嫌だ
自分のお家に帰って、急いでシャワーを浴びて、もうお風呂入ったの?って不思議そうにするお母さんと一緒にご飯を食べて、僕は自室でスマホを握り続ける。
ずっと肌身離さず持っていたいけれど、お風呂とご飯中は流石にだめだから、急いで全てを終わらせた。
だから後はもう待つだけだった。
久保井君が目を覚まして、僕に連絡してくれることを、待つだけだった。
けれど、連絡は全然来ない。
まだ寝ているのかも、って思える心の余裕は、一時間経つごとに薄くなっていく。
あの小さな羊羹だけじゃ、やっぱり久保井君のエネルギーには足り得なかったのかもしれない。
眠ったんじゃなくて、昏睡だったらどうしよう。
久保井君のお家の人は帰ってきているのかな。
久保井君のお家の電話番号を、今から学校に電話して聞いたりできるのかな。
不安で、何か行動をしようと思うのに、思うだけに留まって、やっぱり動けない。
あまり大事にはしたくなかった。
多分久保井君が、嫌がるだろうなと思ったから。
久保井君、お願いだから、明日まで耐えてほしい。
久保井君の為にお粥を沢山買ったんだ。
明日ちゃんと届けるから、どうか耐えてほしい。
好きって言葉の真相は、聞けなくてもいいから連絡がほしい。
ブブッ、とスマホが震えて、飛び起きる。
いつの間にか眠ってしまっていたようだった。
慌てて飛び起きてスマホを見ると、メッセージを一件、受信していて。
開くと、『幸一』って名前のアカウントから、『起きた』とだけメッセージが来ていた。
だから僕は心底安心して、肺の中の空気が全部抜ける程息を吐いた。
良かった、本当に良かった。
目が覚めて、本当に良かった。
それから僕はメッセージを打ち始める。
『おはよう、体調はどう?無理しないでね。でもご飯は食べてね!明日はお粥を持って行くね。卵味と、梅味と、鮭味と、いろんな』
そこまで打っていたら、画面が動いて、新しいメッセージが表示される。
『忘れて』
忘れて。
僕はその文字を見て、固まってしまう。
なんて打とうとしていたのか全部頭の中から消えてしまって、だから打っている途中だった文字も全部消す。
それで、『嫌だ』って、ただその一言だけを送った。
送ってから、いつかの久保井君みたいな反応だと思った。
僕が、好きって思わず言ってしまって、忘れてって言った時、久保井君が『嫌』って言った。
今は久保井君が好きって言って、忘れてって言っていて、僕が『嫌だ』って言ってる。
僕が忘れてって言った時、久保井君はこんな気持ちだったのかなと思う。
忘れるなんて、絶対、絶対嫌だ。
例え僕のことじゃなかったとしても、久保井君が言葉にしてくれた『好き』を忘れて、無かったことにはしたくなかった。
僕は攻略本を最初の一ページから丁寧に読むタイプで、だから久保井君がくれる情報は全部、見逃したくなかった。
ううん、違う。
攻略本だなんて関係ない。
ただ好きだから、全部知りたかった。
攻略したいからじゃない。
ただ好きだから、全部知っておきたかった。
それから僕は、漸く気付く。
僕が読んでいたのは、読みたかったのは、久保井君の攻略本じゃなくて、ファンブックみたいなもの。
久保井君のことが沢山書かれた設定資料集のようなものを、端から端まで、全部読んでいたかったのだと。
それって物凄く好きってことみたいだなと思って、顔が熱くなる。
僕は久保井君が好き。
久保井君は、どうなんだろう。
スマホの画面では既読の表示が出ているのに、久保井君からの反応は無い。
また寝てしまったらどうしようと思って、もう一度、『嫌だ』って送る。
そしたらまた直ぐに既読が付いて、アプリを閉じてしまった訳では無いのだと分かる。
だから、こうなったらもう、久保井君からの反応があるまで送ってしまおう、とヤケになる。
『何を好きって言ったのか知りたい』
『教えてほしい』
