《十八年前ーー5月十一日》
〈神恵ノ国〉創始爾来の、歴史的な日ーーー
その一日を言葉にして表すならば、『表裏一体』ーーこの言葉が、まさしくふさわしかった。
『運命の皮肉』ーーとは、古今東西言われたものに、ナリ花王子の〈成人ノ儀〉と、マル花王の崩御とがーーまさに同じ日に、刻まれた。
このときーー二人の王子にさだめられた〈試練〉は、もはやその結果が、歴然としていた。
そして、その感果を具現するように、ナリ花王子の〈成人ノ儀〉には、それは多くの人々が、参列したのだった。
当日の流れは、午前に厳粛なる〈儀式〉が執り行われ、午後からは夜遅くまで、祝いの宴が開かれる予定であった。
七年前に起きた、母ララン王妃の事件以降、自室から出ることがほとんどなくなったルイ花であったが、兄の祝い事である一日には、流れた月日に、精気が消え失せ、さらに細く蒼白さを増した表情のない面に、久しぶりに表の場へ、出てきたのだった。
父王から、成人になったことを意味する、ナリ花のために特別に作られた、〈美しい長剣〉が授けられ、〈儀式〉は滞りなく終了した。
そして、午後になり、祝いの宴がはじまった。
その主役はもちろん、ナリ花王子であったが、当の本人はというと、父王に言われていた通りに、絶え間なく祝いの言葉を受けとる間にも、弟ルイ花から、目を離さないようにしていた。
父も兄もーールイ花が特別な意味をもつこの日に、顔を見せてくれたことを喜び、安堵する一方でーーなにか得体の知れぬものが胸につかえ、一抹の不安を拭い去ることができなかった。
日が暮れ、夜になり、長い宴もようやく後半に差し掛かったときーー案じていた事態が起きた。
ナリ花が少しの間、目を離したすきに、ルイ花のすがたが消えたのだ。
目顔に側仕えのハスギとサザに知らせたが、離れたところにいた二人の様子からも、同じく見失っていたことは、明らかだった。
冷たく、血の気が引いていく感覚に、それでもナリ花は、周りの者たちに動揺を悟られぬよう、頭痛のため、部屋で少し休むと言い、案じる声にも笑顔をみせ、急く気持ちを抑え、あくまでも落ち着いた足取りに、王広間を後にした。
そして、すぐさま、ルイ花の部屋へ向かった。
部屋の前へ来たとき、ちょうど王の第二側近を務める、サザと合流するのだった。
部屋の前に立っていた兵士が、王子のもどりはまだだと答えると、いよいよ灰色の不安が全身を襲い、冷たく痺れたような身に、ナリ花はすぐさま次の行動へ移った。
サザが止め、ならば自分も共に行かせてほしいと頼んでも、ナリ花は強い覚悟に首を振り、最後には第二側近が折れるしかなかった。
用意を手早く整えた、サザの不安げな眼差しに見送られ、ナリ花は激しい胸騒ぎのなかーーひとり夜の〈湖〉へ、馬を駆けていくのだった。
なぜ〈透青湖〉だったのかーーーそれは確信に近く、ある記憶がーー冷や汗の滲む、息苦しい動悸のなかに、生々しく去来していた………
ララン王妃が亡くなったあと、部屋へこもりきりになった弟に対して、兄は〈スーレン族〉の〈郷〉ーー〈オッカ•ハーヤ〉へ、時間ができるたび、通うようになっていた。
深く負った悲しみをーーどうにも埋められぬ、心の空虚さを、誰かに話し、たとえうまく言葉に伝えられなくとも、ただ側にいて、震え縮む背に、あたたかな手を添えてほしかった。
父王は悲しみに浸るまもなく、長雨の天災に見舞われた王国に、取りかかるべく膨大な事柄に追われ、それは余儀ないことに、顔を合わすことが少なくなった。
〈城〉にいれば、自分でもどこへぶつけ、どうしたらよいのかわからぬ感情ーー胸を抉る冷たい悲しみーー身をよじるような激しい怒りがーー〈郷〉にいる間は、落ち着き安らいだ。
もとより、彼らの自然豊かな〈郷〉に心惹かれ、訪れるたび、心癒されていたナリ花であったが、彼らもまた、この度の天災に、多くのかけがえのない仲間たちを失っていた。
ナリ花と〈スーレン族〉とは、その身分を越えて、互いに自然と寄り添い、再び穏やかさを取りもどした森羅万象とが、濡れ濡れと冷たい傷跡を照らし、そのあたたかな両手で、包容し乾かしていくのだった。
ある日、〈城〉のなかで、久しぶりに弟のすがたを見かけた兄は、声をかけた。
〈オッカ•ハーヤ〉で、〈スーレン族〉に聞いた話ーーこれから共に、この国を率いていくルイ花にも、教えてやりたいと思っていた話を、伝えるのだった。
