悲しいキス
授業が終わると、皆早々に移動教室から出ていってしまう。
僕はまだ板書を取り終わっていなくて、慌ててシャーペンを走らせていた。
だから、気付かなかったのだ。
久保井君が、一人残って、僕を待っていてくれたことに。
「わっ!」
やっと写し終わって、慌てて荷物を纏めて、立ち上がって気付く。
移動教室では、並びが変わるから、久保井君は僕の前ではなく、隣の席で。
視界に全然入っていなかったから驚いた。
久保井君は、じっと僕を見ている。
「待っててくれたの?ごめんね、ありがとう、お待たせ」
驚きでドキドキする胸を押さえながら言うと、久保井君は視線を逸らしながら、瞬きする。
その瞬きが、待っててくれたの?っていう僕の問い掛けへの答えな気がして、胸がきゅっとなった。
そういえば、目を見たのは久し振りな気がする。
そういえば、質問をしたのは久々だった。
僕、やっぱり君のことが『』。
「……」
久保井君の、視線が戻ってくる。
その目の感情は読めなかったけれど、僕は目が合っていることが嬉しくて、ニコニコとする。
久々に目が合ったから、ただ、嬉しくてニコニコとしていた。
「友達として?」
「……え?」
何が?と思って、ハッとする。
あれ、僕、今。
「も、しかして、声に出てた?」
「……」
ぱちり、と静かな瞬きが返ってくる。
ぼぼ、っと身体中が、一気に熱くなる。
好きって、言っちゃったのか、僕。
どうしよう、それはだめだろう、僕。
「あ、の、ごめん忘れて」
せっかく、少し仲良くなれていたのに。
せっかく、少しは距離が縮まっていると思えていたのに。
僕が、壊しちゃだめじゃないか。
自分への失望と、やってしまった脱力で、その場にしゃがみ込む。
久保井君の顔は見えなくなった。
けれど、見えている久保井君の足が、こちらにやってくる。
「嫌」
「っえ」
初めて、『拒絶』の言葉を聞いたかもしれない。
久保井君は基本、なんでも答えて、応えてくれていたから。
動揺して視線を上げると、直ぐ近くでしゃがみ込んだ久保井君と、同じ高さで目が合う。
「嫌だ」
「ええ……」
駄々っ子が誕生してしまった。
でも、嫌だ、と言われましても。
普段は返事すらしないのに、今日はやたらと意志を持って傍に居る久保井君。
嫌だ、が嫌だ。って言ったら、どんな顔をするのかなと思う。
思うけれど、言ったら終わってしまう気がして何も言えない。
僕は好きと言ってしまって、忘れてほしいと言って。
それを嫌だと言われた僕は、どうしたらいいんだろう。
好きで居て、いいってことなのかな。
ちらと久保井君の目を見ると、久保井君は僕の目を真っ直ぐに見ていた。
だから、少し盗み見るだけのつもりだったのに、目が離せなくなって、焦る。
僕は久保井君の目を見ると、つい余計なことを言ってしまうから。
雄弁な久保井君の目に、僕も喋らされてしまうから。
「触りたい、触ってほしいって好き、なんだよ」
だから、だめなんだよ。
久保井君は男の人で、僕も男で、僕たちは多分、友達で。
だから僕の感情は向けちゃいけないもので、せめて秘めておくべきで。
それなのに、知ってほしくて堪らない。
分かってほしくて堪らない。
受け入れて、僕と同じものを返してほしくて、堪らない。
僕が打ち明けても目を逸らさない久保井君に、僅かな期待をしてしまう。
久保井君も、僕のことが好きになったりしないかなって、期待してしまう。
けれど暫く、ただ見つめ合ったままで。
お昼休みの時間がどんどんと減っていくのを感じて、焦る。
こんなことを言って、僕たちがお昼を一緒に食べることを止めたら、久保井君はまた、パンだけ食べる生活に戻ってしまうのだろうか。
それは嫌だな、と思った。
僕がお弁当を食べ切れないことよりも断然、久保井君の栄養の方が心配だった。