『お願い』
後はなんて言おうか、教えてくれるまで寝ないぞ、とか、明日もお家に行っちゃうぞ、とか。
でも久保井君に負荷を掛けたい訳じゃないから、迷う。
そしたら、画面が動いて、新しいメッセージが表示される。
『電話がいい』
電話、もちろん、もちろん大丈夫、今もう一時半だけれど、小声ならお母さんも許してくれると思う。
だから直ぐに『いいよ!』って返す。
送ってから、ビックリマークまで付けた食い気味の自分の反応がちょっと恥ずかしくなった。
でも直ぐにスマホが震えて、着信を知らせるからそれどころじゃなくなる。
僕はちょっと姿勢を正してから、応答ボタンを押した。
「はい!」
「……ごめん夜中に」
「う、ううん、ううん、大丈夫だよ、連絡ありがとう」
緊張で勝手に声が大きくなるから、小さく話すことを意識する。
でも、すぐ耳元で久保井君の声が聞こえるのはちょっと刺激が強すぎた。
僕はスマホを耳から少しだけ話して、久保井君の反応を待つ。
けれど久保井君は黙ったままで、顔が見られないと不便だ、と思う。
久保井君は今辛くないかな。
久保井君は今どんな表情をしていてるのかな。
久保井君の目は、今何を見ているのかな。
「好きだ、秋村。でも忘れて、普通に戻ってほしい」
「……えっ」
好きって言われた、嬉しい、でも。
「山口たちと、普通に過ごして、俺のことは忘れてほしい」
「……な、なんで?」
普通って何?
忘れてって、なんで。
両想いで嬉しいのに、好き同士なのに、なんで、違う人と一緒に居ることが普通なんだろう。
色々聞きたいのに言葉が纏まらない。
「俺は同性しか好きになれないから」
「……どうせい、」
どうせい、同性。
つまり久保井君は、男の人が恋愛対象ってことで。
それと、僕が久保井君に好きって言われたことを忘れないといけない理由が一致しなかった。
だって僕は男だ。
それから二人とも、お互いのことが好き。
何も問題なんて無い筈なのに。
「今ならまだ戻れる。俺に構わず女の人と幸せになって」
「なっ、なんでそんなこと言われなきゃいけないの」
「……は」
「僕の未来、勝手に決めないで。男の人とだって幸せになれる、でしょ」
久保井君が急に女の人とか言い始めるからむっとする。
だって僕が好きなのは久保井君だ。
男の人とか女の人とか関係ない。
久保井君を、好きになったのに。
久保井君が、好きなのに。
「俺と居ても未来がない」
「は、はあ?」
「子供が産まれない。秋村の家系が途絶える。そんなのだめだろ」
「……家系」
そんなこと、考えたこともなかった。
家系、と言われて思い出すのはお母さんのこと。
お母さんは僕が男の人を好きになって、男の人と生きていくって言ったら、怒るのだろうか。
もしくは、泣くのだろうか。
それは悲しいことだなと思う。
でも。
「でも、好きな人と一緒に居て何が悪いの。家系も大事かもしれないけど、好きな人と一緒に居ることの方が大事じゃないの。好きな人ができただけでも嬉しいのに、その人と両想いになれてもっと嬉しいのに、なんで、同性だから、って離れなきゃ、いけないの……僕の好きっ、を、勝手に書き換えっ、ないでよ。僕はっ、久保井君が、好きなんだよっ」
言いながら勝手に涙が出てきて、悔しくて仕方ない。
僕は久保井君が好きで、久保井君も僕が好きで。
それで、十分じゃないか。
家系とか、子供とか、大事かもしれないけど、それが全てじゃないと思う。
まだまだ言いたいことはあるのに、嗚咽が止まらなくて苦しい。
こんなに泣くのはいつぶりだろう。
もう思い出せない程に久々だった。
「秋村の人生を壊したくない。俺はそのうちちゃんと秋村を忘れる。だから安心して」
……そんな。
だから、僕から離れようとしたの?
だから僕と離れても平気そうにしてたの?
だから僕を忘れる為に、僕を見なかったの?
