僕じゃなくて
僕はお粥を沢山カバンに詰めて登校した。
いつもより重いカバンが、久保井君を元気にする一部だと思うと全然苦じゃなかった。
担任の先生とは特に話していない。
朝一番に目が合った時、僕が小さく頷くと、先生も頷いていた。
多分それだけで、ちゃんと久保井君にプリントを渡せたってことが伝わったんだと思う。
久保井君は今日もお休みだった。
それはそうだろうなと思う。
お家の中の移動だけで、あれ程辛そうだったから。
久保井君は明らかに栄養が足りていなかった。
だから早く、早くお粥を届けたくて仕方なかった。
けれど学校はいつも通り、しっかり午後まで授業があって、僕は峰君たちとお昼を食べたり、久保井君の居ない移動教室で授業を受けたりしながら、ずっと焦りを抱えて過ごしていた。
昨日までは、大丈夫かなぁとただ心配していただけだったのに。
久保井君の状態を目の当たりにした今は、そんな悠長にしていられなかった。
放課後になると、峰君たちに挨拶をして走って学校を出る。
帰りに走るなんて初めてのことだった。
直ぐに息が切れて立ち止まりそうになったけれど、僕は一秒でも早く久保井君に会いたくて、だから足を止めてなんていられなかった。
昨日通った道はまだよく覚えていて、通ることができない私有地とか、よく吠えるわんことか、昨日は洗濯物が沢山干してあったけれど、今日は全て無くなっている大きなお家とか。
そういったものを、全部走って通り過ぎる。
一つ一つチェックポイントを通過するみたいに、確認しながら通り過ぎる。
そして昨日、入る筋を間違えた道に差し掛かって、今日はちゃんと正しい道に入った。
今日は迷わなかったから、多分昨日の半分くらいの時間で久保井君のお家に辿り着けたと思う。
久保井君のお家は、昨日と何も変わらないまま、今日もちゃんとそこに存在していた。
インターホンを押す前に、僕は深呼吸をして息を落ち着かせる。
それから、カバンの中にちゃんとお粥が入っているか確認した。
久保井君は何味が好みだろう。
何味を選ぶんだろう。
苦手な味がこの中になければいいなと思う。
僕は久保井君を元気にする為にここに来たから。
久保井君にはもう我慢をしてほしくなかった。
久保井君をもう辛い目にはあわせたくなかった。
まだ高校生なのに、自分が好きだと思える範囲をちゃんと理解している久保井君。
まだ高校生なのに、結婚とか、子供とか、家系とか、そういう遠い未来のことまでちゃんと考えている久保井君。
誰かに言われたりしたのだろうか、と不安にもなる。
女の人と結婚しろとか、子供を儲けろとか、家系を絶やすなとか。
だとしたら僕が叫んでやる、と思う。
まだ高校生とか、それ以下の久保井君に、なんてことを言うんだ、と。
でも大人相手でも、結婚しろとか、そんなことは言っちゃいけないと思う。
その人の人生はその人のもので、誰にも強制できるものではないと思うから。
でも、優しいから、久保井君は受け取ってしまうのだろうなとも思う。
優しいから、受け入れなくていいのに、受け入れる必要なんてないのに、受け入れようとして、苦しんでいるのかなと思う。
誰かに直接言われたんじゃないとしても、どこかで見たり聞いた話だとしても、自分で思い至ったのだとしても、そんなこと、受け入れなくていいのにと思う。
だって結婚をして、子供を授かる人も居れば、あえてそうしない人も居て、望んでも、授かることができない人も居て。
複数子供を産む人も居れば、一人を産む人も居る。
結婚をしたのに、幸せじゃない人も居て、子供が居ても、幸せじゃない人も居る。
人の数だけ、本当にそれぞれの選択があって、それは誰も邪魔できるものではないと思う。
邪魔なんてしちゃいけないと思う。
自分が苦労したからお前も苦労しろなんて言葉や気持ちは、口に出しちゃいけないもので、口出しなんて、できるものじゃないと思う。
僕は多分、昨日からずっと、静かに怒っているんだと思った。
誰かの中にある正しさを、無理して受け入れようとして苦しんでいる久保井君自身と、その正しさを僕にも押し付けようとした久保井君に、ちょっとだけ怒っている。
久保井君と僕、二人共が、不幸せになるところだったから。
けれど、それ以上に、抱き締めたいとも思っていた。
自分の好きを好きと言えない苦しさは、久保井君のこれまでに比べると少ない期間かもしれないけれど、僕も体験して、十分に苦しかった。