〈スーレン族〉のあいだでは昔から、〈湖〉を挟んで、今王国がある側を〈セーレ(白気)〉ーー反対側を〈オンギ(黒気)〉ーーといい、〈オンギ〉のある対岸へは、決して行かず、近寄らないのだと、いう話であった。
その話をしたとき、ちょうど近くに窓があり、〈凛緑山〉の木々たちの間から、〈透青湖〉と、西に広がる向こう側の景色とが、細く見えるのだった。
ルイ花はなにも言わず、じっと窓の外を眺めていた。
同じように見つめていてナリ花が、ふと、ルイ花の顔を見たときーーはっと言い知れぬ不安が、胸を突き刺した……。
弟の斜視のある左目に、はじめて見る、不気味な輝きがーーそれは一瞬間、確かに赤みを帯びたような光が、宿り消えるのだった。
ナリ花は、襲った寒気と胸騒ぎにーーなぜだか激しい後悔を、覚えるのだった……。
それからというもの、数少なくルイ花のすがたを見かけるとき、ルイ花はいつも決まって、〈湖〉のある西方を、その表情のない目に、見据えているのだった。
月明かりとランタンに、馬を走らせたナリ花は、薄闇に包まれた〈透青湖〉へたどり着く。
風はそよとも吹かず、奇妙なまでに静まり返り、まるで息を殺すごとく、張り詰めた気配が漂っていた。
たくさんの羽虫が舞い群がる、常夜灯のランプの近く、主のいなくなった一頭の馬が、怯え落ち着かぬ様子で、暗い岸を動き回っていた。
見慣れた〈城〉の馬具をつけた馬のすがたに、ナリ花は強張るその身を、熱いような冷たいようなものが、這い上がるのだった……。
月夜の下、淡い霧が包んだ、深々たる〈湖〉のほうを見れば、小さな灯りが一つ、進んでいくのが見えた。
ナリ花は馬たちを落ち着かせ、常夜灯のある桟橋の近くに繋げると、急いで自身も、橋に繋がれていた〈木の小舟〉へ、乗り込むのだった。
〈オッカ•ハーヤ〉へきたとき、ナリ花はよく、〈スーレン族〉の者たちと、この〈舟〉で〈湖〉へ出ていた。
その同じ〈舟〉に、慣れているはずの櫂漕ぎが、急く気持ちに反して、うまくいかない。ひんやりとした空気に、動悸と脂汗が止まらず、汗に冷やされた身体が、寒さだけでなくひどく震えていた。
不気味に圧迫するようなしじまに、大きく割り聞こえる、夢幻的な水面をかく櫂の音ーー声を出したくともーー弟の名を叫びたくともーー乾いた喉が苦しく詰まり、声が出ない。荒く呼吸を繰り返すのが、やっとだった。
そのあいだにも、霧の包む先にぽつんと見えた、小さな灯りは、どんどん離れていくのだった。
そのときーー摩訶不思議なことが起こった………
冷たく震えた手で櫂を動かせば、それまでうまく進まなかった〈舟〉が、突然驚くほどに、進み出したのだ。
それはまるで、満たす〈湖〉に、力を貸してもらったようなーーそのような感覚であった……。
同時、凍えていたナリ花の心にも、あたたかな力が、湧いてくるのだった。
血の気のもどってきた手で、力強く櫂を漕ぎーーみるみるうちに、遠く離れていた灯りのもとへ、迫っていったーー。
近づいた灯りーーついに、横に並ぶかたちに、その目に弟ルイ花のすがたをはっきりと見たときーー兄ナリ花の身を、落雷のような衝撃が駆け抜けた!
〈小舟〉に真っすぐに立ったルイ花は、その手に櫂など持ってはいなかった。ーー〈舟〉がひとりでに、今や濃い霧の包む水面を、進んでいくのだった。
その光景はまるで……向かっていく対岸へ、なにかの力に……引き寄せられているようだった……。
はっとした兄は必死に、弟の名を叫んだが、その声は相手の耳に、まったく届かなかった。
ルイ花は恍惚とした、ぞっとするような面にーー前だけを、見つめていた。
二つの〈舟〉が、近づいては、また離れていくーーそのような状況がしばらく続き、〈青島〉を越え、ついにーー〈スーレン族〉が〈オンギ(黒気)〉と恐れていた、〈湖〉の対岸が、迫ってくるのだった。
とーー再び、摩訶不思議なことが起こる………
弟ルイ花の〈舟〉は進んでいくのに、兄ナリ花の〈舟〉が、当然止まったのだ。
それは目に見えぬ錨を下ろしたように、櫂をどれだけ漕げども、音ばかりに空しく水の感触を得るだけに、少しも前へ進まない。
ナリ花はついに持っていた櫂を放り出すと、不安定な足下になんとか立ち上がり、喉がかれるまで叫び続けた!
