これは駄賃な
朝の連絡で久保井君が休みだと分かると、教室が少しざわつく。
最近体調悪そうだもんね、風邪かな、でも風邪だとしたら結構長引いてるよね。
そんな周りの声に、少しずつ、不安が募っていく。
久保井君はどうしちゃったんだろう。
久保井君に何が起きているんだろう。
聞きたいのに、知りたいのに、その勇気が出ないまま、半月が過ぎた。
「秋村」
「はい」
お昼休みに入る前、担任の先生に呼ばれて、峰君たちと離れる。
後ろから、先に行ってるぞー!って声がして、手を振って見送ってから、先生の所へ行く。
「久保井に渡すプリントが溜まっててな、秋村、届けられるか?」
「えっ、あ、はい」
それはもちろん、でもなんで僕なんだろう?
そう思っていたら、お前仲良かっただろ、って過去形で言われて、胸が痛む。
そっか。
先生から見ても、過去形なんだ。
僕たちはもう、仲が『良かった』人たちなんだ。
頷きながら、胸を押さえる。
他の人から見ても過去形なら、もう本当に過去なんだな、と思う。
僕は久保井君の住所を知らなかったから、帰りに地図のメモを貰うことになった。
食堂で合流した峰君たちには、先生の用件が久保井君についてだったとは特に言わなかった。
なんとなく、僕の中だけに仕舞っておきたかったから。
今、教室の僕の机の中には、久保井君宛てのプリントが入っている。
僕はそれを、誰にも知られちゃいけない秘密みたいにして、大切に仕舞い込んでいた。
放課後、約束通り先生の所へ行くと、先生はまだ戻って来ていなくて、廊下で待つことになった。
僕は係とかしていなかったから、職員室に来ることがそもそも少なくて、この辺りの光景が少し物珍しい。
掲示板の貼り紙を見て、いつかの誰かのトロフィーを見て、落ち着かない気持ちで先生を待つ。
今日、久保井君のお家に行くなんて、なんだか不思議な感じだった。
招かれていないのに、正当な理由を持って訪れる。
インターホンを押したら誰が出てくるんだろう。
お母さんかな。
久保井君本人かな。
どちらにしても、なんて言うか決めておかなきゃ、と思う。
緊張して噛みまくって、印象最悪、なんて事態は避けたかった。
でも、誰も出てこない可能性もあるから、期待しすぎないようにしなきゃ、とも思う。
久保井君がお家でゆっくり寝られているならそれでいいと思う。
もし寝ているなら、邪魔にならないように、インターホンを鳴らすのは一度だけにしようと決めた。
「すまん秋村、待たせたな」
「あ、いえいえ」
小走りで、息を切らせて戻ってきた先生を見て、首を振る。
職員室に入っていった先生を追うか迷っていたら、手招きされたので恐る恐るお邪魔した。
初めて入った職員室には、当たり前だけれど大人しか居なくて、なんだか変な感じがする。
だって学校は生徒の方が断然多いのに。
ここには大人しか居なくて、少し緊張する。
「これ地図な、一軒家だからすぐ分かると思うぞ」
「はい」
「あとこれは駄賃な」
「え?」
渡された小さな地図の上に、小さな羊羹が載せられる。
突然の羊羹に戸惑っていたら、先生が「俺、甘いの苦手なんだ」って言ってウインクしてくるから、笑ってしまった。
他の先生に配られたけれど、甘いの苦手だしなと思っていたところに丁度僕が来た、そんな感じかなと思って、頷く。
それから僕は頭を下げて、職員室を後にした。
峰君たちはもう先に帰っている。
僕たちは帰る方向が逆だったから、帰りはいつも別々だった。
地図を確認して、羊羹はカバンに入れる。
それからもう何回も確認しているけれど、最後にもう一度、カバンの中に久保井君宛てのプリントが入っているか確認した。
僕はこれから久保井君のお家に行く。
誰にも教えず、一人で向かう。
先生がくれた地図は、パソコンで調べた地図をそのまま印刷して、丸つけ用のペンで直接道順を書き込みました、みたいな地図だった。
だから道中の案内が結構適当で、『私有地につき立ち入り禁止』と書かれた看板で塞がれている道を通れと示されていた時はちょっと困った。
仕方なく迂回した後は、知らないお家が連なる知らない町を歩き続ける。
僕の帰る方向とも、峰君たちが帰る方向とも違う、久保井君のお家はそろそろ見えてくるはずだった。
けれど、なかなかそれらしいお家が見当たらない。
地図をクルクル回して、何度も振り返って、元来た道をちょっと戻って、それで漸く、入る筋を間違えていたことに気付く。
僕は、地図を見ながらどこかを目指して歩くのが初めてだった。
だから、すっかり忘れていた。
歩きながら、インターホンを押した後なんて言うか決めようと思っていたのに、地図を見ながら知らない町を歩くことに夢中で、忘れていた。
そのことにインターホンを押してから気付いて、慌てた時にはもう遅かった。
『はい』
「あっ!?僕です!秋村です!プリント持ってきた、です」
インターホンを押したら、割と直ぐに声がして。
聞き慣れない男の人の声だったから、久保井君じゃない!?って焦って、なのに僕ですとか言ってしまって、余計に焦る。
久保井君は兄弟居るって言ってたっけ?もしかしたら、お父さんの可能性だってある。
なら誰宛のプリントか言った方が良いのかな、って悩んでいたら、ブツ、と、インターホンが切れる音がした。
え、あの、どうしよう。
僕があまりにも不審だから、切られてしまったのかもしれない。
そんな、それじゃあプリントはどうしたら。
とりあえず『幸一君へ』ってメモ書きしてポストに入れたら良いかな、あれ、幸一君って、幸一君で合ってるよね?
