった一言、適当な相槌で承諾してしまった。
そのせいで、このふざけた禁術が見事に成立してしまった。
初め、明無多が目覚めると、自分が夢で見たあのキモい生物になって、薄暗い洞窟にいることには大いに驚いた。タチの悪い夢かと思ったが、異世界でも現実世界でもアルナンタの能天気な声が脳内で直接響き、一連の事情を理解した。
当然、ブチ切れた。激怒した。
自分にはこの現実世界でのしがらみと生活がある。こんな、いつ死ぬかも分からないファンタジー世界への転生など微塵も望んでいない。ましてや、奇妙なアメーバ状のキモイ生物になるなど、到底認められるはずがなかった。
しかし、もうどうしようもないことだった。
アルナンタは「禁術の解き方は知らないの」と悪びれずに言うし、明無多は仕方なく、この理不尽すぎる現実を受け入れるしかなかった。
しかし、不可解な点があった。なぜ別世界の、日本住みの明無多がピンポイントで呼び出されたのか。なぜ明無多は現実世界でも活動しているのか。そして、なぜ体を完全に明け渡したはずのアルナンタの自我が消滅せずに残っているのか。
ひとつ目は、禁術の条件を奇跡的に満たしていたのに加え、アルナンタの術式発動と、泥酔した明無多の深い睡眠のタイミングが、コンマ寸分違わず一致してしまったことで、次元を超えたイレギュラーが発生したためだ。
ふたつ目は、この異世界の交差というイレギュラーにより、明無多の魂は半分だけ異世界に引っ張られ、綺麗にふたつに別れてしまった。
そしてみっつ目だが、同じくこのイレギュラーのせいで、肉体から押し出されるはずだったアルナンタの自我が明無多側の強い魂に引っ張られ、こうして意識体として脳内に残り、奇妙な共生状態となってしまった、という訳だ。
『ねぇねぇ童佳、次はどうするの? あそこ、あんまり食べ物なさそうだったよ』
脳内で、アルナンタがのんきな声で言った。
「知るか。まぁ、とりあえず飯探しか? お前も食わねぇと飢え死にすんだろ? あっちの私が死んだら、こっちの私も連動して死ぬんだろ?」
『うん、そうだよ。完全にリンクしてるからね。でも、主導権は君にあるから、童佳が何もしないと二人とも一緒に死んじゃうよ。よろしくねっ!』
「クソが。腹立つなその言い方。……つーか、なんでお前、自分の世界のこと全然知らねぇんだよ。自分が今いる森の名前すらろくに知らねぇなんて、どうやって生きてきたんだ」
『仕方ないじゃん。だってわたし、スライムの中でも特に頭良くないし。ずっと洞窟の隅っこで苔食べてただけだもん。あ、そうだ! 童佳の持ってるその、<すまほ>ってやつで調べれば分かるんじゃない? こっちの世界じゃ、わたしたちの住む異世界ってのはすごく有名なんだよね?』
「それはアニメとか小説の空想の話だ、クソナメクジ。作り話に決まってんだろ。……いや、待てよ。案外、テンプレ通りでそっくりな設定なのかも知れないな。ちょっとだけ調べてみるか」
明無多は机の上に放り投げてあったスマホを手に取り、画面をタップした。
『あっ! そうだ童佳、いつもの<ヤーチューブ>の動画、また見せてよっ! ほら、あのキラキラした<あにめ>ってやつ!』
スマホの画面を見た瞬間、アルナンタが声を弾ませて要求してきた。
アルナンタは、明無多の視界を通して現実世界の景色を覗き見ることができるのだが、彼女にとって見たことの無い高層ビルや機械、美味しそうな食べ物の数々はひどく刺激的だったらしい。こうしてスマホやテレビを見るたびに、子供のように騒ぎ立てることが多いのだ。
「お前、さっきの異世界調べるって話、もう忘れてるだろ。鳥頭……いやナメクジ頭かよ」
明無多が苛立ちを隠さずに、スマホの画面を睨みつけながら言った。
『え? なんの話だっけ?』
アルナンタは、本当にすっぽりと記憶から抜け落ちているらしい。
「……はぁ、まぁいいか。お前の知能に期待した私が馬鹿だった。とりあえず、適当に異世界転生もののテンプレ設定でも漁ってスライムの生存戦略でも調べるか」
『あっ! ねぇ、ヤーチューブは!? 無視しないでよっ! 見たい見たい見たいっ!』
脳内でガンガンと響くアルナンタの騒音を無視し、明無多はブラウザを開いて小説サイトにアクセスした。
(次寝たら、またあのクソ異世界だ。それまでに何とか、効率のいい狩りの仕方とか、生き延びる手段とか対策を考えとかないとな)
そう、現実と異世界の交差の絶対条件は、<深い眠りにつくこと>だ。現世界での睡眠はともかく、あの危険がひしめく異世界で、下手な場所で寝てしまったら速攻で魔物に食われて死にかねない。
幸い、アルナンタは禁術研究の為に長い間引きこもっていた、比較的安全な魔力隠しの洞という隠れ家を持っていたため、向こうで明無多の意識が眠っている間にぽっくり逝くことはなかった。
とは言え、今夜寝たら、またあの異世界でのサバイバル生活が始まるのだ。明無多にとって、それは憂鬱以外の何物でもなかった。
「んだこりゃ。チート能力もらって無双? ハーレム? 小学生の妄想かよ。こっちはきっしょいナメクジで最悪なんだよボケ。クソザコナメクジがスローライフなんて出来るわけないだろ」
明無多は、スマホに表示されている某巨大サイトの、自分にとって何の役にも立たない、ランキング上位にある見るに堪えない都合の良い異世界ものの小説画面をスワイプして閉じた。
『あ、それ終わった? ねぇ終わったよね? じゃあそろそろヤーチューブ見せてよ、ヤーチューブっ!』
アルナンタの甲高い声が、再び催促するように響いた。
明無多は息を吐いた。
どうせネットの知識で都合良く異世界の攻略法など見つかる気がしない。
何より脳内で喚き散らすこのやかましいナメクジがひどく面倒臭かったため、仕方なく相手をしてやる事にした。
「はいはい、分かったよ。で、今回は何が見たいんだ? 猫の動画か? 毎日ラーメン食ってるヤーチューバーか?」
『違うよっ! あの魔法少女のあにめの続きっ! 星屑乙女マギカル・ルル!』
「……はいよ。あーあ、二十四にもなって朝から魔法少女アニメ見るとか、終わってんな私の人生」
明無多は深いため息をついて憂鬱を抱えつつ、動画アプリのヤーチューブを開き、前回途中までアルナンタに見せられていたアニメの公式アカウントの再生リストをタップした。
『やったぁ! 早く早くっ!』
「うるせぇ。頭痛がしそうだから頭ん中で叫ぶな」
文句を言いながらも再生ボタンをタップし、明無多は冷めたコーヒーを飲み干しながら、仕方なく画面の中で変身する魔法少女を眺め始めた。