だが、とうとうーー離れた先、〈舟〉が岸へ着く鈍い音に、灯りが上陸した。
刹那、目に見える波動が、ぶわりっ………と広がり、立ち込めた霧を、一瞬にさらい消した………
〈舟〉に立ち上がっていた、ナリ花の身を押し倒し、戦慄が走り抜ける……。
ランプの灯りが消えーー岸と水上ーー距離があるなか、ゆっくりと振り返ったルイ花のすがたがーーその変わりゆく顔がーー不吉な光の存在に、はっきりと目に見えた……。
ルイ花の左目ーー外へ向いていた、小さな黒い瞳が、真っ赤に燃え光りーー中央へ移っていくーーー
その頭にも、真紅の光が走り、覆っていた髪が、一瞬に抜け落ちた。
長く固まっていた口元に、やわらかく、残忍な笑みが浮かぶ……。
恐ろしい相貌ーーそれはもう……兄の知っている弟では……血を分けた兄弟では……なくなっていた……。
〈悪魔〉が哄笑する。 ねっとりと、まとわりつくような闇のなか、身の毛もよだつ高笑いが、響き渡っていった。
〈悪魔〉の蒼白い手が、ナリ花へ向くーーー
生臭い空気が放たれーーナリ花の双眸から、涙が伝い落ちるーーー
刹那ーー倒されていたその身を、やってきた東の方角から、湖面を渡った清風が立ち上がらせた! 眩く輝く光が、覆い包むのだった!
ナリ花がーー〈陽〉を昇らせ、《アトリス》へーーーたどり着いた瞬間だった!
突如とした純白の光に焼かれ、〈悪魔〉が恐ろしい叫び声をあげる!
まわりを満たす闇も、包む生臭い空気も、苦しげに震えた。
新しき王は、己がなにをすべきかーーはっきりと、悟っていた。
光明を放つ両の掌を、〈悪魔〉のいる岸へ向けるーー胸の前へ伸ばし合わせていた手を、ゆっくりと横へ、広げるように開いていった………
すると、ナリ花の手の動きにあわせて、ぬたりとした闇が満たしていた岸を、〈純白に輝く玉砂利〉が清め、うまれ広がっていくのだった………!
いつしか分厚い雲が覆っていた夜天へ向け、〈光のベール〉が放たれる!
響き渡った、凄まじい悲鳴と共に、〈悪魔〉は奥の闇へと、逃げ出した。
直後、意識を失い、〈舟〉へ倒れ込んだナリ花の身を、再び〈湖〉の力がーー驚くべき速さに、〈セーレ(白気)〉の岸へ、運んでいくのだった。
同じ頃ーー〈城〉の窓から、息を詰め、〈湖〉の方角を凝視していたマル花王は、遠く暗い夜天へ、〈神秘的な光〉が放たれるのを見届けると、すばやく動き出した。
前もって王から、命があった通りに、第一側近のハスギはマル花王と共に、〈塔の部屋〉へ向かいーー涙を押し殺した第二側近のサザは、帰還した新しき王を迎えるべく、馬を駆けて、夜の〈湖〉へと向かった。
不思議なほど、穏やかな静寂に包まれた、螺旋階段を厳かにのぼり、部屋の扉の前ーー微かに震え、深く身を下げたハスギの肩に、王が静かに手を置くーーー
その重みを、王の第一側近は、終世忘れることはなかった。
ーーー『ニドーレ•ハスギ、我が息子たちを、どうか頼む』ーーー
最後の言葉を残して、父王はひとり、〈塔の部屋〉へ、入っていった……。
たくさんの石たちが並び飾った、円形の部屋のなかーー王は〈パドール〉に伝えられた通りに、その目を閉じてーーー〈火〉、〈風〉、〈土〉、〈雷〉、〈水〉ーーー5の力を、己の内に、強く……強く……思い描いていった…………
〈神恵ノ国〉にとって、その〈表〉にも〈裏〉にもーー歴史的な一日となった、5月十一日から一週間後、ルイ花王子は突然の病に、急逝したと、王国は人々に布告した。