僕は久保井君宛てのプリントを握り締めたまま、頭だけフル稼働で棒立ちしていた。
とりあえずノートを破って、表に付けておけば分かるかな……
そう思ってカバンを漁っていると、ガチャ、と、音がして。
「えっ、あ……」
見るとそこには、マスクをしていない、久保井君の姿があった。
久保井君はそのままお家から出てくると、僕の目の前に立って、僕のことをじっと見てくる。
だから渡した方が良いのかな、と思って、プリントが入っているファイルを差し出すと、久保井君はまた一歩踏み出して、受け取ろうとして、そのままよろけるから、慌てて支えた。
「だっ、大丈夫!?」
熱でもあるのだろうかと思ったけれど、支えた腕はそれほど熱くない。
けれど、僕が知っている久保井君の腕より全然細くて怖くなった。
なんで久保井君……こんなに、痩せてるの。
すぐ近くにある久保井君の顔を見ると、久保井君はキツく目を閉じていて、今、目眩がしているのかもと思う。
視界が回るから、目を閉じて一生懸命耐えている、そんな表情に見えて不安になる。
「久保井君、お家戻ろう、ゆっくりでいいから戻ろう」
僕より背の高い久保井君を背負える自信は無かったから、腕をしっかりと支えながら、お家の方へ進む。
久保井君は閉じていた目をほんの少しだけ開けて、僕の言う通り、お家の方へと歩いてくれる。
玄関に辿り着いて、僕が扉を開くと、久保井君はその扉を支えにして中に入っていく。
だから僕はそこで止まって、ファイルを差し出した。
流石に僕が中まで入るのは嫌かな、と思ったから。
振り返った久保井君は辛そうな顔をして、僕の方に手を伸ばして、ファイルを掴む。
だからそっと手を離すと、支えが無くなった久保井君の手が勢いよく落ちて、そのまま、プリントが全部散らばってしまった。
「久保井君……」
その動きに悪意なんてものは一つも感じなかった。
ただ本当に力が入らなくて、どうしようもできずに落ちてしまった感じだった。
だから僕はしゃがみ込んで、プリントを集める。
その間に、久保井君は靴を履いたまま、廊下に座り込んでしまって、動きが止まる。
「久保井君、大丈夫……?病院は行った?」
集めたプリントを廊下の端に置いて、久保井君の靴を脱がせようと、足首に触れる。
僕が完全にお家の中に入ってしまったから、玄関の扉はゆっくりと閉まって、電気の点いていない廊下が少し不気味なくらい、薄暗くなった。
「なんで」
「えっ?」
小さな、声が聞こえて。
聞き返すと、立てた膝に腕を掛けている久保井君が、こちらを見る。
久々に合った目は、何故だかこちらが泣きそうになるくらい、悲しそうな色をしていた。
「なんで?」
「なに……」
何が、そう言おうとする前に、久保井君の体から力が抜けて、壁伝いに崩れていってしまう。
「ちょ、ちょっと!本当に大丈夫?」
慌てて肩を支えると、久保井君は焦点の合っていないような目でぼーっとしていて、心がざわつく。
久保井君はここのところずっと調子が悪そうだったけれど、今日の久保井君は、とうに限界を越えている、みたいな怖さがあった。
「ご飯、食べてる?」
そっと聞くと、少し間が空いてから、緩やかに振られる首。
もしかしてずっと、ご飯を食べていないんじゃないかと思ったのだ。
だからこんなにも細くなって、体温が上がらなくて、生気が失われてしまっているのかなと思った。
僕は何かないかと考えて、そういえば学校で、羊羹を貰ったことを思い出して。
カバンを漁ると直ぐに見つかった羊羹の、包装を剥いて久保井君の口元へ持っていく。
「羊羹、食べられる?アレルギーとか無い?」
僕が聞くと、久保井君は頷く。
でも口を開いてくれなくて、全然食べようとしてくれない。
だから更に羊羹を久保井君の口元に寄せて、後は齧るだけの距離になって。
「何か食べなきゃ、久保井君」
じゃないと、久保井君が死んでしまうと思った。
そのくらい本当に生気が感じられなかった。
静かで、虚ろで、弱々しくて、今にも壊れてしまいそうで怖かった。
「久保井君、お願い、食べて」
最早僕の声は祈りになっていて、それでも久保井君は動かない。
久保井君の唇に羊羹を当ててみても、その唇が開かれることはない。
「久保井君……」
どうしよう、本当にどうしよう。
僕は久保井君の口元から羊羹を退けて、その先端を見つめる。
それから小さく、少しだけ齧って、久保井君に寄って、久保井君に触れて。
どこか遠くを見ていた久保井君が、少しだけ視線を上げるから、僕は、その唇に自分の唇を押し当てた。
それから齧った羊羹を舌で押して、久保井君の唇に届ける。
羊羹を持っていない左手で久保井君の顎を引いて、少し強引に羊羹の欠片をねじ込むと、久保井君は漸く口の中に入れてくれて、柔く、微かに口が動くから、噛んでくれているのだと分かる。
そのまま暫く見守っていると、長い時間を掛けて噛み終わった久保井君が、ちゃんと飲み込んでくれて、泣きそうになった。
こんな小さな羊羹が、久保井君の大きな体を直ぐに元気にできるとは思えないけれど、それでも何も無いよりマシだった。
僕はまた羊羹を齧って欠片にすると、久保井君に同じやり方で受け渡す。
「ゆっくりね」
噛む動作すらしんどそうな久保井君に言うと、久保井君は目を閉じて、一粒だけ、静かに涙を零した。




