第十三章•波紋㊀
瞼が、ゆっくりと開くーー
燦々と差した陽光に、身を起こした紅は、眩しく目を瞬かせた。
束の間、自分がどこにいるのかわからなかった。ーーが、それはゆっくりと、昨夜までの出来事がーー〈夢〉の記憶がーー枠のなかに、ストンとはまるのだった。
細い視界に、バルコニーのガラス戸を開け放ち佇んだ、後ろすがたが映る。
緑の精気を孕んだ、さわやかな風が、顔をなでたーー。
艶やかに、真っすぐな黒い髪が、美しく揺れ動くーー
「おはよう」
「……おはよう……」
新しい朝を喜ぶ、鳥たちのうららかなさえずりが、明るい部屋に響き渡るーー
気まずさを隠せない、紅の瞳が反対側のベッドを見ると、三人はまだ寝ていた。
とーー視線の先で、渦がむっくりと起き上がる。その目は閉じたまま、金色の長い髪が、寝癖にあちこちへ膨れ上がり、大きく伸ばした腕に、さながらライオンの如く、豪快なあくびをみせるのだった。
「……ううぅっーん……朝だ……あれ……ここどこだっけ……」
掠れた声に、半開きの目が、はっと身体を見る。
「パジャマだ!」
紅の瞳も、はっと見開かれた。
確かに、今着ているのは、〈夢〉のなかで纏っていた〈衣装〉ではなく、昨夜用意されていた、なんとも着心地の良い、絹のパジャマだった。
「起きてすぐ見に行ったけど、なにも変わってなかった」
ガラス戸を閉めて、歩いてきた青が、次の言葉を見越して言う。
「……ってことは、やっぱりみんなの〈夢〉が、一つに繋がってたわけだ……。たぶん、ナリ花王とサザも」
そのときーー鼓がバサっと、起き上がる! 自慢の巻き毛が、寝癖もあいまり、さらにボリュームを増して、今や見事な芸術作品のようだった。
「〈夢〉がっ!……サウ……〈サウ•ゴーン〉がっ……」
「今その話をしてたの」
見るからに慌てて、まだうまく動かない口と声をぱくぱくとした少女に、青が冷ややかに言う。
「鼓、すごいね! 私なんか一瞬忘れてたよ。 うち低血圧だからさーどうにも朝が弱くて。 起きた瞬間から頭が冴えてるなんて、羨ましい。 プラスでそのレアな髪型も、かなり冴えてる」
隣のベッドにいた渦がニヤリとして言い、少女ははっと手を頭に、恥ずかしそうに上掛けを、赤くなった顔まで持ち上げるのだった。
渦の笑い声が消え、流れた沈黙に、みなの視線が、残るベッドにとまるーー
穏やかな寝息を立てた少女は、しかし起きる気配をみせなかった。
隣のベッドにいた鼓が、ゆっくりとおりていくと、ぐっすり眠っている華奢な身を、そっと揺らした。
「……宿……起きて……宿……宿っ!……」
次第に激しく揺さぶられ、ようやく目覚めた少女は、その稀にみる寝相の良さからか、はたまたもともとの羨ましい髪質なのか、まったく寝癖のついていない髪に、薄く目を開けて、まだ寝ぼけた顔をしていた。ーーが、徐々に意識がはっきりしてくると、次の瞬間、まるい目を目一杯に見開くのだった!