僕は久保井君が理解できなかった。
好きなら、好き同士なら、一緒に居た方が良いに決まってる。
僕はそう思うから、久保井君の考え方が全然理解できない。
でも、僕のことを想って、僕の人生を想って、どんなに辛くても、動けなくなるくらい弱っちゃっても、僕を、僕の人生の守ろうとしてくれたんだってことは分かった。
そしたら、泣いてなんている場合じゃないと思った。
今伝えないと、久保井君はまた心を隠してしまうと思ったから。
「もう既に、僕は久保井君のことが好きだよ。もうとっくに、僕の人生の中に久保井君が居る。久保井君はもう僕の一部なんだよ。だから、責任……取って、久保井君」
これは賭けだった。
僕を想ってそこまで考えてくれていた久保井君への、賭けだった。
久保井君は多分、僕の人生の責任を取る資格が無いって思ってるんだと思う。
責任を取れないんじゃなくて、取る『資格』が、自分に無いと思ってるんだと思う。
だから、責任を取ってって、無理やり押し付けた。
僕の人生の責任を、僕が久保井君に押し付けた。
僕は幸せになるつもりしかない。
久保井君と幸せになる未来しか考えない。
久保井君と一緒に居て、幸せになれないならそれは僕に原因があって、それは絶対、同性だからなんて理由じゃないはずで。
正しさなんてその人の中にしか無いと思った。
子孫を残すのが正しいと思う人はそうすれば良くて、子孫を残す選択をしないことが正しいと思う人も居て良い筈で。
それなら僕の、性別なんて関係なく、好きな人と、好きになった人と、一緒に居たいと願うことも、正しさと言えると思った。
人それぞれの正しさがあって、皆、自分が思う正しさを全うすればよくて、僕の正しさは、他人に矯正されるものじゃないと思った。
それは久保井君にだって言えることだった。
久保井君の正しさを、僕に勝手に押し付けるのは違うと思った。
それに、久保井君の中の正しさは、きっと他のところにあると思った。
久保井君が言ったことは、本心で言っていることではないと思ったのだ。
誰かに言わされているような、歪な正しさに感じた。
「僕が好きなら、僕と一緒に居て。僕は好きな人と一緒に居たい。僕の好きな人は久保井君。それが僕の全てだよ」
僕の願いは、伝えた。
後をどうするか、どうしたいかは久保井君の選択だった。
それでも女の人と、って言うなら、それが久保井君の正しさなのだと思うことにする。
だからって、僕は付き合える女の人を探し始める訳じゃない。
その久保井君の正しさを、受け取るか受け取らないかは、僕の選択だと思うから。
僕が久保井君をいつか忘れられて、もし次に好きな人ができたら、その時は僕は、その人と一緒に居る。
それは久保井君が望む通り女の人かもしれないし、久保井君じゃない、男の人かもしれなかった。
好きになったら告白をして、振られたら忘れる努力をして、もし両想いになれたら、僕はその人と一緒に居る。
相手が女の人でも、男の人でも、僕の選ぶ道は変わらない。
僕の中の正しさは、『好きな人と一緒に居る』ただそれだけだった。
「……後悔しても知らないぞ」
久保井君の声は、小さかった。
でも僕は聞き逃さなかった。
だから、電話越しだけれど、頷く。
「後悔しない為に伝えたんだよ」
僕の言葉に、笑う吐息が聞こえる。
「頼もしすぎだろ」
呆れて、でも優しい声が聞こえる。
それは即ち、参りましたの合図だった。
「好き、久保井君」
「……俺も」
「誰を好きなの」
「……秋村」
「……うん、うん。嬉しい、ありがとう」
言ってくれて、ありがとう。
伝えてくれて、ありがとう。
僕を想ってくれて、ありがとう。
やっと、ちゃんと久保井君の好きって言葉を受け取ることができた気がする。
忘れなくていい好きを、やっと、渡してもらえた気がした。
「明日、またお家に行くね。お粥いろんな種類買ったんだ。まずは食べて元気になろうね」
「……ん」
「絶対、絶対行くからね」
「分かったよ」
念押しすると、笑う吐息が聞こえる。
だから僕も笑って、おやすみの挨拶をする。
電話を切って時計を見ると、あともう数時間で起きなきゃいけない時間で、僕は慌ててお布団に入った。
でも久保井君とのやり取りでドキドキしていて、全然寝付けなくて、僕は久々にお母さんの大きな声を聞く。
起きなさい!って叫ばれたの、いつぶりだろうと思って、ちょっと笑った。




