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第十一章•下弦の月夜㊃

感じた気配に、紅が振り返るーー

「お化けじゃないから」

金色の長い髪を下ろしたすがたの渦が、寝起きの顔に、笑みを浮かべて囁く。

ベッドの並ぶ場と離れた、バルコニーへ出るガラス戸の前、奥まり居心地のよい小さな部屋には、いかにも座り心地のよさそうな、肘掛け椅子が二脚あった。

紅が座っていた、反対側の椅子に、渦が静かに座る。

「眠れないの?」

紅が、頷く……。

「でも大丈夫だから、岸呂さ……渦は寝て。……疲れているでしょ」

「今危なかったね」

渦が小声に、ニヤリと笑う。

「お気遣いどうもだけど、ぶっちゃけ紅のほうがひどい顔してるよ」

微苦笑を浮かべた紅は、静かにため息を吐くのだった。

「疲れた顔だけど、そこまでのベリーショート、なかなか似合う人いないから、もっと自信もっていいよ」

寝ている三人を起こさぬ声音で、笑みを湛えた渦が言う。

「なんか目覚めちゃったから、私もここにいよ」

「ごめん……」

「紅のせいじゃないから、謝る必要なし。 実は私、枕が変わると眠れなかったりする、繊細なお嬢だったりするの。 みんなには秘密だからね。ーーって、うそうそ。 眠りが浅いってのは本当だけど、全然みんなに言っていいからね。 で、なにが言いたいかというと、紅はなんでもかんでも自分のせいにして、すぐに謝るから、それはよくないってこと。 〈言霊〉ってあるからさ」

「ごめ……うん……」

「またまた危なかった」

相手のいたずらっぽい笑みに、固くなっていた紅の顔にも、自然と笑みが浮かぶ。

一人に張り詰めていた空気が解け、あたたかに和むのだった。

真夜中の砂時計が、さらさらとーー静かに、落ちていくーーー

二人は椅子のなかに身を沈め、黙したまま、深々たる砂の音に、耳を傾けていた。


「……どうしたら、強くなれる……」


深いしじまにーー紅が、つぶやく……。

真っすぐに目が合うと、紅はすぐに、逃げるように視線を逸らした。

目の前の相手に、聞きたいと思っていることーーしかし、それを口にすることで、もしかしたらその心を、時をかけて塞いだかさぶたを、傷つけ剥がしてしまうのではないかーー恐れと葛藤に、俯いた顔が上がらず、なかなか次の言葉が出てこなかった。

長い間が、あくのだった………


「パパのこと、だよね?」


速くなった鼓動に、一つ息を吸い……紅の瞳がゆっくりと、再び相手へ向くーー。

椅子の横にある、読書用のわき机の小さなランプの灯りが、光と影をつくりーーやわらかな笑みのなかに、寂しさを滲ませた顔を、静かに照らしていた。

「全然大丈夫ーーって言ったら、嘘になるけど、もう言葉にするのは平気だし、それが紅ならーーもちろん、他のみんなもそうだけど、こうして同じ運命に立ち向かう、信頼した仲間だから、ちゃんと話せるよ」

渦は一度口を閉じーーゆっくりと開く。

「紅のパパは、幼馴染だったから、葬式のとき、家族できてくれたよね」

紅が、頷く……。

「学舎の〈緑門〉に入学してすぐ、十三歳の……六月だったから、パパが殉職して、もうすぐ5年だ。 パパが死んだあと、一年間休学してたの」

「……そう……なんだ……」

「復学して、ゆでダコみたく、頭から湯気がでるほど猛勉強したから、今みんなと同じ学年に、いれてるってわけ。 運動だけだと思ってるだろうけど、本気をだせば、騎馬戦以外にもすごいんだから」

少女がニヤっと笑う。ーーそして、笑みを静め……真面目な表情になる。

「うちのパパはさ、小さいときに母親が出ていっちゃって、男親ひとりで育てられたの。 あの事件の、被害者のおばあちゃん、いたでしょ。 あのおばあちゃんに、すごくお世話になって、可愛がってもらったんだって。 おばあちゃんも早くに、旦那さんと息子さんを亡くしていて、ずっと一人で暮らしてたから。 おばあちゃんにごはん作ってもらったり、男親だと、いろいろ手のまわらないことがあったから、ボタンのつけ方とか、家事のやりかたとかーーだからパパはさ、本当に料理上手で、なんならママよりずっとうまくてさ、あ、今のは確実に怒られるから、シーっで。 おばあちゃん直伝のロールキャベツ、もう一度食べたいなぁ……なんて、よく思うよ。 本当にいろんなことを、教えてもらったって、いつも言ってた……」