「……〈パドール〉!……大きな鹿が!……みんな〈衣装〉を着て!……」
「鼓と同じリアクション」
ベッドの上にいた渦が、お腹を抱えて笑いころげるのだった。
紅もつられて、笑みが浮かぶ。鼓と、ぽかんとしていた宿の顔にも、笑顔が浮かんだ。
青がしっと制し、その顔が寝室の扉へ向くーー
和やかな雰囲気から一転ーー緊張が走った空気にーーまもなく、ハスギの声が響いた。
「みなさま、お目覚めでしょうか。 朝食を、お持ちいたしました」
朝食を済ませた5人は、再び〈衣装〉すがたに、部屋の中央にある、大きなまるい机を囲んで、座っていた。
紅たちの身支度を手伝い、おのおの寝癖のついた髪を、美しく整えてくれたのは、昨日ハスギが話していた、故ララン王妃の側仕えであった、〈カチェラータ王国〉出身の、シャシャ•カイメだった。
王の第一側近と共に、朝食を運んできたカイメは、紅があの〈幸巻き〉から想像した通りに、いかにも美味しい料理をこしらえそうな、どこかほっとする容姿をしているのだった。
背は低く、なんとも安心感を覚える、厚みのあるふくよかなまるい身体に、艶のある白髪を、王国の正装である〈朱色のリレ〉で、品高く包み飾っていた。
カイメは、パジャマすがたに、寝癖のついた5人を見るなり、笑い皺の刻まれた双眸から涙を溢れさせ、身を震わせ、深々と頭を下げるのだった。
その見た目通りの、あたたかな人柄に、カイメと紅たちが打ち解けるまでに、時間はほとんどかからなかった。
老齢な女中の瞳は、淡い緑色を帯びていて、その瞳のなかに、〈特徴的な模様〉がーーまるで、〈5枚の花びらをもった、黄色の花〉が、存在していた。
いち早く気づき、興味津々に渦が聞くと、カチェラータ人の多くが同じ瞳をもち、〈カチェラータ王国〉の国花である、〈ウォルカの花〉と、色もかたちもそっくりのことから、〈ウォルカの瞳〉といわれ、みな誇りに思っているのだと、教えてくれた。
そうして、無事に用意を終えた5人は、王広間で行われる、朝の会ーーいよいよ、〈神恵ノ国〉の者たちと対面するため、迎えに呼ばれるまで、部屋で待機していた。
どんなときも、緊張をしないタイプだという渦、この場に及んでも、相変わらず淡々とした青をのぞいてーー紅、鼓、宿の三人はといえば、これまで経験したことのない、極度の緊張に襲われ、朝からそわそわと、落ち着かなかった。
喉がすぐに乾き、紅は先ほどから何度も水を口にしていた。そうしてまた、目の前にあるガラスのゴブレッドをとり、飲んで置こうとしたときーー突然、青がつぶやいたーー
「〈火の鳥〉ーー」
紅はあやうく、王妃の遺品である貴重なグラスを、倒しそうになった。ーーが、なんとか、もとへもどした。
蒼ざめ、見開かれた紅の瞳が、斜め前に座する、相手を見つめる……。
黒々とした眼差しが、真っすぐに射抜いていた。
「〈アビ〉っていうんでしょ」
「……どうして……」
凍りついたように固まったまま、震える細い糸のような声を絞り出す……。
「火事がトラウマで、火が怖くなった」
思い遣りのかけらもない、その冷淡な声と同じほどに、容赦のない目が、打ちのめされた相手を見据える。
「紅……そうなの……?」
渦が努めて静かに、動揺を抑えた声で聞く。
息を凝らした、みなの視線が注がれるなかーー激しい動悸に、めまいのした紅は、目の前の机に置かれたグラスを取ろうと、震えた手を伸ばす……。
宿が立ち上がり、手助けしようとしたが、気づかぬ紅は、なんとかグラスをつかむと、なかに残っていた水を、飲み干すのだった。
小さくあたたかな手が触れ、紅がはっと横を見るーー宿の不安げな眼差しが、見つめていた。
「……水、入れてくるね……」
冷たく震える手からグラスをそっともらうと、宿は壁際の台へ行き、置いてあった水差しから、空になったグラスへ水を注いだ。
差し出されたゴブレットを、少し震えの収まった手が受け取る。