だから沢山好きって伝えて、久保井君の好きも伝えてもらって、僕は久保井君と、二人で幸せになりたいと思う。
男の人とか、女の人とか、関係なく。
好きな人には、ただ幸せで居てほしいと、僕は思う。
「はい」
「あ、僕、秋村です」
「ん」
インターホンから声がして、今日はこの声が久保井君のものだと分かる。
昨日聞いた声よりちょっとだけ元気がある気がして、少しだけ安心した。
玄関を見つめていると、鍵が開く音がして、久保井君が姿を覗かせる。
さっきまでずっと会いたくて仕方なかった久保井君は、実物を見た瞬間、急に緊張してきて、どんな顔をすればいいか分からなくなってしまった。
「き、来たよ」
僕のぎこちない笑顔と片手を上げる動きを見た久保井君は、身を引いて扉の後ろに姿を隠してしまう。
けれど扉は押さえて開けられたままだったから、来いってことかなと思って、恐る恐る、歩み寄って足を踏み入れる。
「おじゃましま、わっ!」
ガチャン、と玄関が閉まる音がして、扉を支えていた久保井君の腕が僕に巻き付く。
僕に凭れるとか、僕を支えにするとかじゃなく、明確に意志を持って僕に巻き付いてきた腕が、僕の背をちょっと雑に撫でるからくすぐったい。
僕もお返しにぎゅっと抱き締めると、僕の背で暴れていた手が、次第に大人しくなった。
「来たよ、久保井君」
「ん」
「会いたかった」
「……ん」
抱き締めた久保井君の体はやっぱり、僕が知るよりも断然薄かったけれど、昨日の力が入らない感じとは違って、今はちゃんと久保井君自身の力で立っていることを感じる。
だから僕もぎゅうぎゅうと抱き締めて、久保井君の体温を感じ取る。
久保井君はちゃんと温かくて、今日もちゃんと生きていた。
良かった、本当に良かった。
「久保井君、大好き」
溢れた想いをそのまま言葉にすると、久保井君の腕から力が抜けて、それからもう一度、ちゃんと抱き締められる。
そのまま暫く抱き合って、やがて久保井君から鼻をすする音が聞こえたから笑った。
「泣いてるの、久保井君」
「……るせ」
「嬉しい涙?」
「……うん」
「ふふ、久保井君も僕のこと好き?」
「……好き」
「んふふ」
久保井君が素直で可愛い。
久保井君はその体の内側に気持ちを押し込めちゃうから、これからは僕が積極的に聞いて、引き出さなきゃと思う。
嬉しい気持ちで満たされながら久保井君の背中を摩っていたら、久保井君は眼鏡を押し上げて、目元を強引に拭うから腕を掴む。
目が痛くなっちゃうよ、と久保井君の顔を覗き込むと、思ったより間近で目が合って、それから、そのまま久保井君に噛み付かれた。
「んっ」
キスだ、と思う。
凄く久々に久保井君とキスしている。
昨日の羊羹を渡した時もキスだけれど、あれは心配の方が強かったから。
今日のキスは気持ちの籠ったキスで、力が抜けて、息が上がる。
「はっ、ん」
さっきまでは久保井君が泣いていたのに、今は僕が泣いていた。
気持ちよくて、息苦しくて、それすらも刺激で、涙が出る。
必死に久保井君の体に掴まる僕の腕からはカバンが落ちて、それでも久保井君は止まってくれなくて、足の力も抜けた僕が座り込んでも、久保井君は追い掛けてキスを振らせてくる。
僕の背中には棚があって、もうそれ以上の逃げ場がなくて、久保井君の体に回していた手で久保井君を押すのに、全然力が入らなくて、悔しい。
本当は嫌じゃないって、自分でバラしているみたいで悔しかった。
僕もキスに応えている時点で、もうとっくにバレているかもしれないけれど。
「ん、」
最後にキツく吸われて、久保井君が離れていくから目を開ける。
座り込んだ僕を上から覗き込む久保井君は、お家だからか、スウェットだからか、いつもよりセクシーな感じがしてクラクラした。
「ぼ、僕じゃなくてお粥食べて」
「はっ」
僕の負け惜しみみたいな言葉は、笑った久保井君に軽く触れるだけのキスをされて完敗だった。
それから先に立った久保井君に手を引かれて、立ち上がる。
けれどまだ弱っている久保井君は僕を支えられなくて、よろけるから僕が久保井君に抱き付く形になって。
そんな僕を見た久保井君が、にいと笑うから嫌な予感がする。
「あっ、こら」
結局またキスをして、フラフラになって。
でも、幸せだった。
久保井君が笑ってくれていて、何よりも嬉しかった。