深重な時が流れるーーー


「おばあちゃん、持病で重いぜんそくがあったの。 だからパパは、警察官になってからも、おばあちゃんのことが心配で、よく様子を見に家に行ってた」

再び間があきーー渦の大きく息を吸う音が、静まり返った部屋に響く……

「……強盗の犯人が、おばあちゃんの口と手足をきつく結んで、そのとき発作が起きてしまって……すぐ近くに薬があったのに……間に合わなかった……。 〈運命は残酷だ〉って、よく表現されるけど……そこへパパがきたことが、まさにその通りなんだと思う……。 犯人と鉢合わせして、追いかけて犯人の車に轢かれて……パパが立ち塞がったから、逃げられずに捕まったけど……パパの身体は……」

震えた声が消える……。

瞳に映る、苦しげな相手のすがたに、ひどいことをしてしまったと、後悔に苛まれ、口を開きかけた紅を、渦はすっと手を前にーー『大丈夫だから、最後まで聞いていて』とーー目顔に、伝えるのだった。

少女は気持ちを落ち着かせるように、深呼吸を繰り返し、闇の満たした窓の外へーー鏡のように映した、己のすがたを見つめるーー照らしていた光が縮まり、影が広がり包んだーーー


「パパが殺されて、自分のなかにあったなにかが壊れた。 おばあちゃんが助からなかったのなら、せめて、パパには生きていてほしかった。 おばあちゃんは高齢で一人暮らしで、パパはまだ若くて私たち家族がいた。 パパは、巻き込まれたんだって。 同じ被害者なのに、なにも悪くないおばあちゃんのことまでも憎んで。 そんなふうに思ってしまった、自分が心底嫌になった。 そのあとから、突然声が出なくなった。 自分の気持ちを、うまくコントロールできなくなった。 ママに連れられて、精神科にも通ったけど、結局、声は出ないままだった」


掠れた声が消えーー込み上げてきた思いに、震えてきた声を整えるように、沈黙が流れる………

紅は身じろぎもせず、視線も逸らさず、真っすぐに、かさぶたの下にある、深淵を見つめ語る少女のすがたを、静かに見守っていた。

しばらくして、再び声が継ぐーー


「そのあと自分は、朝から日が暮れるまで、パパの勤めていた、警察署の前のベンチに、居座るようになった。 警察署のなかに、捕まった犯人ーー二人を殺した男が、いたから。 パパの同僚だった人たちが、心配して、よく声をかけてきた。 でも私は、声が出ないから、気まずい沈黙が流れるだけ。 毎日毎日、学校にも行かず、雨の日だって、私がそこにずっといるもんだから、そのうちママのほうにも、連絡がいくようになった。 ママも、突然パパを失って、すごく辛いはずなのに、泣いてるすがたを見たのは、一度だけだった。 まだ小さな弟もいて、これから家族三人で、生きていくお金を、稼がなくちゃいけない。 だけど、ママは仕事をしばらく休んで、私を怒るわけでもなく、無理やり連れて帰るでもなく、お弁当をつくって、一緒にベンチに座るようになった。

ある日、私がいつも持ってきていたリュックを、ママが見せてって、なかを見て、工作好きだったパパが使っていた、カッターナイフが、入っているのを知った」


その声は震えていなかったが、紅の視線の先に映る、握り合わされた両手は、小刻みに揺れていた。


「ママは取り乱したり、問い詰めたりするでもなく、ただ私の手を握って、こう言ったーー『ママは渦のこと、信じているから』ーーって。……たったそれだけなのに、次の日から、少しずつ声が出るようになった。 自分の気持ちと、少しずつ向き合えるようになった。 ベンチに座る時間も、短くなっていった……」


深閑とした部屋に、渦が大きく息を吐く。

鼻をすすり、頬に流れ落ちたしずくを、さっと指で拭う。

やわらかな光に照らされた顔に、安堵したような笑みが浮かぶ。


「……私……なにも知らないで……強いって……決めつけて……」


俯いた紅の頬を、涙が伝い落ちるーー

膝の上に、ぎゅっと握った拳が震える……


「……本当に……ごめん……」


はっと濡れた瞼が開き、滲んだ視界に、あたたかな手が、冷たい手を握り包んでいた。

目の前にしゃがんだ、渦のすがたが映る。


「人は弱くて残酷で、時に嫌になるほど醜くもなるけど、こうして手を握り合える。 寄り添って、話を聞くことができる。 それもまた、人間の良さに強みだね」


鼻に皺を寄せた笑顔が、見つめるのだった。

満たした静寂に、外のテラスから、カァー……と、寝ぼけたような鳴き声が聞こえる。


「他にも仲間がいたね。 けどおしまい、さぁ、そろそろ寝よう。 あんまり泣くと、明日出目金みたくなって、青にケチョンケチョンに言われるよ。 まぁ、私は出目金好きだけどね」

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