「……ありがとう……」
紅の掠れた声に、宿が首を振るのだった……。唇をぎゅっと噛み締め、目鼻が赤みを帯びていた。
「自分が火事を起こしたからーー」
「やめてっ!……どうして……紅ちゃんが苦しそうなの、わからないの……」
青の声を遮りーー鼓が立ち上がる。
冷たい視線が、拳を握りしめた少女を突き刺す。
「だったらいいの? みんな死んでも。 私たちだけじゃない。 ここにいる大勢の人が、化け物に酷く殺される。 たった一人のトラウマのために、見殺しにするの」
冷酷なまでに、淡々とした言葉が消えーー暗く重苦しい沈黙が、流れる………
「……どうして……〈アビ〉のこと……」
紅のか細い声が、しじまを破る……。
「火事を通報したの、私だから。ーーっていっても、当時は八歳の子どもだったから、実際には家に走って、母親が通報した」
「紅も……知らなかった……?」
血の気のない顔に、さらなる驚愕を張り付けた少女を見て、渦が静かに聞く……。
紅は、頷くのだった……。
「火事があった日、紅の家の裏道を歩いてたら、一瞬窓になにか光った気がして、気になって窓までいってなかを覗いた。 そしたら、紅と妹がいた。 ちょうど紅が手から、小さな〈火花〉をだして、妹に見せてた。 自分以外にも、不思議なことができる子がいるんだなって、そう思った」
青が、低い声に続けるーー
「そのままこっそり見てたら、妹が『〈アビ〉!〈アビ〉!』って、紅にせがんで、紅が困ったように首を振ったら、妹が大泣きした。 それで、〈火の鳥〉がでた」
こだます声を遠くにーー長く封じていたはずの扉が解かれーーまるで言葉たちが、あの日の鮮やかな映像に変化していくようにーー紅のしびれた脳裏に、浮かび流れていくのだった………
「今でもはっきり覚えてる。 おにぎりをつくるような形にした、紅の手が開かれると、鳩ぐらいの大きさの、〈火でできた鳥〉が現れた。 赤くメラメラ燃えてるのに、掌にのせた紅はまったく熱がる様子もなく、それどころか大切な宝物を見るように、笑っていた。 それが、本当に不思議だった」
「〈アビ〉が原因で、家が火事に……?」
静かな声に、渦が聞く。
不安そうな宿の目が、紅を見つめる。
「話したくなかったら……」
口を開いた鼓に、暗い少女の顔が向けられ、ゆっくりと振られる……。
紅はもう一度、ゴブレットをとり、水を一口飲むと、せわしく打つ心臓に手をあて……瞼を閉じ……深く息を吸う………
〈魂〉の奥深くーー闇のなかに、〈真紅の翼〉が浮かび輝き、力強く羽ばたくーーーいつのまに……これほど崇美なすがたとなっていたのか………
強くも、優しく包み込むような風が触れ……吹き抜ける………
紅は目を開けると、固く結ばれていた口を解いた……
「……うちの両親も、ずっと共働きで……妹と二人で留守番をするとき、みそれはまだ小さくて……泣いてぐずることも多かったから……よく〈火花〉や……本当に泣き止まないとき、〈アビ〉を呼んで……見せていた……」
「紅が呼んだら、〈火の鳥〉が現れるんだ! すごいね!」
渦が目を輝かせ、興奮して言うのだった。
影を映した表情に、首を振った紅はーー無意識のうち、今なお疼く、〈心の傷〉に触れるよう、そっと手を胸へあてる……
「……あの日も……見てるだけって、約束したけど……〈アビ〉が飛び立つと、みそれが追いかけて……捕まえようとして……それで……」
汗をかいた手の下にーー鼓動が激しく打ちつけ、紅は息が苦しくなり、一度口を閉じる……
仲間の悲痛なすがたに、たまらず鼓が口を開きかけたときーー青の鋭い目顔が、制するのだった。
深呼吸を繰り返し……落ち着いてきた紅は、再び気力を振り絞り、細い声に継ぐ……
「……慌てて、〈アビ〉をもどそうとして……でも……うまくいかなくて……火の粉が弾けて……気がついたら……みそれが泣いていた……左腕を、火傷していた……痛い、痛いって……パニックになって……」