「わ」
少し考え事をして、ぼーっとしていたら、久保井君の手が伸びてきて。
その手は何処に行くのだろうと見ていたら、久保井君の手は僕の頬に触れた後、少しだけ親指で、僕の頬の表面を撫でる。
「ん」
それだけなのに、擽ったい以上の何かが背筋を駆けて、鼻から声が抜けて、顔が熱くなる。
何、今の声。
僕の声じゃないみたいな、声。
胸がドキドキして、呼吸が落ち着かなくて、でも目の前に久保井君が居るからあんまり荒い呼吸もできなくて、息をちゃんと吸って吐いているのに、酸欠みたいにクラクラする。
僕は久保井君の学ランの首元を見ていて、だから久保井君の目が、なんて言っているのかは見えなくて。
でも、その学ランが、近付いてくるから焦る。
久保井君が、僕の頬からうなじに手を移すから、焦る。
何でこっちに来るの。
何で僕が逃げられないように、逃げ道を塞ぐの。
近付く久保井君から逃れるようにして、もしくは押されるようにして。
僕のお尻を床に突くと、僕の足の傍に膝を突いた久保井君に、抱き留められた。
「っえ」
「分かった」
「へっ?」
分かった、って、声がした。
僕の直ぐ傍から、声がした。
久保井君は、分かったって言った。
それは僕の、好きって言葉に対してなのだろうか。
それとも、忘れて、って言葉に対してなのだろうか。
バナナはおやつに入りますか?
それと同じくらい、難しい問題だと思った。
『分かった』は、『イエス』に、入るのだろうか。
考えていたら、久保井君の体が離れていって、久保井君は立ち上がる。
その姿を床から見ていたら、手を、差し出されて。
握ると、ぐっと引かれたので素直に立ち上がる。
視線は、同じ高さでは無くなってしまった。
結局、分かった、は、どっちなんだろう。
どっちの言葉に対しての、分かったなんだろう。
聞こうとして、顔を上げて。
見えたのは、マスクを下ろしている久保井君の姿。
あれ、どうして、って見ていたら、いつもの流し目が降ってきて、それで。
首に両手を添えられて、親指で顎を支えられて、そう思った時にはもう、キス、されていて。
「ん!?」
今度は、明確な意志を持って鼻から声が出た。
なんで、久保井君。
そう言いたいのに、それ以上に、触れ合う唇の熱さでクラクラする。
息が上手くできなくてクラクラする。
久保井君とキスしているという事実に、クラクラする。
それから唇を食むように動かされて、息が漏れる。
立っていられなくて、フラついて、それなのに添えられた手が首を離してくれないから、逃げられない。
僕は久保井君の手首を握って、どうしたらいいか分からず目を閉じた。
久保井君の目は近過ぎて、なんて言っているのか、全然分からなかった。
最後に僕の首を一撫でしてから離れていった久保井君。
漸く落ち着いて息ができる、って思ったけれど、目を開けるとまだ直ぐ近くに久保井君の顔があって息が止まる。
けれど、固まっていたらそっと久保井君が離れていったので、薄く細く息を吐いた。
僕は滲んでいた涙を瞬きしてどこかへやる。
久保井君はマスクを着け直していて、もう閉店なんだ、ってぼんやりと思った。
それから久保井君は僕の手を取って、握ったり緩めたりを繰り返していて。
「っふ、なにしてるの」
思わず笑うと、視線を感じる。
見上げると、久保井君が僕を見下ろす目と目が合う。
「触ってほしいって言った」
「……え」
それは多分、簡単な答えだった。
僕は、久保井君も触れたいって思ってくれたからキスをしてくれたのだと思った。
けれど久保井君は、僕が触れてほしいって言ったから、キスをしてくれていた。
それはとても、とても簡単な答えだった。
僕が望んだから、くれただけ。
優しいようで、そこに久保井君の気持ちは無い、とても悲しいキスだった。