静まり返った部屋のなかーー一言、一言、苦しく吐き出していった、紅の瞳から、震える言葉と共に、涙が流れ落ちていく……
今度は宿が立ち上がり、持っている絹のハンカチを渡そうとしたーーが、再び青の手が、ぱっと掴み止めるのだった。
それらにも気づかず、今や紅のすがたは、まるで自分自身に語り、もう一人の自分と、向き合っているかのようだった。
「……私のせいで……新しい家が焼けて……みそれの左腕には、一生残る痕が……それなのに私は……私は……火傷ひとつなく……絨毯の火も消さず……」
「きれいだって、思ったんでしょ」
放たれた声にーー紅の顔がはっと上がる……
滲んだ視線の先ーー真っすぐな黒い瞳が射通す。
深々とした沈黙が、流れるのだったーー
「燃える火に見とれていたーーそして、封じ込めた今も、恨んでると同じほどに、どうしようもなく、心惹かれているーー」
白い唇が開いたが、声は出ず……紅はぎゅっと、胸へあてた手を握り掴む……
「紅は気づいてないかもだけど、灯りを見るときの目が、いつも葛藤を映してた」
赤くなった目を、渦へ向けるーー
あたたかくも、強い眼差しが、見つめていた。
「紅は火にーー〈アビ〉に、恋をしてるんだね」
紅は泣きながら相手を見つめ、すがるように首を振る……
「怖いの……すごく怖いの……いつか……いつか本当に……誰かを殺してしまうかもしれない……」
「タラレバ言って、どうするの」
冷然とした声が響くーー
「現に妹も、誰も殺してない」
「でも傷つけたっ!……」
「生きていれば、誰だって傷つく。 心も身体も、なにかしら傷がつく。 傷つかない人はいない。 傷つけなかった人はいない。 紅はこれからその〈火〉をつかって、私たちと、この王国の人たちを守るんでしょ」
睨み合った二人ーー冷たく凍えた紅の心を、〈あたたかな翼〉が、包み込むのだった………
それは懐かしい……ぬくもりだった………
「〈アビ〉……」
震えた声が漏れる……
「……ごめんね……」
「青の言う通りだと思うよ」
少女が落ち着くのを待って、渦の声が通る。
「火事以来〈アビ〉を、遠ざけてきた?」
ようやく涙のとまった、紅の顔が頷く……。
「……自分の成長と共に……〈アビ〉も成長していることは……ずっと感じていた……」
大きく鼻をすする音が、しんとした部屋に響くーー
「紅ちゃん……辛かったよね……」
まるい目を真っ赤に、涙を流した宿が言う……。
「……妹さん……みそれさんとは……」
同じく、涙を流した鼓が、気遣わしげな目に、静かに聞く……。
「みそれは、火事のことを覚えてないって……腕の火傷のことも、言われたことはない……。 だけど……あの火事のあとから……家族とどう接していいか……わからなくなった……」
青が、椅子から立ち上がる。 絹のハンカチを、紅の前へ置くと、再び椅子へもどった。
「ありがとう……」
少し驚きながらも、紅はなめらかな手触りのハンカチを手に取ると、涙に濡れた顔を拭った。
「鼻水もどうにかして」
「でも……汚れちゃうから……」
「べつにいい。 ここにあったものだし、洗って返せばいいでしょ」
「ほんとツンデレだよね」
渦が笑って言う。
「意味が違うから。 出目金が三匹いたんじゃ、こっちも〈守護神〉の面目が立たない」
「やっぱ盗み聞きしてたんじゃん! 青は出目金きらいなの?」
「きらい」
相手の即答に、しかし渦は面白そうに、ニヤリと笑みを深めるのだった。
「紅ちゃん……話してくれてありがとう」
宿が言い、鼓も頷く……。
紅は影の薄れた、疲れた顔に、ゆっくりと首を振る。
「聞いてくれて、ありがとう……」
コン、コン、コンーーー
5人の視線が、部屋の扉へ向くーー
青がすっと、立ち上がるのだった。
「5分、時間もらう」
静かに言うと、豪華な扉へ歩いていった。




